
【神奈川・鎌倉市】薬王寺はもともとは梅嶺山夜光寺という真言宗の寺院だったが、鎌倉時代の永仁元年(1293)、荒行を終えて療養場所としてこの寺に滞在した日蓮上人の弟子・日像が時の住持と数日間宗教論議・論争を行った末、日蓮宗に改宗した。
寛永年間(1624~1644)、駿河大納言徳川忠長公の妻・松壽院殿の援助で僧日達上人が中興開山し、大乗山薬王寺と改称した。 駿河大納言徳川忠長公は徳川三大将軍家光の弟で、幕命により配流地の高崎で自刃した。
松壽院殿はこの寺に忠長公の供養塔(五重塔)を建て、永久追善菩提のために多額の金子と広大な土地を寄進した。 享保五年(1720)の火災により、三千坪の広大な境内に建つ五重塔や諸堂を焼失した。 その後再興されたが、明治維新の神仏分離令による廃仏稀釈の嵐に遭って荒廃し、無住持時代が50年以上続いた。 大正三年(1914)から第50世と第51世の二代の住持による70年の尽力で復興した。 日蓮宗で、本尊は久遠本師釈迦牟尼仏。
「薬王寺」と刻まれた門柱から境内を眺めるが、徳川家ゆかりの格式高い寺だったというイメージは懐けない。 正面奥に白壁の本堂が建ち、引き戸の脇間の白壁に設けた花頭窓がいい。 本堂前の左右に2基の層塔が立つが、左側の緑色で円形の笠を積み上げた九重層塔はまるで相輪を表すような珍しい形をしている。
境内に入って直ぐ右手に低い石柵で囲まれた駿河大納言徳川忠長公の供養塔が立つが、笠上の露盤部に三葉葵の紋が彫られていて徳川家ゆかりのお寺であることが分かる。
本堂左手の石段脇から上が墓所になっていて、石段を上りつめた正面に岩崖を背にして観音堂が建つ。 観音堂の右手に墓所が広がり、多くの石仏・石造物が鎮座する台座を敷き詰めた大きな「やぐら」、崖の岩壁にくっつくように建てられた熱田稲荷社、徳川家康の孫である蒲生忠知公の妻と娘の墓碑の大きな宝篋印塔がある。 石柵に囲まれた宝篋印塔は二重塔式で高さ約3メートル、相輪をなす請花・反花から笠にかけて題目が、また塔身にはそれぞれ院号と造立年号が刻まれている。 ちなみに、娘の梅嶺院はわずか12歳で他界したとのこと....合掌。


門柱から眺めた境内..薬王寺は岩崖と樹林を背にしてひっそりとある

入母屋造桟瓦葺の本堂..享保十二年(1727)建立で近年の再建か

向拝の屋根に獅子と花の留蓋瓦が乗っている..本堂中央に鎮座する日蓮聖人座像は徳川第11代将軍家斎の命により造立



本堂前の左に立つ緑色の九重層塔..9つの円形の笠なので相輪のようだ/正面扉は寺紋が入ったガラスの引き戸..「大乗山」の扁額が掲げられている/本堂前の右に立つ十三重層塔..初層軸部に「宗祖日蓮大聖人 七百遠忌報恩」の刻

入母屋造桟瓦葺の鐘楼


鐘楼に下がる梵鐘


山門を入った直ぐ右手にある徳川三代将軍家光公の弟駿河大納言徳川忠長公の供養塔..笠上の露盤部に三葉葵の紋..右の板碑は不詳/供養塔には、建立した松孝院殿自身の法号の他、夫忠長公・両親・兄弟の法号などが刻まれている

墓所の岩崖を背にして建つ露盤宝珠を乗せた宝形造銅板葺の観音堂..元は釈迦堂だったが観音菩薩像を安置してから観音堂に改称


周囲に切目縁を巡らし、正面脇間に長めの花頭窓/向拝の虹梁に大きな蟇股を乗せ、鰐口が下がる


観音堂には観音菩薩像が祀られている..以前の釈迦如来像も安置されていると思うが/観音堂の右後方の岩崖にある大きな「やぐら」

「久遠廟」の石柱が立つ「やぐら」..台座の上に釈迦如来坐像を中心に多くの墓碑(石仏・石造物など)が整然と並ぶ



合掌する釈迦如来坐像/舟型観音石仏、板碑型、箱型、宝篋印塔などの墓碑群/「やぐら」入口左右に合掌する舟形光背四菩薩像が鎮座..摩滅が激しいが十一面観音像とみられる

観音堂の右手の墓所の崖裾に、笠を乗せた歴代住持の墓碑が並ぶ

四国松山城主蒲生忠知公(徳川家康の孫)の妻松壽院(左)と娘梅嶺院の墓碑..見事な相輪を乗せた高さ約3mの多層式宝篋印塔で、相輪(請花反花)から笠にかけて題目が刻


左は元禄十三年(1700)造立で塔身に「松壽院殿」、右は正保二年(1645)造立で塔身に「梅嶺院殿」と刻/一段下の乳母の宝篋印塔越しに眺めた妻と娘の宝篋印塔..松壽院は899歳、梅嶺院は僅か12歳で他界


墓碑の宝篋印塔..搭身側面に髭題目が刻まれている/崖の岩壁に建てられ前垂注連が掲げられた熱田大明神を祀る熱田稲荷社
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