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何気ない風景とひとり言

寺社&石仏巡り、小さな旅、散策...ふと目に留まった何気ない風景...切り取って大切な想い出に!

東照寺 (横浜)

2018年04月13日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】江戸時代の慶安二年(1649)、大曽根大乗寺の第3世生外意鉄大和尚によって創建されたとされる曹洞宗の寺院。 曹洞宗の本山は永平寺と総持寺で、九州鹿児島の薩摩藩主島津公の信仰が厚く、本堂正面に、島津斉宣公の筆による瑠璃光明界の額が掲げられている。 宗旨は曹洞宗(禅宗)、本尊は木造薬師如来坐像で、行基作と伝える。 武蔵都筑十二薬師霊場第11番札所。 由緒ある「横浜七福神」のひとつで布袋尊を祀っている。

門柱の傍に赤い前垂れをした駒型光背六地蔵尊像や正面合掌の青面金剛庚申塔が鎮座....本堂に向かって参道を進むと、眩しいほどに紅葉した枝を広げた1本の銀杏の古木が聳え、弥勒の化身とされる布袋尊が満面に笑みをたたえて迎えてくれる。
正面に鮮やかな緑青屋根の本堂が建つが、高い基壇の上にさらに高床式の造りに建てられていて、なにか上から目線のような威圧を感じさせる。 亀腹の大きさが気になったが、回縁下は全面が格子で覆われていてよく見えない。 登高欄のある階を上って本堂に....正面は古民家風で、白壁にガラス入り格子戸と格子窓とがあるだけの簡素な造りだ。 太い鎖樋が下がる向拝屋根があるものの、向拝は参拝するような雰囲気がない。
境内に2つの手水鉢が置かれているが、いずれも水口がないので飾手水鉢のようだ。 飾手水鉢の一つは初めて見る形で、ブロック状に石を組み合わせたような珍しい造り。
聖観世音菩薩像の台座を囲む擬宝珠を乗せた石柵の傍に、元禄や寛延の元号が刻まれている十数基の無縁墓塔が地面に並べられているが、置かれた状態から少し 粗末に扱われているようにみえる....気のせいかな、合掌。
  
門柱越しに眺めた境内/門柱の傍に佇む赤い前垂れをした駒型光背六地蔵尊像/門柱前でホウキをもって参詣者を迎える小坊主

門前から眺めた境内..銀杏の巨木と満面に笑顔をたたえる布袋尊像が目に入る
 
門柱近くの参道脇に鎮座する青面金剛庚申塔と赤い帽子と前垂をした地蔵尊像/正徳四年(1714)造立の駒型青面金剛庚申塔(日月瑞雲、2鶏、邪鬼、3猿)

参道から眺めた境内と本堂
 
本堂前境内の隅に鎮座する赤い帽子を被り前垂をした六地蔵尊像/昭和四十三年(1968)造立の布袋尊像..石碑に「港北七福神」とある

満面に笑みをたたえて参詣者を迎える布袋尊像

本堂前の切石敷参道に「薬師香」と刻まれた常香炉が置かれ、六地蔵尊像が線香を供える参詣者を見守っている

入母屋造銅板葺の本堂..大棟中央に桐紋、左右に文字紋
  
流れ向拝から鎖樋が蓮花形の天水桶に下がる/手前の石には彫像と文字が刻まれているが摩滅が激しく不鮮明/階上の向拝縁の両側に獅子の狛犬、右に小坊主像が鎮座

本堂正面は白壁と腰高ガラス格子戸..入り口に「東照禅寺」の扁額

擬宝珠柱を設けた登高欄の高い階

本堂左手の擬宝珠高欄付き縁に設けた小さな屋根下に釣り下がる半鐘
  
半鐘に「南無釈迦如来」の刻/昭和五十七年(1982)造立の聖観世音菩薩像/昭和五十七年(1982)造立の生物慰霊碑
 
文化元年(1804)造立の石坂敷石供養塔..上に舟光背型如意輪観音像が鎮座

聖観世音菩薩像を囲む柵傍に置かれた無縁墓塔群..板碑型、箱型、舟形光背型、起り舟形光背型、角柱型などに元禄や寛延の元号が刻まれている
 
境内に置かれた2つの飾手水鉢..手前は石を組み合わせたような珍しい造りだ/「灌浴」と刻まれた手水鉢越しに眺めた本堂
 
境内に聳える銀杏の巨木越しに眺めた本堂/境内に置かれた円形方孔形式銭貨の形をした石造物

本堂右手に建つ近代建築の庫裡
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塩谷寺 (横浜)

2018年04月11日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】平安時代仁寿元年(851)、第3世天台座主円仁(慈覚大師)が開山となって創建した天台宗の寺院。
寺伝によると、皇后の病や世継ぎの問題(子供3人)に悩んでいた第55代文徳天皇が、慈覚大師から横浜高田の地に湧き出でる霊験あらたかといわれる霊泉の献上を受け、霊泉を使って儀式を執り行わせると皇后の病が平癒し、子供に注いだ雫が輝いた三人目(後の第56代清和天皇)を世継にすることを決めたという。 このことから文徳天皇は、この霊泉の湧き出でる地にお寺を建立するよう命じたので、慈覚大師がこの地を再訪、桜の樹で一仏二菩薩を彫刻し、安置する伽藍を建立して塩谷寺と名付けられた。
その後衰退したが、この地の農業が盛んになるとお寺も徐々に復興され、江戸時代慶安二年(1649)年に幕府から5石4斗の寺領を賜った。 元禄年間(1688~1704)、農耕馬の供養のために客殿に馬頭観世音菩薩が祀られ、多くの参詣者から崇敬された。 それ以降、本尊がそれまでの薬師如来から馬頭観世音菩薩に変わり、檀信徒の篤い信仰により現在まで護られている。 宗旨は天台宗で、本尊は馬頭観世音菩薩像。 准秩父三十四観音霊場第28番(馬頭観世音菩薩)・29番(如意輪観音菩薩)、多摩七薬師霊場第1番、稲毛七薬師第1番の各札所。

道路から鬱蒼とした樹林の中に埋もれるように山門が見える。 中央が切石敷になった参道を進むと、両側に瓦屋根を乗せた羽目板の袖塀を設けた山門が建つ。 山門は四脚門で飾り気のない造り、門前は古刹の雰囲気を感じさせる。
山門をくぐると、直ぐ右手に鎮座する水子地蔵像と六地蔵尊とが参詣者を迎えてくれる。 境内は手入れが行き届いていて、気持ちがいい。 また、殆んど物が置かれていないので、正面から見る本堂はシンメトリック的な感じが漂う。 本堂の直ぐ左手に木立に囲まれた放生地があり、中島の植栽の中に、オレンジ色の屋根の弁財天を祀る社がひっそりと鎮座している。
なお、本堂の左側の先に仁王門があって、石段を上がると旧本堂の跡地で、そこに薬師堂が建っているらしいが失念した。

大きな寺号標石が立ち、木立に覆われた趣がある門前..寺号標石は昭和四十三年(1968)造立、道路から中央が切石敷の参道が続く

古刹を感じさせる雰囲気の門前..山門両側の袖塀は瓦屋根を乗せた簓子塀のようだ
 
切妻造桟瓦葺の山門は四脚門                      虹梁中備に透蟇股、獅子の木鼻

山門から眺めた境内..正面に本堂、右手に水子地蔵地蔵像や六地蔵尊像が鎮座

地蔵堂(覆屋?)に鎮座する六地蔵尊像、屋根だけの覆屋に鎮座する水子地蔵像
  
地蔵堂に鎮座する丸彫りの六地蔵尊像/屋根だけの覆屋下に鎮座する水子地蔵像..右手に未開蓮、左手で子供を抱く/切妻造桟瓦葺の手水舎..大正七年(1918)造立で、手水鉢に「洗心」の刻

入母屋造銅板葺の本堂

本堂正面に一切物が置かれていないこともあり、手入れが行き届いた境内であると感じられる
 
流れ向拝の水引虹梁中備に龍、木鼻に獅子の彫刻..本堂入口はガラス入り腰高格子戸と桟唐戸、脇間に小さな花頭窓/向拝に下がる鰐口、腰高格子戸の上に「塩谷寺」の扁額
 
本堂の周りに擬宝珠高欄のある切目縁を設けている..正面と側面の白壁の小壁には欄間のような装飾

落ち着いた雰囲気が漂う本堂..流れ向拝の軒から鎖樋が蓮花を模した天水桶に下がる
  
本堂前に立つ昭和四十五年(1970)造立の石燈籠..火袋に彫刻,笠に少し特徴がある/昭和五十三年(1978)造立の十五重石塔..初層軸部の月輪に合掌する四方仏、輪郭を巻いた基礎に格狭間/前庭に佇む石燈籠..笠部に特徴があり、特に蕨手が異形だ

本堂の左手にある放生池

放生池の中島に鎮座する弁財天
 
中島への石橋と中島に佇む切妻造鉄板葺の弁財天の社

本堂右手に続く庫裡の玄関
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蓮勝寺 (横浜)

2018年04月09日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】正確な創建年代は不詳だが、鎌倉時代正和四年(1315)の創建とされている。
山門前の大きな六字名号塔に「宗祖法然上人七百五十年御忌 當寺開山蓮勝上人六百年遠忌 當寺開創六百五十年記念」と銘刻され、また、円光大師法然上人が1212年(鎌倉時代建暦二年)の入寂から、この石塔の建立は1962年となり、これから蓮勝寺は600年前の1362年(南北朝時代の北朝貞治二年)に浄土宗第5祖の蓮勝上人が開山したことになる。 しかし、師良暁上人から宗脈相乗される五年前の正和四年の秋にこの地に草庵を結んだと伝えられ、また、正和四年(1315)銘刻の板碑が存在すること等を根拠として、鎌倉時代正和四年(1315)の創建となっている。
蓮勝寺は約700年の歳月を刻んだ歴史ある古刹だが、開創以来一度も焼失や倒壊などに遭っていない。 毘沙門堂には、鎌倉時代の仏師運慶の作とされる毘沙門天王を祀っており、「日本三毘沙門」の一つと伝えられている。 宗旨は浄土宗で、本尊は阿弥陀如来像。

道路に面した門前に大きな六字名号塔が立つ。 塔側面に「宗祖法然上人七百五十年御忌 當寺開山蓮勝上人六百年遠忌 當寺開創六百五十年」と刻まれていて、遠慮がちに古刹であることを主張しているようだ。 門を入ると陽が燦々とふりそそぐ明るい境内が広がる。
2段になった境内の下段には元禄時代創建の毘沙門堂が建ち、傍に「日本三毘沙門随一 毘沙門天王」と刻された石碑がたつ。 本堂境内への石段の下には、江戸中期作とみられる十三重塔、石燈籠、舟形光背石仏3体の石造物が佇む。
石段を上り詰めると、正面に箱棟を乗せた本堂、右手に書院・客殿、左手に鐘楼がある。 本堂は緑青が浮き出た起り屋根で、向拝を含めて簡素な造りだ。 書院・客殿の玄関前には「天上天下唯我独尊」と刻まれた台座の上に釈迦誕生仏が鎮座している。 鐘楼の傍に、石造り屋根の下に6体の浮き彫り地蔵尊石像が密に整然と鎮座しているが、まるで一石六地蔵像のように見える。

昭和三十七年(1962)頃造立の門前の六字名号塔..側面に「宗祖法然上人七百五十年御忌 當寺開山蓮勝上人六百年遠忌 當寺開創六百五十年」の刻

山門から眺めた明るい境内..石段の上に本堂の屋根が見える
 
毘沙門堂の右手の建物は?                毘沙門堂境内の塀際に佇む両手で笏を持つ石像

元禄三年(1690)創建の入母屋造桟瓦葺の毘沙門堂..石燈籠は昭和五十八年(1983)造立

毘沙門堂には鎌倉時代の仏師運慶の作とされる毘沙門天王を祀る
 
古い向拝柱、水引虹梁、組物、木鼻、蟇股などの材を用いて改修築されたようだ
  
「日本三毘沙門随一 毘沙門天王」と銘刻された石碑/切妻造板葺の簡素な地蔵堂に鎮座する宝暦八年(1758)造立の地蔵菩薩石仏

石段下に鎮座する2体の石仏、石造層塔そして2基の石燈籠
  
石段下左側に佇む石燈籠、十三重石塔、石仏..石燈籠は昭和四十一年(1966)造立/明和年間(1764~1772)造立とみられる十三重層搭..初層軸部に四方仏、輪郭を巻いた基礎に格狭間/造立年不詳の舟後光型聖観音石仏..右手は与願印、左手に未開蓮を持つ
  
石段下右側に佇む石燈籠と石仏/造立年不詳の舟後光型地蔵石仏..円光を背に、右手に錫杖、左手に未開蓮を持つ/石仏後方の木立の中に潜んでいた猿の石像

石段を上り詰めて眺めた本堂境内..正面に起り屋根の本堂、右に書院客殿、左に鐘楼がある

小棟造りで寄棟造銅板葺の本堂..正面は格子ガラス戸で、小さな脇間に花頭窓がある
  
小棟は寺紋を付けた箱棟になっている..寺紋は浄土宗から「月影杏葉」の変形か?/ガラスが入った寺紋付きの腰高格子戸/向拝軒下に置かれた蓮花を模した天水桶..鎖樋がなく桶だけ
 
本堂の左前庭にある仏足石

境内の左手に建つ鐘楼
 
切妻造銅板葺の鐘楼

鐘楼の脇に佇む六地蔵尊石仏..大きな石造屋根を乗せ、各石像を一石六地蔵のように密に並べている
 
本堂右手に建つ書院庫裏客殿の玄関脇に鎮座する釈迦誕生仏..台座に「天上天下唯我独尊」の刻
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野川神明社 (川崎)

2018年02月24日 | 寺社巡り-神奈川

【川崎・宮前区】創建年代は不詳だが、近くに鎮座する奈良時代天平十二年(740)開創の影向寺の鎮守社として創建されたようで、古くから総村の鎮守として崇敬を集めていた。 江戸時代には韋駄天社と称されていたが、それ以前の社号については不明。
韋駄天社は明治三年(1870)に村社に列せられて神明社となり、明治四十一年(1908)に八坂神社・子神社・第六天社を併合して野川の総鎮守となり、昭和十五年(1940)幣帛料供進神社に指定された。 主祭神は天照皇大神で、他に伊邪那岐命、伊邪那美命、須佐之男命、大巳貴命そして韋駄天神を祀る。

第三京浜道路の喧騒を背にしながら、傍にシイノキの巨木が聳える明神鳥居をくぐると、門前のざわめきをよそに境内は清々しく静寂に包まれている。 広い境内には様々な樹木が茂り、まさに鎮守の森だ。 参道途中に手水舎があり、4頭の獅子が「禊祓」と刻まれた手水鉢を踏んばって支えている。
手水舎から左に90度折れた参道に二の鳥居があり、少し転びのある神明鳥居を通して奥に社殿が見える。 6段ほどの階を上がって社殿境内に....まず目を奪われるのが拝殿前左にある大きな韋駄天石像だ。 韋駄天石像が神社に鎮座するのを見るのは初めてだが、神社に韋駄天像は珍しいと思う。
境内の左手に社務所があり、常勤しているとみられる白装束の神職が出入りしていた。
拝殿後方の玉垣に囲まれた本殿へ....本殿は壁面に横羽目板、周囲に高欄付き縁を巡らし、切妻造り屋根の大棟には女神を祀っていることを示す内削ぎの千木と6本(偶数)の堅魚木が乗っている。

境内入口の社号標石と聳え立つシイノキの巨木..社号標石は昭和四十二年(1967)造立

昭和四十二年(1967)造立で転びのある神明鳥居(一の鳥居)..石燈籠は昭和五十九年(1984)造立
  
切妻造銅板葺の手水舎..手水鉢は平成十二年(2000)造立/4頭の獅子が「禊祓」と刻まれた手水鉢を支えている/龍の水口
 
平成二十八年(2016)造立で転びのある神明鳥居(二の鳥居)/昭和六十三年(1988)造立の石燈籠
 
石段下から眺めた社殿境内                        昭和四十二年(1967)造立の石燈籠

入母屋造銅板葺で千鳥破風を設けた拝殿..平成十二年(2000)建立

千鳥破風に鳥衾を乗せた左三つ巴文様付き鬼板、千鳥破風合掌部に猪目懸魚
  
韋駄天尊像..御影石製で高さ3.5m(含台座)/社殿前に鎮座する阿形吽形の獅子の狛犬
 
向拝の装飾彫刻..虹梁の中備と木鼻は精緻な龍

正面と側面に組高欄付き縁を巡らした拝殿..幣殿の位置に脇殿のような屋根付き建物(何かな)

拝殿と本殿のいずれにも大棟に左三つ巴文様付き鬼板、拝みに猪目懸魚が下がる

玉垣に囲まれた切妻造銅板葺で流造平入りの本殿..壁面は横羽目板、大棟に内削ぎの千木と6本の堅魚木が乗る

社殿境内のシイノキ越しに眺めた拝殿

切妻造銅板葺の神輿庫

入母屋造銅板葺の神楽殿

社務所..平成十二年(2000)新築
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能満寺-(2) (川崎)

2018年02月21日 | 寺社巡り-神奈川

【川崎・高津区】室町時代の天文年間(1532~1555)に現在地に移転され、快賢法印により開山された。 江戸時代に入ってから、観空法印(正徳四年(1714)寂)によって中興されたと伝えられている。

境内の左に建つ簡素な不動堂の前縁に「武相不動尊第六番札所」の木札が置かれている。
不動堂右手の本堂脇に古い無縁墓を積み重ねた無縁塔があり、頂部に「三界萬霊塔」、その前に不動明王、阿弥陀如来、薬師如来の3石仏が並んで鎮座しているのは珍しく印象的だ。 また、石仏墓碑の中に昼寝をしているような可愛いお顔の如意輪観音石仏を見つけたので、起こさぬよう静かにシャッターを切った....合掌。
 
山門脇に佇む造立年不明の読誦塔..「南無妙典一千部塔」の刻

露盤宝珠を載せた宝形造桟瓦葺の不動堂..正面は腰ガラス格子戸
  
不動堂の前縁に置かれた「武相不動尊第六番札所」の木札/不動堂前に佇む明和四年(1767)造立の石燈籠/不動堂には不動明王像、江戸時代作の法体装束の木造増田孝清坐像等を安置

本堂左手に鎮座する無縁墓の石仏等が積み上げられた無縁塔

無縁塔の正面中段に寛文三年(1663)造立の五輪塔が刻まれた舟光背型墓碑(五輪塔板碑)..右隣に延宝三年(1675)、左隣に正徳二年(1712)造立で観音菩薩が浮き彫りされた舟光背型墓碑

頂部に鎮座する3体の石仏..左から不動明王、阿弥陀如来そして薬師如来
 
無縁塔の頂部に立つ三界萬霊塔と寛永十一年(1634)造立とみられる五輪塔..三界萬霊塔の種子は胎蔵界大日如来か/碑型墓碑..元禄、宝永、元文、宝暦などの江戸期元号が刻まれている

無縁塔に鎮座していた如意輪観音石仏墓碑..可愛いお顔で寝ているようだ!

入母屋造銅板(と思う)葺の鐘楼..細い注連縄が巡らされている
 
二軒の平行繫垂木で、組物は二手先斗栱、中備は2個の透蟇股/聖観音の種子と「南無観世音菩薩」の刻がある
 
切妻造銅板葺の地蔵堂に鎮座する六地蔵尊/赤い帽子を被り前垂を掛け「南無六道能化地蔵菩薩」と書かれた赤いタスキをしている
 
地蔵堂の傍に佇む十三重石塔越しに眺めた本堂/十三重石塔の初層塔身には月輪に四方仏の種子、基礎に格狭間が線刻
  
墓所への石段下の覆屋に鎮座する地蔵尊像/赤い帽子を深く被り前垂をして合掌する地蔵菩薩立像/裏参道の塀傍に佇む石燈籠..中台にお地蔵さんの人形が..

本堂右手に連なる近代的な建物の庫裏
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能満寺-(1) (川崎)

2018年02月18日 | 寺社巡り-神奈川

【川崎・高津区】奈良時代、影向寺の十二坊の一つとして行基菩薩(668~749)が創建したと伝える。 平安時代天安年間(857~859)、最澄に師事した天台宗の僧・円仁(慈覚大師)により野川の影向寺塔頭十二坊が再建された。 宗旨は天台宗で、本尊は明徳元年(1390)造立の木造虚空蔵菩薩立像。 準西国稲毛三十三観世音霊場第16番、武相不動尊霊場第6番の各札所。

影向寺がある宮前区との区境に鎮座するお寺で、天台宗の古刹。 急な階を上ると細い注連縄が張られた薬医門が建ち、門前に「参道」や「敷石」の供養塔などがひっそりと佇む。 その中で特に、江戸初期造立で合掌地蔵尊坐像が浮き彫りされた「敷石供養塔」は興味深い。
山門をくぐると正面に江戸中期建立の本堂があり、堂前で蓮華座に鎮座する端正で穏やかなお顔の伝教大師坐像が迎えてくれる。 また、堂前に寸胴でごつい姿の白い石燈籠が立つが、中台にハート形の彫り窪みがあり、火袋の周りには不思議な装飾彫刻が施されていて印象的だ。
山門で気になったが、山門だけでなく手水舎や鐘楼にも細い注連縄が張られているので、古刹ゆえに神仏習合の名残だろう。

昭和四十七年(1972)造立の寺号標石
 
急な石段の上に建つ山門..石段右手の巨木はシイノキだったか/右手の銀杏の落ち葉が敷かれた石段の上に通用門がある

切妻造本瓦葺の山門は薬医門..細い注連縄が下がる

通用口がある袖塀を設けた山門の前に石燈籠や供養塔などの石造物と石碑が佇む
  
門前に佇む昭和五十二年(1977)造立の石燈籠/平成二年(1990)造立の「参道敷石」供養塔/この石造物は何かな?

門前に佇む3基の石碑..左は供養塔、中は宝暦七年(1757)造立の石坂供養塔、右は造立年不明の墓碑と見られる
 
嘉永八年(1631)造立の石碑は「敷石供養塔」..上に半肉彫りの合掌地蔵尊坐像
 
切妻造銅板葺の簡素な通用門..内側左右の控柱の上に屋根を設けた高麗門のような造り/通用門の傍にある元禄十三年(1700)造立の手水鉢

堂宇境内..右に本堂、手前に手水舎、左手に不動堂が建つ

元文四年(1739)建立の入母屋造銅板葺の本堂

本堂前に伝教大師坐像、ごつい石燈籠そして常香炉などがある
 
平成二年(1990)造立の伝教大師坐像(天台宗開祖の最澄)/昭和六十一年(1986)造立の石燈籠..寸胴な造りだが、中台にハート形の彫り窪み、火袋に不思議な装飾彫刻が施されている

流れ向拝の屋根から鎖樋が下がり天水桶に..蓮華形の天水桶に棕櫚紋とみられる寺紋が付いている
  
鰐口が下がる向拝の虹梁上に龍の彫刻..小壁に逆ハート型の彫刻がある(欄間窓かな?) /向拝柱の頭貫木鼻..正面唐獅子で側面は長い牙の象の彫刻/本堂大棟に獅子口、合掌部に六葉と猪目懸魚、妻飾りはなく小壁に..
 
切妻造銅板葺の手水舎..細い注連縄が張られている/昭和五十四年(1979)造立の手水鉢..龍の水口で、正面に天水桶のように寺紋がある
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影向寺-(2) (川崎)

2018年02月15日 | 寺社巡り-神奈川

【川崎・宮前区】室町時代の応永二十二年(1415)頃に旧金堂が廃された後、密教様式の本堂が建立されたのが薬師堂のようだ。 本堂の薬師堂は万治年間(1658~1661)に火災で焼失したが、元禄七年(1694)に同じ位置に再建された。
薬師堂は和様建築様式だが、内陣・外陣・脇陣の境を中敷居と格子によって厳重に結界していて中世以来の密教本堂の形式を伝え、また、一部に禅宗様の意匠を取り入れている。
時代とともに大きく変遷してきたが、奈良時代に灯された法燈は、1300年もの長い歳月を経た今日まで絶えることなく連綿と伝えられている。

薬師堂の左側から後方にある安置堂に向かう。 途中に江戸中期造立の数体の石仏の墓碑が佇み、その少し先に平安時代作の貴重な仏像を安置した安置堂が建つが、予想に反して近代的な建物だ。
その先に鮮やかな黄色い葉でスッポリ覆われた銀杏の巨木が聳える。 「乳銀杏」と呼ばれている樹齢約600年(推定)の老木で、神奈川県名木100選に指定されている。 それにしても太い幹で胸高周囲が8mもあり、近づくと所々に長い垂乳根が垂れているので老木だと分かる。
門前右手の白壁の築地塀で囲まれた一角に「影向石」と呼ばれる巨大な塔心礎石と基壇跡がある。 ここに奈良時代に建てられた三重塔があったとされ、霊石とされる「影向石」を見守るように8体の石仏が整然と鎮座している....合掌。
 
本堂左手から眺めた境内/明治三十四年(1901)造立の石碑「影向寺薬師仏功徳碑」の刻
  
薬師堂後方にある天明五年(1785)造立の墓碑..上部に合掌地蔵尊像/享保四年(1719)造立の墓碑..舟後光型如意輪観音像/享保七年(1722)造立の墓碑..舟後光型地蔵菩薩像

薬師堂の真後ろに建つ入母屋造桟瓦葺の安置堂..平安時代作の木造薬師如来両脇侍像3躯を安置(薬師如来像は本尊)

「乳銀杏」の老木の前に佇む赤い帽子を被った小僧像..蓑笠を背に銀杏の落ち葉を掃除している..
  
樹齢約600年(推定)の「乳銀杏」..樹高28m、胸高周囲8m..神奈川県名木100選に指定/多くの垂乳根が下がる/「乳銀杏」傍に鎮座する唐破風屋根の石祠
 
切妻造銅板葺の覆屋に鎮座する六地蔵尊像..鮮やかな赤い帽子を被り前垂をしている

昭和五十八年(1983)建立の入母屋造銅板葺の阿弥陀堂
 
鬼板が乗る唐破風向拝の見事な装飾彫刻..破風軒に鳳凰、虹梁上に龍、木鼻に耳が横に延びた阿形吽形の獅子/十三重石塔の初層塔身に四方仏の種子、輪郭を巻いた基礎には格狭間が線刻
 
阿弥陀堂と庫裡との間にある庭園                     庭園に置かれた飾手水鉢

白壁の築地塀に囲まれた塔跡..奈良時代創建時に建てられた美しい塔があった場所

塔跡に鎮座する霊石の「影向石」、力石、石仏群

造立年不明の山伏角柱型の「影向石碑」と霊石の「影向石」..「影向石」は奈良時代創建時建立の塔の心礎..伝説では、塔が失われて以降、窪みに霊水が湛えられて乾くことがなく、近隣の眼を患った人々を効験で癒した..後方で8体の石仏が見守る

「影向石」を見守る様に鎮座する8体の石仏

右から明和六年(1769)造立の舟型観音菩薩像..「三界萬霊有縁無縁」の刻、造立年不明の駒型地蔵尊坐像は巡拝塔..台座に六十六部供養と廻國の銘、寛文九年(1669)造立の舟型地蔵尊像の墓碑

右から貞享四年(1687)造立の舟型観音菩薩像、宝暦二年(1752)造立の舟型観音菩薩像..右に「..影向寺薬師..」の銘、寛文三年(1663)造立の舟型観音菩薩像..右に「..影向寺薬師..」の銘..いずれも右手与願印、左手で未開蓮を持つ

右は寛文八年(1668)造立の舟型地蔵尊像..右に「..三界万霊..」の銘、左は駒型青面金剛庚申塔
 
元禄七年(1694)造立の合掌青面金剛庚申塔(日月瑞雲、3猿)

「力石」..右の石には「飯田石」「品川、網島、太尾」などの刻がある

近代的な建物の瑠璃光殿
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影向寺-(1) (川崎)

2018年02月12日 | 寺社巡り-神奈川

【川崎・宮前区】奈良時代の天平十二年(740)、第45代聖武天皇の勅命により高僧行基によって開創された。 縁起によると、光明皇后が病気の折、聖武天皇が夢告でこの地に霊石があることを知り、行基に命じて病気平癒を祈願させると霊験あらたかだったことから、この地に伽藍を整えたとされる。
境内から発掘された古瓦の中に奈良時代のものが含まれていることから、縁起に近い創建だったことが裏付けられている。 奈良時代には金堂が建てられ、「影向石」と呼ばれる巨大な塔心礎石と基壇の痕跡より、三重塔も建立されたとされる。
創建時は栄興寺と称したが、江戸初期万治年間(1658~1661)に影向寺(ようごうじ)に改称された。 宗旨は天台宗で、本尊は木造薬師如来坐像で平安時代後期作とされる。

バス停「影向寺」から住宅街の坂道を上って行くと、15分くらいで右手に白壁の築地塀が見えてくる。 その先の沿道に寺号標石が立ち、両側が駐車場になっている切石敷の参道の先に四脚門の山門が建つ。 山門をくぐって静謐な境内に....正面に古色蒼然とした本堂の薬師堂、右手に八注造りの聖徳太子堂、左手に趣きがある鐘楼が建つ。
薬師堂は小棟造りで美しく緑青が浮き出た銅板葺で、切目縁を巡らし、正面は両折両開きの桟唐戸そして脇間が蔀戸風になっていて、質素な造りだが風格があり歴史を感じさせる。 薬師堂前には、サルスベリの古木が誇らしげに枝を大きく広げている。 聖徳太子堂は昭和の建築だが、桟唐戸と各面に連子窓を設けた和様式。 堂内には鎌倉時代後期作の聖徳太子孝養像が安置されている。
 
寺号標石越しに眺めた門前..山門の左右に白壁の築地塀が延びる/門前に聳える欅の古木

切妻造銅板葺の山門..大棟の中央に菊の御紋がある

袖塀を従えた山門は四脚門..門前に石燈籠が立つ
 
山門に「威徳山」の額が掛かる/門前に立つ明治三十四年(1901)造立の石燈籠

山門は厚みのある茅葺風の照り屋根、合掌部に雲模様の鰭を付けた蕪懸魚

薬師堂前に手水舎、右手に聖徳太子堂が建つ

元禄七年(1694)再建の薬師堂..寄棟造茅葺風銅板葺で小棟造り..創建は万治年間(1658~1660)

薬師堂は切目縁を巡らせ、入口の扉は桟唐戸で脇間は釣金具がないが蔀戸のようだ..薬師堂前にサルべりが大きく枝を伸ばしている
  
「影向寺」の扁額が掛かる正面入り口は連子を設けた両折両開きの桟唐戸/向拝に鰐口が下がり、虹梁上の透蟇股の刳りぬきに唐獅子の彫刻がある/木鼻は象と獅子の彫刻..象頭上に皿斗、巻斗がのる
 
薬師堂の組物は出組で中備は詰組..側面に釣金具があるので蔀戸だ/側面の連子窓の前の縁に設けられたこの建物は?
 
形式・建具などの外観の基本は和様だが、柱上部や中備に詰組など禅宗様が取り入れられている/本堂前のサルスベリの傍に佇む寛文元年(1661)造立の石燈籠

小棟造りの箱棟に菊の御紋がある薬師堂..堂の直ぐ前に手水舎がある
 
切妻造茅葺風銅板葺の手水舎..合掌部(拝)に珍しい二重懸魚がたれさがる/手水鉢..洗心と刻まれた球状の水口

昭和六十年(1985)建立の露盤宝珠を乗せた八注造銅板葺の聖徳太子堂(八角堂)
 
入口は桟唐戸で周囲に連子窓..「聖徳大師堂」の額/鎌倉時代後期作の聖徳太子孝養像を安置

聖徳太子堂越しに眺めた薬師堂と手水舎

万治三年(1660)建立の入母屋造銅板葺の鐘楼
  
鐘楼に釣り下がる梵鐘は昭和四十八年(1973)鋳造/境内の脇にある起り屋根の門と屋根付き板塀
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玉蔵院 (三浦)

2018年02月07日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・三浦郡】奈良時代の天平勝宝年間(749~757)、華厳宗の第二祖で東大寺初代別当だった良弁僧正により創建されたと伝える。 葉山町最古の寺院で、近くの森山神社の旧別当寺(神宮寺)だったようだ。 調べたが創建以降の由緒や歴史については分からない。 宗旨は高野山真言宗で、本尊は木造大日如来坐像。 三浦三十三所観音霊場25番、三浦二十八所不動尊霊場23番、三浦干支守霊場第7番の各札所。 湘南七福神の恵比寿神を祀る。

国道134号に面した参道入口に三浦三十三所観音の笠付き霊場標石が立つ。 参道を進むと門柱から先の両側に銀杏の巨木が聳え、生茂った緑のトンネルの奥に本堂が少しだけ見える。
本堂前境内に、赤い前垂れの六地蔵尊像と並んで江戸初期に造立された大きな宝篋印塔と庚申塔が佇む。 庚申塔は葉山町最古で、刻像は三猿だけだが、陰部が刻まれていて雌雄がはっきりと分かる珍しいもの。 雌雄が分かる三猿が彫られた庚申塔を見るのは、東京目黒区の大圓寺に続いて2度目だ。
境内隅の樹木の中に建つ覆屋に、熊野大権現、秋葉大権現そして金比羅大権現を祀った3基の石祠が鎮座しているが、鎮守はこの覆屋の奥に鎮座する稲荷社らしいが失念。
境内入口の一角に8基の石仏等が鎮座....その中に2基の庚申塔があり、一つは8臂の青面金剛、もう一つは元禄時代造立のもので蓮華座に法界定印を結んだ阿弥陀如来立像が浮き彫りされている....合掌。
  
国道134号線に面した参道入口に掲げられた案内板/参道入り口に立たつ笠付霊場標石..「三浦観音 三十三所 第二十五番霊場」の刻/参道脇の木陰に佇む石碑..多くの世話人名が刻まれているが参道供養塔か?

参道入り口から眺めた銀杏の巨木に覆われたトンネルの参道

銀杏の古木越しに眺めた境内..左先の木は榎の古木

正面に新しい本堂、手前左に覆屋と巨大な宝篋印塔等がある

入母屋造桟瓦葺の本堂..昭和四十五年(1970)建立..桐紋と左三つ巴紋が入った「南無大師遍照金剛」の幟がなびく

正面三間は欄間付入口で中央扉は桟唐戸、両脇間に花頭窓を設けている
 
簡素で標準的な造りの向拝/和様の擬宝珠高欄の縁を巡らし、縁板の下縁束や亀腹、向拝階段はコンクリート製
 
本堂左手に建つ寄棟造桟瓦葺の庫裡/「遍照」の額が掲げられた庫裏の玄関

本堂前境内に鎮座する赤い前垂れの六地蔵尊像、巨大な宝篋印塔そして大きな庚申塔
 
寛文七年(1667)造立の二重塔式の宝篋印塔..上の塔身四方に蓮華座上に金剛五仏の四仏の種子(塔自体が大日如来)が刻まれている/宝塔のような笠と異形の相輪..相輪は下から露盤、変形の請花、九輪、変形の請花そして宝珠で構成
 
寛文五年(1665)造立の舟型三猿刻像庚申塔..高さ114cm、幅51cmで葉山町最古の庚申塔/雌雄がはっきりと分かる陰部が刻まれた三猿
  
昭和五十三年(1978)建立の弘法大師像..周囲は四国八十八ヶ所お砂踏み霊場になっているようだ/「宗祖弘法大師御生誕 〇千二百年記念碑」刻の石碑
 
切妻造桟瓦葺の覆屋に鎮座する3基の石祠..左は熊野大権現、中は秋葉大権現で右は金比羅大権現

境内入口の一角に庚申塔、石仏、石碑など8基が鎮座
 
元禄五年(1692)造立の舟光背型阿弥陀庚申塔(3猿)/不鮮明だが法界定印を結んでいる
 
文化三年(1806)造立の駒型青面金剛庚申塔(日月瑞雲、邪鬼、3猿)/珍しい8臂で正面は合掌

左は馬頭観音、中は複数の石造物の一部を積み上げたものか(基礎部に梵字)、右は昭和七年(1932)造立で老子の「天長地久」(天地は永久に不変)等の刻がある石碑

左は兜巾型霊場標石で「観音菩薩三浦札所二十五番」の刻、中は兜巾型賽神塔で「賽之神」の刻、右は明治三十五年(1902)造立の駒型馬頭観音
 
本堂後方の墓所に整然と鎮座する古い舟型石仏や箱型等の無縁墓碑群
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森山神社 (三浦)

2018年02月04日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・三浦郡】奈良時代の天平勝宝年間(749~757)の頃、鎌倉由比ヶ浜生まれの良辨僧正によって勧請されたと伝わる。 往時は三ケ岡に鎮座して守山大明神を祀り、天正十九年(1591)に徳川家康から社領三石を寄進されている。
境内には、稲荷五社大明神を祀る京都伏見稲荷大社の分社である稲荷大明神や、伊勢神宮の分霊を祀る神明神社など6つの神社が鎮座している。 祭神は奇稲田姫命(素戔嗚尊の妃神)。

参道入り口の階に新旧4基の石燈籠が佇み、少し先に白い石造りの明神鳥居がある。 右手に住宅が立ち並ぶ参道を抜けると急に開け、社殿境内への石段があり、その右手の傾斜地は雛壇になっていて雑草が生えている。 雛壇は、正面に建つ「一色会館」で行われる祭りの舞台を観る桟敷席になるようだ。
石段脇に立つ「参道」と「石段」と刻まれた供養塔をみながら上っていくと、牡丹の花(と思う)に片足を乗せた獅子の狛犬が迎えてくれる。
正面に大きな切妻破風向拝の簡素な拝殿、左の境内と右の一段高い境内に稲荷社や神明神社など幾つかの境内社が鎮座している。 その中で、直線美を強調した神明造り屋根で大棟甲板に10本もの堅魚木を乗せた立派な神明神社と、シンプルな富士山の絵が刻まれた淺間神社石碑に興味がわいた。

参道入り口に佇む石燈籠と参道に立つ石造りの明神鳥居
 
江戸時代造立とみられる古い石燈籠/昭和七年(1932)造立の石燈籠..参道に石造り明神鳥居が立つ

傾斜地の雛壇は一色会館で行われる舞台を観る桟敷席

社殿境内への石段の左手に参道と石段の供養塔が立つ
  
石段供養塔/石段の上に鎮座する阿形吽形の獅子の狛犬..明治三十五年(1902)造立で耳が横に張った像、また牡丹の花(と思う)に片足を乗せている

入母屋造桟瓦葺の拝殿..稲荷大明神境内に昭和十年(1935)造立の寄付者名が刻まれた石碑があるので、昭和十年が社殿の建立年では?
 
切妻破風屋根の向拝/虹梁上の透かし蟇股の繰り抜き部に色付き菊の花の彫刻

仏堂風の造りで組高欄を巡らせた拝殿
 
参道脇にある切妻造銅板葺の手水舎/昭和七年(1932)造立の手水鉢..水口は獅子の頭部像

社殿の左右に6つの境内社が鎮座している

3つの境内社が鎮座..左は入母屋造桟瓦葺で妻入りの稲荷社..稲荷社の前にも転びの柱の神明鳥居が立つ
  
中央の流造りの境内社..祀られている神様は?/右の富士山の絵が刻まれた浅間神社..浅間信仰・富士山信仰の石碑/社殿傍に鎮座する切妻造りの境内社..転びの柱の神明鳥居

本殿の右手に鎮座する神明神社(左)と稲荷大明神
 
紙垂付き注連縄を下げた神明鳥居の奥に鎮座する神明神社..祭神・伊勢神宮の分霊で天照大神と豊宇気毘売神の二柱を祀る

神明造りで建てられた切妻造銅板葺で平入の神明神社..大棟の甲板に女神を示す内削ぎの千木と10本の堅魚木が乗る
 
直線美を強調した屋根の神明神社..掘立柱を模した柱上に建てられ組高欄を巡らしている/鳥居脇に置かれた慶応四年(1868)造立の手水鉢

神明神社の右手の神明鳥居の奥に鎮座する稲荷大明神..昭和十年(1935)造立の石碑は寄付者名簿
 
精緻な造りの稲荷大明神石祠..祭神・京都伏見稲荷の分社で石祠の屋根に男神を示す外削ぎの千木と3本の堅魚木が乗る/傍にも小さな石祠の稲荷社が鎮座

切妻造銅板葺で後方が流造り風になっている神輿庫

雛壇の桟敷席の前の境内に建つ掃き出し窓が並ぶ一色会館..祭りの時に舞台になる
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森戸神社-(2) (三浦)

2018年02月01日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・三浦郡】森戸神社は、源氏はもとより三浦氏、北条氏、足利氏などからも崇敬され、特に三浦氏の祈願所でもあった。 天正九年(1591)には徳川家康より社領七石の寄進を受けた。  延宝二年(1674)には徳川家光が、明治二十五年(1892)には英照皇太后が森戸神社を参拝した。 現在も葉山の総鎮守であり多くの参詣者が訪れている。
境内から富士・箱根・伊豆半島を望む「森戸の夕照」は、かながわの景勝50選に選ばれている。

数段の階の上に屋根に千鳥破風を設けた社殿が鎮座している。 拝殿後方の本殿は400年以上の歴史を誇るとされるが、僅かに隙間がある透き塀が設けられていて、まるで本殿が見られるのを拒んでいるようだ。 とはいえ、拝殿右手の透き塀の狭い板の隙間にレンズをピッタリと押し当て、本殿の一部ではあるが何とか撮影できた。
社殿境内から左手にある駐車場を通り、神社裏手の少し海に突き出た小高い崖に向かう。 素朴な形をした神明鳥居をくぐり石段を上ると、「飛柏杉」と刻まれた石碑が建ち、樹齢800年とされる森戸神社の御神木である数本の飛柏槇が聳える。
神社裏手の磯辺の切り立った巨岩の上に、見事な枝振りの「千貫松」と呼ばれる松の木が聳えるが、その姿はまるで大形の鳥が羽を広げたようだ。 沖合700mに浮かぶ名島に立つ赤鳥居が、また、「千貫松」の後方にぼんやりと江の島が望める。 「森戸の夕照」からの眺望は晴らしいが、遠くに低く垂れこめた雲があるため富士山や伊豆半島は見えなかった。
駐車場の海岸側の土手には、石原裕次郎記念碑など幾つかの記念碑、顕彰碑、歌碑などが整然と立ち並んでいる。

数段の階の上に鎮座する社殿

鎌倉時代創建され400年以上の歴史を誇る本殿

入母屋造桟瓦葺で千鳥破風を設けた拝殿..屋根に獅子の留蓋瓦が乗る
  
明治四十年(1907)造立の阿形吽形の霊獣の狛犬..輪郭を巻いた台座に虎や左みつ巴の彫刻/奉納された砲弾..戦艦三笠の艦砲のものとの説あり?

両側面に孫庇、前に組高欄付き縁を設けた仏堂造りの拝殿..拝殿前にある左三つ巴が刻まれた天水桶
 
虹梁と木鼻に禅宗様の渦紋..虹梁上に大きな透かし蟇股、軒の垂木から4つの鈴が下がる
  
社殿前に立つ昭和九年(1934)造立の石燈籠/透き塀から眺めた本殿と境内..本殿は切妻造桟瓦葺/境内に6つの新しい石祠が鎮座
  
神社裏手にある神明鳥居をくぐった崖の上に飛柏槇が聳える..元暦元年(1184)、源頼朝参拝の折、遥か伊豆三島明神から飛来し発芽したものと伝えられる/大正六年(1917)建立の「飛柏杉」と刻まれた石碑..樹齢800年を誇る森戸神社の御神木

飛柏槇の根元に鎮座する日吉社の祠

神社裏手の磯辺の切り立った巨岩の上に聳える見事な枝振りの松の木の千貫松と石碑

千貫松の由来は養和元年(1181)、源頼朝が三浦大介義明追悼のため衣笠城へ向かう途中この地で休憩し、この松を褒めたという伝説による
 
大正八年(1919)建立の「千貫松」と刻まれた石碑/磯部から眺めた沖合い700mに浮かぶ名島に立つ赤鳥居は明神鳥居..名島はかつて陸続きだった小さな島
 
森戸神社の裏手の相模湾を望むこの地は「森戸の夕照」といわれ「かながわの景勝50選」の一つ/石原裕次郎記念碑..裕次郎のブロンズ像と石原慎太郎氏自筆の詩が刻
  
「源頼朝公別墅跡」の碑..境内に源頼朝の別荘があったらしい/大正四年(1915)建立の大正天皇即位の「御大典記念碑」/ベルツ博士・マルチーノ公使の顕彰碑
  
2.26事件で暗殺された高橋是清の歌碑/明治天皇御製&昭憲皇太后御歌/侯爵細川家の松樹500本寄進の碑
 
神明鳥居前の参道左手の参集殿
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森戸神社-(1) (三浦)

2018年01月29日 | 寺社巡り-神奈川

【神奈川・三浦郡】創建年は不詳だが、12世紀後期に源頼朝により創建された。 社伝(由緒書き)等によると、平治の乱で敗れ翌年の永暦元年(1160)に伊豆の蛭ヶ小島に流された源頼朝は、伊豆国一宮の三嶋大社の祭神三嶋明神を深く信仰し、源氏再興を祈願した。
三嶋明神の加護を受けて治承四年(1180)に旗挙げに成功し、天下を治めた頼朝は、信奉する三嶋明神の分霊を鎌倉に近いこの地に勧請して森戸明神としたとされる。
『我妻鏡』には、頼朝がこの地に別荘を建て、鎌倉幕府歴代将軍が訪れて、流鏑馬、笠懸、相撲などの武事を行ったこと、また、災厄が生じると加持祈祷が行われ、七瀬祓の霊所としても重要な地であったことが記されている。 祭神は大山祗命と積羽八重事代主命の二柱で、二柱を総称して森戸大明神と称す。

葉山海岸通りから社号標石と朱塗りの明神鳥居が立つ参道に入り、少し進むと白い狛犬が迎えてくれる。 3つのしめのこ付き注連縄が下がった神明鳥居をくぐって社殿へ....流石に多くのご神徳がある神社らしく、参道右手に多くの境内社や石造物が社殿近くまで整然と鎮座している。 その中で特に興味を引いたのは「猿田彦大神」文字庚申塔で、石祠に祀られた庚申塔を拝観するのは初めてだ。
また、水天宮には安産・子宝に霊験あらたかな「子宝の石」があり、傍の子寶石納所には赤ちゃんの名前と誕生日を記した卵型の玉石が奉納されていて、多くの信仰を受けていることを窺わせる。
 
参道に立つ「森戸神社」の社号標石と朱塗りの一の鳥居の明神鳥居/参道両側に鎮座する狛犬と社殿境内入口に立つ二の鳥居
 
造立後間もないとみられる阿形・吽形の獅子の狛犬

石燈籠を従え、3つのしめのこ付き注連縄が下がった石造り神明鳥居は二の鳥居

右から神明鳥居が立つ総霊社、畜霊社、猿田彦大神文字庚申塔

切妻造桟瓦葺の総霊社..英霊・祖霊・水子霊などを祀る
 
総霊社向拝の虹梁上の精緻で見事な龍と木鼻の獅子の彫刻

切妻造銅板葺の覆屋に鎮座する畜霊社..保食神を祀る切妻造りの石祠
  
覆屋に鎮座する畜霊社の石祠/三浦半島では珍しい流造の石祠に祀られた「猿田彦大神」の文字庚申塔..猿田彦大神を祀った庚申塔は葉山町唯一

畜霊社の前から眺めた境内..社殿は右手の少し奥に建つ

切妻造銅板葺の手水舎

子寶石納所の前から眺めた境内..正面の階の上に社殿が建つ

右から子寶石納所、水天宮、おせき稲荷社
  
切妻造銅板葺の子寶石納所..子宝石を受け、赤子を授かった後に戻す場所/赤子の名前が書かれた卵形の玉石群

切妻造銅板葺の覆屋に鎮座する水天宮

御祭神の天御中主大神を祀る石祠..左右の「子宝の石」を撫でると子宝に恵まれるらしい
  
切妻造で唐破風向拝..2本の向拝柱と軒下に垂木を設けている/水天宮の脇に佇む「子宝の福」と刻まれた句碑
 
切妻造銅板葺の覆屋に鎮座するおせき稲荷社..多くの神使狐に守られ、鮮やかな丹色塗りの明神鳥居/おせき稲荷社内の座布団に置かれた3段に積み重ねられた石

逗子市の二子山付近を源流とする森戸川に架かる朱塗りで擬宝珠高欄の「みそぎ橋」..鎌倉時代に七瀬祓の霊所と定められみそぎが行われた
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興禅寺-(2) (横浜)

2018年01月26日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】江戸時代初期の慶安二年(1649)に高7石の寺領を拝領。 江戸時代後期の文化三年(1806)、第二十二世證淵和尚により密教造りの本堂に改築された。
明治四年(1871)頃まで境内の一画に寺子屋があり、第二十三世興国亮淵和尚により「高田学舎」(高田小学校の前身)が設立された。 堂内には本尊の十一面観世音菩薩像の他、聖観世音菩薩、阿弥陀三尊、薬師如来、不動明王、地蔵尊、十王像、七福神など多くの仏像が安置されている。

落ち着いた雰囲気が漂う境内の正面に、破風に金ぴかの装飾金具が付けられた千鳥破風と軒唐破風のある本堂が建つ。 本堂前に鎖樋がない蓮花形の天水桶が置かれている。
3個の鰐口が下がる向拝の虹梁上や木鼻に精緻な龍の彫刻があり、木鼻の龍は向拝柱に巻き付くように施されていて迫力がある。 また、両破風の懸魚部に鳳凰とみられる彫刻がありこれも見事だ。 よく見ると、大棟や獅子口や鬼瓦だけでなく、掛瓦や軒丸瓦にも小さな「笹竜胆」の寺紋が入っている。
本堂左手の木陰に、塔身に種子が刻まれた重層の宝篋印塔と笠を乗せた石塔(笠塔婆と思う)がひっそりと立ち、笠塔婆の塔身に四方仏の種子と仏像名(正面は「釈迦像」)が刻まれている。
石塔の傍の石段上の一段高い所に、和様式建築で建てられた朱塗りの多宝塔が鎮座....上層に「薬王殿」の額が掲げられているので、二十五菩薩の一つの薬王菩薩を祀っているのだろう。

山門から眺めた境内..正面に本堂、直ぐ右手に手水舎が建つ

入母屋造本瓦葺の本堂..屋根に千鳥破風、向拝屋根には軒唐破風を設けている
 
本堂前参道にに置れた露盤宝珠を乗せた宝形屋根の常香炉/明治二十七年(1894)造立の石燈籠..古い台座の上に設置されたようだ

向拝前に蓮花形の天水桶が置かれているが鎖樋がない..向拝に3個の鰐口が下がる
 
装飾金具が付けられた千鳥破風に獅子口、軒唐破風に鳥衾を乗せた鬼瓦..大棟、獅子口、鬼瓦、掛瓦、軒丸瓦に「笹竜胆」の寺紋が入っている..両破風の懸魚は鳳凰の彫刻/彫刻が施された虹梁の上と木鼻に精緻な龍の彫刻..木鼻の龍は向拝柱に巻き付いている

入母屋造銅板葺の鐘楼..入母屋破風の懸魚は二重懸魚
 
木鼻に獅子の装飾彫刻が施された鐘楼と梵鐘/梵鐘に「南無本尊十一面観世音菩薩」の刻

本堂に向かって左手の一段高い所に建つ多宝塔

多宝塔への石段下に2基の石塔が立つ

上層に「薬王殿」の額が掲げられている多宝塔..薬王菩薩を祀っていると思う
 
下層は脇間が狭い方三間でご母子高欄を巡らす、板唐戸に連子窓などは和様式建築
 
明治十二年(1879)造立の重層の宝篋印塔..上下の塔身に種子が刻/文政十一年(1828)造立の笠付石塔(笠塔婆と思う)..四方仏の種子と仏名が刻され、正面は「釈迦像」と刻
 
注連縄が下がるので鎮守社か..注連縄は紙垂が付いた前垂注連/鎮守社の近くに佇む十三重石搭
 
本堂脇の狭い石段の上に建つ宝形造桟瓦葺の古い御堂..多宝塔建立前の旧薬王殿か?

本堂右手の客殿の玄関

客殿の右手に連なる庫裡
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興禅寺-(1) (横浜)

2018年01月23日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】平安時代の仁寿三年(853)、第3世天台座主慈覚大師(円仁和尚)が東国下降の折、この地で自ら十一面観世音菩薩像と勝軍地蔵尊像を彫って安置したのが開山の始まりとされる。 開山以後、度重なる兵火により伽藍を焼失したが、鎌倉時代後期の元応二年(1320)、時の領主であった桃井播磨守直常公により再建された。 宗旨は天台宗で、本尊は十一面観世音菩薩像。
武相不動尊霊場第7番、関東百八地蔵霊場第86番、准秩父三十四観音霊場第27番、横浜七福神福禄寿神、稲毛七薬師第6番の各札所。 六面に地蔵尊を刻んだ石幢は、鎌倉時代文保二年(1318)に直常公により寄進された。 

参道入り口の左右に福禄寿神像と新旧12体の六地蔵尊像が鎮座....満面に笑みを浮かべた福禄寿神が迎えてくれる。 下り坂の参道を進むと、門前に仏敵の侵入を防いでいる金剛力士像、本堂を向いて並ぶ「十二支守り本尊」、そして月待塔や供養塔が鎮座している。
虹梁上に七福神の装飾彫刻がある山門をぐぐると、直ぐ右手に起り屋根の手水舎があり、その右側の注連縄が張られた覆屋に、約700年前の鎌倉時代に造立された単制石憧が立つ。 また、単制石憧の直ぐ傍には、鎌倉時代か室町時代に造立された5基の古い板碑がひっそりと並んでいる。 いずれも貴重な石造物だが、特に憧身六面に六地蔵尊が浮き彫りされた単制石憧は珍しく、じっくりと拝観させてもらった。

下り坂になっている参道の入口..右に寺号標石、左に十一面観音菩薩と新旧の六地蔵尊像が鎮座
 
十一面観音菩薩碑..種子「キヤ」と本尊慈覚大師御作の刻/地蔵堂に鎮座する新旧12体の六地蔵尊像..堂内に舟光背型、堂前に丸彫りの地蔵尊が並ぶ..丸彫り像は平成元年(1989)造立で赤い帽子を被り前垂をしている
 
参道脇でにこやかな微笑みをたたえて参詣者を迎えている福禄寿神像

切妻造本瓦葺で袖塀を設けた山門..門前に金剛力士像が露座
  
阿形・吽形の力強い金剛力士像が鎮座し寺を仏敵から護っている/右側の金剛力士は金剛杵を振り上げ忿怒の形相

門前に本堂を向いて鎮座する「十二支守り本尊」..手前から阿弥陀如来・不動明王・大日如来・勢至菩薩・普賢菩薩・文殊菩薩・虚空蔵菩薩・千手観音菩薩の八体

門前の右手に「十二支守り本尊」に対面して佇む3基の石仏
  
月待塔の「二十三夜塔」..二十三夜の主尊は勢至菩薩/文化七年(1810)造立で兜巾角柱型の「秩父三十三番供養塔」..蓮華座で合掌する半肉彫りの観音菩薩像
  
安永八年(1779)造立の供養塔..念仏講中と観音講中による建立/門前に立つ明治初期造立の「芭蕉翁碑」と刻まれた石碑/山門袖塀に下がる「芭蕉翁碑」由来の説明板

山門の虹梁上に七福神の彫刻..木鼻は牡丹をあしらった精緻な獅子で、獅子が向拝柱に巻き付いているような彫刻

山門から眺めた境内..正面に入母屋造りの本堂、直ぐ右手に手水舎

切妻造銅板葺で起り屋根の手水舎
 
「盥漱」と刻まれた明治十二年(1879)造立の手水鉢/手水舎の傍に鎮座する子育て地蔵尊像

宝形造銅板葺で四方転び柱の覆屋に鎮座する石憧
 
鎌倉時代文保二年(1318)造立の単制石憧..憧身の六面に六地蔵尊が浮き彫りされている
 
単制石憧の傍に並ぶ5基の板碑(塔婆)..古そうだが、案内板から鎌倉時代か室町時代造立のようだ
  
寛延四年(1751)造立で竿が太くどっしりした石燈籠/前庭の植木の中に竿が半分まで埋まった織部石燈籠/横浜市の銘木古木指定の「モッコク」の前に鎮座する寿老人か
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本乗寺 (横浜)

2018年01月13日 | 寺社巡り-神奈川

【横浜・港北区】戦国時代の天文二十三年(1554)、後北条氏の家臣・小幡伊賀守泰久が日逞和尚を開山に迎えて創建した。 小幡伊賀守泰久は天文年間(1532~1555)頃、近くの八杉神社の裏手にあったとされる大豆戸城(別称:安山城、小幡泰久館、小幡氏館)という平山城に居住していた。
小幡泰久はもともと足利氏の一族である今川氏に仕えていたが、後に後北条氏に従い、永禄元年(1558)伊豆戸倉の合戦で討ち死にし、本乗寺に眠っているようだ。 宗旨は日蓮宗で、本尊は十界曼陀羅。

木立の先の小さな山門を見ながら参道を進む…門前に鎮座する左右とも阿形の狛犬が迎えてくれる。 擬宝珠高欄を設けた階を上がり山門をくぐると、緑に囲まれた静謐な境内が広がる。 本堂前に美しく緑青が浮き出た梵鐘がで~んと置かれているが、境内を見回しても鐘楼がない。
山門脇に切妻造本瓦瓦葺の手水舎があるが、その重厚な造りから元は鐘楼だったのではないか....と思った。 手水舎の隣の小さな覆屋に舟形光背型石仏と青面金剛庚申塔が鎮座しているが、石仏は宝冠をいただき智拳印を結ぶ珍しい大日如来立像だ。 覆屋前右手に駒形の文字庚申塔が立つが、昭和初期に造立されたもの。 堂宇境内や墓所に多層塔や石燈籠などの石造物があるが、比較的近年に造立されたものが多い。
 
参道から眺めた山門/袖塀を設けた山門と左手に手水舎..門前左右に阿形の獅子の狛犬が鎮座し、寺号標石が立つ

切妻造桟瓦葺で四脚門の山門..寺号標石は嘉永三年(1850)造立

虹梁上に龍の、木鼻は獅子と獏の彫刻
  
門前に装飾彫刻が施された台座に2頭とも阿形の獅子の狛犬が鎮座/門前の路傍に佇む2基の石燈籠

入母屋造桟瓦葺の本堂

本堂入口の扉は桟唐戸で脇間は全面が腰高の格子窓..本堂前に梵鐘が置かれている
 
虹梁上と木鼻の勇ましい龍の彫刻はいずれも精緻/赤い絨毯が敷かれた向拝に鰐口が下がる

本堂前に石仏、石燈籠そして梵鐘が置かれているがいずれも近年の造立で新しい
  
平成二十三年(2011)造立の石仏は聖観音菩薩(と思う)、平成二年(1990)造立の石燈籠/梵鐘は平成十四年(2002)鋳造..開口部が波を打っている/梵鐘龍頭は勇ましい姿の龍
 
本堂の正面と側面の廻廊にずらりと下がる釣燈籠群
 
本堂後方の建物..2重の切妻破風の入口に題目塔、狛犬そして卒塔婆が置かれているが近代的な御堂か
 
山門傍に建つ重厚な切妻造本瓦葺の手水舎/手水舎の後方(塀側)に板碑型、舟形光背型、箱型、駒型など多くの墓碑・石仏が鎮座

覆屋に鎮座する舟形光背型石仏と青面金剛庚申塔..いずれも造立年不詳だが石仏は宝冠をいただき智拳印を結ぶ大日如来立像..右手の駒形文字庚申塔は昭和四年(1929)造立
  
造立年不詳の十三重層塔..軸部に四方仏、基礎に格狭間/寛永十年(1633)造立の墓碑の宝篋印塔..搭身に輪郭を巻いて題目、相輪部は宝珠と伏鉢で妙と法の刻/造立年不詳の「帯塚搭」(と思う)
  
昭和六十一年(1986)造立の十三重層塔..軸部に霊の異体字、基礎に格狭間/寛政萬々年造立の題目塔..開祖日蓮大菩薩と開山日什大正師の刻/本堂前にある明治十四年(1881)造立の報恩搭
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