岩崎武雄は、「存在の弁証法」から「認識の弁証法」を切り離しました。わたしが主張する複合論は、この「認識の弁証法」を継承しています。「存在の弁証法」を切り捨てることが、ヘーゲル弁証法の合理的核心を把握する前提であると考えています。
「存在の弁証法」とは、存在そのものの中に矛盾が実在するとみなし、存在を把握するためには、矛盾律を放棄しなければならないと主張する考え方を指します。例えば、ものの運動は、そのものがこの場所に有ると同時に無いという矛盾によって成り立つから、運動を考えるときには、矛盾律を捨てなければならないと考えるのです。
しかし、「存在の弁証法」で「矛盾」と見られているものは、矛盾律の誤った適用に基因する「見せかけの矛盾」に他なりません。
存在の領域に矛盾はありません。したがって、運動を考えるときに、矛盾律を放棄する必要もありません。運動と矛盾は何の関係もないのです。
「見せかけの矛盾」を、二つ、見ておきます。一つ目は、その「はじまり」。二つ目は、その「つづき」。
ヘーゲル。
この矛盾はあちこちに見受けられる単なる変則とみなすべきでなく、むしろその本質的規定において否定的なるもの、あらゆる自己運動の原理であって、この自己運動は、矛盾の示現以外のどこにも存しない。外的な感性的運動そのものはその直接的定在である。
ある物が運動するのは、それが今ここにあり他の瞬間にはあそこにあるためばかりでなく、同一の瞬間にここにあるとともにここにはなく、同じ場所に存在するするとともに存在しないためでもある。
人は古代の弁証法論者とともに、彼らが運動のなかに指摘した矛盾を認めなければならないが、これは、運動はそれゆえに存在しない、ということにはならない。むしろ反対に、運動は存在する矛盾そのものである、ということになるのだ。(『大論理学』)
ヘーゲルは、ゼノンの「アキレスと亀」や「飛んでいる矢」を逆手にとって、運動は存在する矛盾そのものである、と考えました。存在の領域に「矛盾」を見る人類の誕生です。
マルクス。
商品の交換過程は、矛盾したお互いに排除しあう関係を含んでいることを知った。商品の発達は、これらの矛盾を止揚しないで、それが運動しうる形態を作り出している。これがとりもなおさず、一般に現実の矛盾が解決される方法である。
例えば、ある物体が不断に他の物体に落下しながら、同じく不断にこれから飛び去るというのは、一つの矛盾である。楕円は、その中でこの矛盾が解決され、また実現されている運動形態の一つである。(『資本論』)
マルクスは、楕円を、「落下する」と「飛び去る」という矛盾が、解決され、実現されている運動形態の一つと考えます。しかし、「落下する」と「飛び去る」は、背反する方向に力が働いているだけのことで、矛盾とは何の関係もないのではないでしょうか。
はじめに「矛盾」があり、それが楕円という運動形態で解決されているのではありません。事実は、はじめから「矛盾」はなく、楕円という運動形態があるだけなのです。