NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」をご覧になっていますか?
タイトルの「とと」とは、お父さんのことです。
三人姉妹の長女である主人公常子が子どもの頃、父親を結核で失います。
自分の死を悟った父親は、常子に「自分の代わりに家族を支えてほしい」と頼みます。
子どもながら、いえ、子どもだからこそ、父の最期の依頼を重くしっかり受け止めた常子は、父との約束を忠実に守るべく奮闘します。
必死で仕事をして得た報酬も、自分のためには使わず、妹たちの学費は勿論のこと、彼女らのプレゼントに使います。
それが常子の喜びであったとはいえ、妹たちにとっては心の負い目になっていることに、常子は気がつかなかったのです。
妹たちの、常子への感謝と不満の入り混じった複雑な思いは、あることがきっかけで爆発します。
姉の思いや行為が重くて息苦しいことを訴えます。
ドラマを見ている人の中には、
「エッ?常子は自分を犠牲にしてまで妹たちに尽くしているのに、妹たちはなんて恩知らず!」
と憤った方もいたかもしれません。
確かに、常子の心がけは立派です。
でも、その立派さを押し付けられる身としては、必ずしもうれしいものではないのです。
仮に、常子が、自分のためにお金も使って楽しんでいるなら、妹たちも納得したはずです。
自分に余裕がないのに相手のためにしてあげる時、された側は、そこに行為者の恩着せがましい思いの「重さ」というものを無意識に感じて、手放しでは喜べないある種の不快感を覚えるものです。
事実、行為者も、その善意の中に、どこかに「やってあげたんだ」という優越感や感謝を求める気持ちを潜ませてしまうことは否めない事実でしょう。
だから、相手が全く感謝を示さなかったり、時には自分の行為を拒否したりしたもんなら、怒りを感じてしまうことになってしまうのです。
かつて、セッションしたA子さんが、こんな悩みを打ち明けてくれました。
まじめで完璧主義の彼女は、3歳の子どもの子育てにも力が入り、わが子のために、毎回手の込んだ素晴らしい食事を用意するそうです。
ところが、食が細く好き嫌いの多いお子さんは、食べてくれないことが少なくなく、せっかく作った料理がお皿に沢山残ると、怒りがこみあげてきて、つい、激しく怒鳴ってしまうそうです。
時には、子どもをたたいてしまうこともあり、食事の時間は、まさに「闘い」なんだとのこと。
その子の気持ちを考えると、いたたまれない気持ちになりました。
だって、ママが手間暇かけて作ったことは子どもには関係ないことです。
「食べたくないものは食べたくない」し
「嫌いなものは嫌い」
であり、子どもにとって、理屈は通用しないのですから~。
「もっと、気楽に考えて、お子さんの好きなものを手軽に用意してみたらいい」とA子さんにアドバイスしたことを覚えています。
手抜きして作ったものを残されてもそんなに腹が立たないはずです。
でも、自分が使った時間もエネルギーも台無しにされては穏やかではいられません。
子どもは、毎回料理本に掲載されているような栄養満点の美しい食事を提供することを頼んではいません。
頼んでもいないのに、ママの力作を目の間に並べられ、食べたくないのに、喜んで完食することを強要されても、つらいだけです。
それをママの愛情と受け取れるものでしょうか。
今、仕事をしながら2歳の子どもを育てている娘は、適当に手抜きをしています。
時間的にも体力的にも余裕のない毎日だけに、子どもの食事も、栄養面だけは気を遣っているようですが、けっこう、いい加減。
毎日メニューを工夫したり見栄えよく仕上げたりなどの努力は全くしていません。
幸い、子どもは毎食喜んでモリモリ食べます。
もちろん、時には、味噌汁をスプーンでおかずの器に移す「遊びに」に夢中になることもあります。
おかずの皿は味噌汁でビチャビチャになり食べられる代物ではなくなります。
それでも、娘は、笑顔で「あらあら~」とやさしくたしなめるだけ。
自分が心を込めて時間と手間暇をかけて作った料理なら、こうはいきません。
自分の時間も大切にし、子育ても無理し過ぎず楽しんでいる娘が子どもを感情的に叱責する姿を見たことは一度もありません。
かつて、私自身が、A子さんのように、子どものため、夫のため、親のため、友人のために無理して尽くすタイプでした。
それが、人として正しいことだと思い込んでいました。
頑張る私は、頑張らない娘を否定的に見ていたかもしれません。
でも、頑張っても感謝もされず、報われない状況に虚しくなる私は幸せは得られなかったのです。
そうですよね。誰も、私に犠牲的に頑張ることを望んではいなかったのですから。
相手に対して、勝手に尽くすことが正しいことではない、と気づくのに時間がかかりました。
でも、気づいたのです。
自分の心の中に「犠牲」という意識が1ミリでもあっては、相手の気持ちも傷つけることになります。
そして、無意識に恩を売っているんです。
その気持ちが相手に伝わり、感謝が不快感にすり替わっていくのでしょうね。
人のために頑張らない娘が、その割には、夫にも友人にも気難しい上司にも好かれている様子を見て、ほどほどの愛情が相手にとっても負担にならなず心地よいのだ、ということが分かりました。
愛が相手の自由を奪う時、それは愛ではなくなります。
「程よい手抜きも愛のうち」かも・・・
これ、ズボラの言い訳に使えそうですね。
タイトルの「とと」とは、お父さんのことです。
三人姉妹の長女である主人公常子が子どもの頃、父親を結核で失います。
自分の死を悟った父親は、常子に「自分の代わりに家族を支えてほしい」と頼みます。
子どもながら、いえ、子どもだからこそ、父の最期の依頼を重くしっかり受け止めた常子は、父との約束を忠実に守るべく奮闘します。
必死で仕事をして得た報酬も、自分のためには使わず、妹たちの学費は勿論のこと、彼女らのプレゼントに使います。
それが常子の喜びであったとはいえ、妹たちにとっては心の負い目になっていることに、常子は気がつかなかったのです。
妹たちの、常子への感謝と不満の入り混じった複雑な思いは、あることがきっかけで爆発します。
姉の思いや行為が重くて息苦しいことを訴えます。
ドラマを見ている人の中には、
「エッ?常子は自分を犠牲にしてまで妹たちに尽くしているのに、妹たちはなんて恩知らず!」
と憤った方もいたかもしれません。
確かに、常子の心がけは立派です。
でも、その立派さを押し付けられる身としては、必ずしもうれしいものではないのです。
仮に、常子が、自分のためにお金も使って楽しんでいるなら、妹たちも納得したはずです。
自分に余裕がないのに相手のためにしてあげる時、された側は、そこに行為者の恩着せがましい思いの「重さ」というものを無意識に感じて、手放しでは喜べないある種の不快感を覚えるものです。
事実、行為者も、その善意の中に、どこかに「やってあげたんだ」という優越感や感謝を求める気持ちを潜ませてしまうことは否めない事実でしょう。
だから、相手が全く感謝を示さなかったり、時には自分の行為を拒否したりしたもんなら、怒りを感じてしまうことになってしまうのです。
かつて、セッションしたA子さんが、こんな悩みを打ち明けてくれました。
まじめで完璧主義の彼女は、3歳の子どもの子育てにも力が入り、わが子のために、毎回手の込んだ素晴らしい食事を用意するそうです。
ところが、食が細く好き嫌いの多いお子さんは、食べてくれないことが少なくなく、せっかく作った料理がお皿に沢山残ると、怒りがこみあげてきて、つい、激しく怒鳴ってしまうそうです。
時には、子どもをたたいてしまうこともあり、食事の時間は、まさに「闘い」なんだとのこと。
その子の気持ちを考えると、いたたまれない気持ちになりました。
だって、ママが手間暇かけて作ったことは子どもには関係ないことです。
「食べたくないものは食べたくない」し
「嫌いなものは嫌い」
であり、子どもにとって、理屈は通用しないのですから~。
「もっと、気楽に考えて、お子さんの好きなものを手軽に用意してみたらいい」とA子さんにアドバイスしたことを覚えています。
手抜きして作ったものを残されてもそんなに腹が立たないはずです。
でも、自分が使った時間もエネルギーも台無しにされては穏やかではいられません。
子どもは、毎回料理本に掲載されているような栄養満点の美しい食事を提供することを頼んではいません。
頼んでもいないのに、ママの力作を目の間に並べられ、食べたくないのに、喜んで完食することを強要されても、つらいだけです。
それをママの愛情と受け取れるものでしょうか。
今、仕事をしながら2歳の子どもを育てている娘は、適当に手抜きをしています。
時間的にも体力的にも余裕のない毎日だけに、子どもの食事も、栄養面だけは気を遣っているようですが、けっこう、いい加減。
毎日メニューを工夫したり見栄えよく仕上げたりなどの努力は全くしていません。
幸い、子どもは毎食喜んでモリモリ食べます。
もちろん、時には、味噌汁をスプーンでおかずの器に移す「遊びに」に夢中になることもあります。
おかずの皿は味噌汁でビチャビチャになり食べられる代物ではなくなります。
それでも、娘は、笑顔で「あらあら~」とやさしくたしなめるだけ。
自分が心を込めて時間と手間暇をかけて作った料理なら、こうはいきません。
自分の時間も大切にし、子育ても無理し過ぎず楽しんでいる娘が子どもを感情的に叱責する姿を見たことは一度もありません。
かつて、私自身が、A子さんのように、子どものため、夫のため、親のため、友人のために無理して尽くすタイプでした。
それが、人として正しいことだと思い込んでいました。
頑張る私は、頑張らない娘を否定的に見ていたかもしれません。
でも、頑張っても感謝もされず、報われない状況に虚しくなる私は幸せは得られなかったのです。
そうですよね。誰も、私に犠牲的に頑張ることを望んではいなかったのですから。
相手に対して、勝手に尽くすことが正しいことではない、と気づくのに時間がかかりました。
でも、気づいたのです。
自分の心の中に「犠牲」という意識が1ミリでもあっては、相手の気持ちも傷つけることになります。
そして、無意識に恩を売っているんです。
その気持ちが相手に伝わり、感謝が不快感にすり替わっていくのでしょうね。
人のために頑張らない娘が、その割には、夫にも友人にも気難しい上司にも好かれている様子を見て、ほどほどの愛情が相手にとっても負担にならなず心地よいのだ、ということが分かりました。
愛が相手の自由を奪う時、それは愛ではなくなります。
「程よい手抜きも愛のうち」かも・・・
これ、ズボラの言い訳に使えそうですね。