担当授業のこととか,なんかそういった話題。

主に自分の身の回りのことと担当講義に関する話題。時々,寒いギャグ。

聞き間違い。

2013-03-08 23:32:51 | もじりあーの。
昨日は秋月電子通商秋葉原店と若松通商に二度目の訪問を果たした。

秋月電子通商でパーツを漁っているとき,隣にいた若い男二人連れの一方が「先生だ」と言うのが聞こえた。

驚いて二人を見ると,顔の見える方は見覚えがあるような気がした。

電気・電子工学系の学生を相手に授業をしている身であるから,そのような場所でかつての教え子と顔を合わせることはあってもなんら不思議なことではない。

しかし,特に僕に声をかける気配はなく,それきり二人はどこかへ行ってしまった。

僕に気づいたのなら,すぐそばで噂をするのではなく,直接声をかけてくれればよかったのに,などと悶々としていたが,ふとした拍子に聞き間違いではなかったかと気が付いた。

その会話が聞こえた時,二人はセンサー類が置かれた棚の前にいた。

なので,正しくは

「先生だ」

ではなく,

「センサーだ」

と言ったのである。

思い返せば,その一言の後の会話ではアルコール・センサーなどのことを話題にしていた。


今日,近所に出かけた時,途中のそこそこ大きな交差点に10人ほどの警官が集まっているところに遭遇した。事故の様子はなく,交通整理のときの格好をした警官ばかりであった。

交差点に差し掛かった時は,2名の警官が交差点の真ん中に足踏み台を運んでいくところだった。何かが始まるのは間違いないが,足止めをくらうという嫌な予感にばかり気を取られていた。

一人の警官が全員に聞こえるように「次赤になったら全部止めて」と言った。

ちょうど僕が進もうとしている方向が青になる番なのに,車だけではなく,歩行者も止める気満々のようであった。

運が悪いなぁと思っていると,案の定,信号が赤になった瞬間,

「メットー!」

という掛け声とともにすべての交通が制止された。

おいおい,何が「メット」だよ。交通整理している警官がヘルメットをしているのなんか見たことないぞ。それに,ヘルメットを着用しなければならないのなら,かぶってから作業に入れよ。

などと止められたことへの不満で胸の裡で文句を垂れつつ,「ああ,こっちの信号が青なのに渡れないなんて」と憾みのこもった目を信号に向けた途端,異変に気付いた。

そこの交差点のすべての信号が消灯していたのである。

つまり,

「メットー!」

は,ヘルメットと叫んだのではない。

「滅灯(めっとう)!」

と言ったのであった。

目の前の状況にぴったり当てはまる漢字に脳内で変換できたとき,感動を覚えたと同時に,自分の勘違いがおかしくなってきた。

それほど待たずに横断歩道を渡らせてもらえた。しばらくは滅灯が続いているようだったが,十数分後にまたそこを通りがかったときには警官の数も減り,信号も普段通りに点灯していた。

人為的に信号が消灯される瞬間に立ち会ったのは初めての経験である。工事をしている様子でもなかったので,何が目的だったのかはわからない。また,信号を誰がどう消灯したのかも気になったが,滅灯の瞬間に周囲の警官の所作に何ら注意を払わなかったので,それもわからずじまいである。


僕は人と話しているときにしょっちゅう聞き間違えるというのは,自分の癖としてはっきり自覚があるが,二日立て続けに印象に残る聞き間違いをするというのはレアな体験であった。

今後,連続して聞き間違いを連発するというのが自分にとって珍しくもなんともないことにならないかと心配である。
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振動現象。

2013-03-08 00:14:28 | Weblog
人が外部からなんら手を加えていないのに,なんらかの現象が周期的に繰り返されるというのは実に不思議なことだという思いを,最近になってようやく抱くようになった。

振動が始まるには,初めに何らかのきっかけが必要だというような話を,発振回路の仕組みを解説したある本で見かけた。

だとすると,例えば胎児の心臓はいつごろから動き始めるのだろうか。そんなことがふと気になった。

僕には子供がいないので全くわからないのだが,心臓の鼓動と同じく周期的に繰り返す呼吸については,ドラマなどの出産シーンを思い出す限り,生まれた瞬間に自発的な呼吸が開始されるように思う。

それは脳がそのような指令を出し,それがきっかけとなって死ぬまで止まない呼吸が開始されるのだろう。

では心臓はどうか。

ときどき胎児の心音をチェックするという話を耳にするように思うので,ある程度成長した胎児の心臓は動いているのだろう。それは一体いつごろからなのか。また,心臓が動き出すには何らかのきっかけがあるのだろうか。へその緒でつながっている母体の脈動がそのきっかけを担っているのだろうか。

もし母体の鼓動あ胎児の鼓動に影響を与えているのであれば,胎児の心拍は母体の心拍と同じか,それとも異なるのかという疑問も生じる。

このように考えていくと,ときどき話題になる体内時計といった機能の仕組みも俄然気になってくる。

分子のようなミクロなレベルではこれといった振動が見られなくとも,それらの集団が全体としてなんらかの周期的な変化を生み出すということは往々にしてありそうに思われる。そしてそういった現象の解明は,現代科学の一つの大きなテーマになっているようにも思う。

ヒトは,動物であるゆえか,動きのあるものに強い関心を示す。ただし,一回こっきりのイベントの場合は,印象が薄くてすぐに忘れてしまい,継続した興味の対象とはなりにくいだろう。それに対し,振動現象は,じっと見ていてもずっと同じような動きを繰り返し続けるので,それを見ながらいろいろなことに思いをめぐらすことができる。そして,「なぜ動いているのだろう」という動力に関する問いとは異質な,「なぜ繰り返すのだろう」という疑問もわいてくるのである。

ヒトは,自分の身の周りのことはなるべく急激な変化がなく平穏であってほしいと願うものではないかと思うが,一方で,動くものや変化していくものを眺めるのは好きである。そのように考える立場に立つと,「なぜヒトは変化を認識することができるのか」,「なぜヒトは物事が繰り返されているということに気づくのか」といった,ヒトの認知能力に関する疑問もわき起こってくる。

物事が変化するとはどういうことかをきちんと定義するにはどうすればよいか,ということは以前から疑問に思っていたことであるが,振動現象ということを根として考えを膨らませていって,以前から親しみのある僕にとっての古い疑問に辿り着くというのも,また面白いことのように感じる。

そういえば時計というのは一定の間隔で振動していると信じられている現象を利用して計るものであるから,「時の流れ」,「物事の変化」,「振動現象」というのは古来ヒトが追究し続けている大テーマの一つなのだと,ここまで書き綴ってようやく気が付いた。
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