自由は幸せの必須条件である、と私たちは思っています。
おそらく、誰もが、不自由であることより自由であることを望んでいるに違いないでしょう。
自由を考える時に、若い頃、3か月間通った語学学校での出来事を思い出します。
そこは、とてつもなく規則の厳しい学校でした。
遅刻はどんな理由にせよ、絶対許されません。
始業10分前に教室のドアはロックされ、その後の入室は認められません。
電車の遅延や登校途中のアクシデントも言い訳にはなりません。
そして、遅刻数回ともなると、即刻退学です。
なので、遅れの原因となる可能性を想定して、かなりの余裕をみて家を出たものでした。
なぜ、こんな軍隊のような学校を選んだのか?
おそらく、厳しさが短期間での英語学習の成果をもたらす、と単純に考えたのでしょうね。
当時、春闘があり、ストライキによる電車の運休が相次ぎ、とても、通学できる状況ではなくなりました。
もちろん、それすら、欠席や遅刻の理由として認められないので、仕方なく、早朝家を出て、動いている路線やバスを利用して長時間かけて、登校したことを鮮明に覚えています。
ネットが使えない時代だったので、交通手段を調べるのも面倒でしたし、到着までの所要時間も半端ないものでした。
でも、そんな苦労はあっても、気持ちは楽でした。
何故なら、迷いがないからです。
行こうか、行くまいか?
こんな無理をしてまで、行くことはないかなぁ~?
などと、あれこれ迷わずに済むからです。
だって、「行く」以外の選択肢がないのですから。
さぼっても咎められない大学時代と違い、どんな時でも「行くっきゃないから」です。
さぼるのも自由、そうしないのも自由・・・
行動が、自分の自由意思に委ねられていると、あれこれ余計な思いに振り回され、疲れます。
行動を決定するのにエネルギーを費やし、さらに、さぼることを選択してしまうと、後から、後悔や自己否定感に苛まれます。
「自由じゃないって、捨てたもんじゃないな」と、あの時、思いました。
身分制度が徹底していて、生まれた時から、身分や職業が決められていた江戸時代が、実は、現代より幸福度が高かった、と聞いたことがあります。
まさに、「置かれた場所で咲く」しかなかったということです。
職業選択の自由が保障され、能力や努力次第で、誰にでも勝つチャンスが与えられている現代(いま)を生きる私たちがツラいのは、「無限の可能性」という呪いの言葉に苦しめられるからです。
頑張れば、未来は拓ける。
能力があれば、思い通りの人生が実現する。
それは、期待通りの人生が実現しないのは、自分の能力や頑張りが足りないことを意味します。
思い通りに生きてもいい、という自由を得た私たちを苦しめるのは、思い通りにいかない人生への苛立ちです。
自分を責め、相手を羨む思いです。
そうは言っても、長い時代を経て、ようやく手に入れた「自由」を捨てるようなことがあってはいけません。
自由であることは、自分とは何か?自分はどう生きるか?という答えを真剣に探り、責任と情熱をもって、生きることが要求されるのだと思います。
自由とは、自分の明確な意思がないと、取り扱いに苦慮する代物です。
自我の希薄な私たち日本人には、なかなか容易なことではないような気がします。
まずは、子どもの頃から、主体性をもって考え、行動できる力を育む必要があるのでしょう。
大人になってしまった私たちも、自分を見つめ、自分を知り、あり方を探り、確かな自己を築いていく努力をしていくべき
です。
それができた時、初めて、自由を謳歌できるのです。
ところで、超厳しい語学学校での成果はどうだったか、って?
う~ん・・・
結局、厳しさに甘えて(?)、主体性がそがれ、積極的な勉強がおろそかになってしまった、という残念な結果に終わりました。
おそらく、誰もが、不自由であることより自由であることを望んでいるに違いないでしょう。
自由を考える時に、若い頃、3か月間通った語学学校での出来事を思い出します。
そこは、とてつもなく規則の厳しい学校でした。
遅刻はどんな理由にせよ、絶対許されません。
始業10分前に教室のドアはロックされ、その後の入室は認められません。
電車の遅延や登校途中のアクシデントも言い訳にはなりません。
そして、遅刻数回ともなると、即刻退学です。
なので、遅れの原因となる可能性を想定して、かなりの余裕をみて家を出たものでした。
なぜ、こんな軍隊のような学校を選んだのか?
おそらく、厳しさが短期間での英語学習の成果をもたらす、と単純に考えたのでしょうね。
当時、春闘があり、ストライキによる電車の運休が相次ぎ、とても、通学できる状況ではなくなりました。
もちろん、それすら、欠席や遅刻の理由として認められないので、仕方なく、早朝家を出て、動いている路線やバスを利用して長時間かけて、登校したことを鮮明に覚えています。
ネットが使えない時代だったので、交通手段を調べるのも面倒でしたし、到着までの所要時間も半端ないものでした。
でも、そんな苦労はあっても、気持ちは楽でした。
何故なら、迷いがないからです。
行こうか、行くまいか?
こんな無理をしてまで、行くことはないかなぁ~?
などと、あれこれ迷わずに済むからです。
だって、「行く」以外の選択肢がないのですから。
さぼっても咎められない大学時代と違い、どんな時でも「行くっきゃないから」です。
さぼるのも自由、そうしないのも自由・・・
行動が、自分の自由意思に委ねられていると、あれこれ余計な思いに振り回され、疲れます。
行動を決定するのにエネルギーを費やし、さらに、さぼることを選択してしまうと、後から、後悔や自己否定感に苛まれます。
「自由じゃないって、捨てたもんじゃないな」と、あの時、思いました。
身分制度が徹底していて、生まれた時から、身分や職業が決められていた江戸時代が、実は、現代より幸福度が高かった、と聞いたことがあります。
まさに、「置かれた場所で咲く」しかなかったということです。
職業選択の自由が保障され、能力や努力次第で、誰にでも勝つチャンスが与えられている現代(いま)を生きる私たちがツラいのは、「無限の可能性」という呪いの言葉に苦しめられるからです。
頑張れば、未来は拓ける。
能力があれば、思い通りの人生が実現する。
それは、期待通りの人生が実現しないのは、自分の能力や頑張りが足りないことを意味します。
思い通りに生きてもいい、という自由を得た私たちを苦しめるのは、思い通りにいかない人生への苛立ちです。
自分を責め、相手を羨む思いです。
そうは言っても、長い時代を経て、ようやく手に入れた「自由」を捨てるようなことがあってはいけません。
自由であることは、自分とは何か?自分はどう生きるか?という答えを真剣に探り、責任と情熱をもって、生きることが要求されるのだと思います。
自由とは、自分の明確な意思がないと、取り扱いに苦慮する代物です。
自我の希薄な私たち日本人には、なかなか容易なことではないような気がします。
まずは、子どもの頃から、主体性をもって考え、行動できる力を育む必要があるのでしょう。
大人になってしまった私たちも、自分を見つめ、自分を知り、あり方を探り、確かな自己を築いていく努力をしていくべき
です。
それができた時、初めて、自由を謳歌できるのです。
ところで、超厳しい語学学校での成果はどうだったか、って?
う~ん・・・
結局、厳しさに甘えて(?)、主体性がそがれ、積極的な勉強がおろそかになってしまった、という残念な結果に終わりました。