かつて、友人が最愛の伴侶を病気で失い、その悲しみから立ち直れないでいたとき、
彼女を支えたのは、長年飼っていた愛犬でした。
もちろん、周囲は、彼女に励ましと慰めの多くの言葉をかけました。
私も、その一人でした。
「これからは、きっと、いいことがあるよ」
「いつまでもメソメソしていたら、彼もあの世で悲しむよ」
「あなたが、元気になることが、彼の一番の供養だよ」
「やさしい息子さんもいるのだから、成長を楽しみに頑張って」
などなど、会う度に元気づけようとしました。
でも、残念ながら、彼らの言葉は、友人にはほとんど響かなかった、と後に彼女は言いました。
そんなこと言われなくても、彼女自身がわかっていること。
頭でわかることと、心で納得することは別です。
時には、周囲の励ましに応えられない自分を責めたこともあり、余計に、つらくなったそうです。
そんなときに、彼女の心を癒してくれたのが、愛犬でした。
10年以上飼っていて、いつも、彼女の独り言を静かに聞いてくれていた愛犬は、このときも、じっと傍にいて、彼女を見守り、彼女の言葉に耳を傾けてくれたそうです。
もちろん、犬がどこまで彼女の言葉を理解できたかはわかりません。
でも、少なくとも、犬は
「悲しんだら、だめよ」
「早く、元気出しなさい!」
「前向きに生きていってね!」
などと無理は言いません。
ただ、寄り添うことだけをしてくれたのです。
それが、友人にとっては、何より有り難いことに感じられたのです。
やがて、彼女は、少しずつ現実を受け入れ、自ら心を立て直し、笑顔を取り戻していったのです。
相手の話を聴くことほど、奥が深く難しいものはないことを、コーチングを学んだとき、私は知りました。
時には、力強い言葉で背中を押したり、的確なアドバイスを与えたりすることも必要かもしれません。
ただ、人が打ちひしがれているとき、その人が最も望むことは、ひたすら、話に耳を傾け思いを受け止めてくれることだと思います。
そのとき、人は、自分は独りじゃない、とどこかで「絆」を感じ、悲しみや怒りで固くなった心のしこりがほぐれていく心地よさに救われるような気がするのです。
落ち込んでいるときには、どんなに相手が問題解決能力に優れた、世話好きな人であっても、口数の多い人とは会いたくないのも、そんな理由からだと思います。
彼女を支えたのは、長年飼っていた愛犬でした。
もちろん、周囲は、彼女に励ましと慰めの多くの言葉をかけました。
私も、その一人でした。
「これからは、きっと、いいことがあるよ」
「いつまでもメソメソしていたら、彼もあの世で悲しむよ」
「あなたが、元気になることが、彼の一番の供養だよ」
「やさしい息子さんもいるのだから、成長を楽しみに頑張って」
などなど、会う度に元気づけようとしました。
でも、残念ながら、彼らの言葉は、友人にはほとんど響かなかった、と後に彼女は言いました。
そんなこと言われなくても、彼女自身がわかっていること。
頭でわかることと、心で納得することは別です。
時には、周囲の励ましに応えられない自分を責めたこともあり、余計に、つらくなったそうです。
そんなときに、彼女の心を癒してくれたのが、愛犬でした。
10年以上飼っていて、いつも、彼女の独り言を静かに聞いてくれていた愛犬は、このときも、じっと傍にいて、彼女を見守り、彼女の言葉に耳を傾けてくれたそうです。
もちろん、犬がどこまで彼女の言葉を理解できたかはわかりません。
でも、少なくとも、犬は
「悲しんだら、だめよ」
「早く、元気出しなさい!」
「前向きに生きていってね!」
などと無理は言いません。
ただ、寄り添うことだけをしてくれたのです。
それが、友人にとっては、何より有り難いことに感じられたのです。
やがて、彼女は、少しずつ現実を受け入れ、自ら心を立て直し、笑顔を取り戻していったのです。
相手の話を聴くことほど、奥が深く難しいものはないことを、コーチングを学んだとき、私は知りました。
時には、力強い言葉で背中を押したり、的確なアドバイスを与えたりすることも必要かもしれません。
ただ、人が打ちひしがれているとき、その人が最も望むことは、ひたすら、話に耳を傾け思いを受け止めてくれることだと思います。
そのとき、人は、自分は独りじゃない、とどこかで「絆」を感じ、悲しみや怒りで固くなった心のしこりがほぐれていく心地よさに救われるような気がするのです。
落ち込んでいるときには、どんなに相手が問題解決能力に優れた、世話好きな人であっても、口数の多い人とは会いたくないのも、そんな理由からだと思います。