妙適これ菩薩の位なり
カトマンズ市内のニュロードを走る車の排気ガスはもの凄い。車の数は日本のそれに比べると、問題にならないほど少ないのだが、排ガス規制がないから、すすと爆音を撒き散らして車が走るので、カトマンズの大気汚染はすごいものがある。加えて、どうもカトマンズという街は、盆地の底にあたるようだ。地形が池の底みたいなもので、排気ガスが四方から集まってくるのだろう。
すべての大気汚染がこの盆地に集まってきて、小さな町全体を包み込んでしまう。排気ガス規制とは無縁の車が、もうもうと排気ガスを出して走って回っている。商店街が立ち並ぶ通りは道幅が狭く車が通れるような状態ではないのだが、それでも排気ガスのせいで、のが痛くなるし、息が苦しくなる。僕はタオルを口に当てて、町の主だった通りを歩いた。カトマンズの大気汚染を思うと、これは正解だ。
日本と違って、工業が発達していない農業中心の都市であるにもかかわらず、あのもの凄い排ガスとはどういうことか。それは工場の排気ガスではなくて、単に車の排気ガスだけなのだが、緑もあり、川もある、こんなちっぽけな街に排気ガスが充満して、息苦しいなんて信じられないことだ。
日本はあんなにたくさん、車が走っているにもかかわらず息苦しいとは思わない。
そんなカトマンズを離れて、田園風景を楽しみながら、こ1時間もトロリーバスにゆられていると、終点バクタプルに着く。
バクタプルは15世紀から18世紀にかけて栄えた町で、奈良や京都と同じく古都である。そこではネワール文化が栄えた。この街は別名バドガオンともいうが、それはどういう事を意味するのだろうか。
バクタプルは赤茶色のレンガで作られた街で、町全体が埃をかぶったようにくすんで古びている。古色蒼然とした雰囲気が街一面に漂っている。古色蒼然、そう、!。この言葉が良く似合っている。ぴったりだ。この街はレンガを作ったり、焼き物を作っているので、あちこちから煙が立ち昇り、
そのせいで余計に、くすんで見えるのかも知れない。いや4,500年も昔の古都だから古びているのは当たり前だ。街を一巡して僕はそう思った。
日を改めて後日、僕はそんなバクタプルへ出かけた。トロリーバスを降り、街の中心部に入ろうとするとゲートがあり、ここで入場料を払うことになっている。この町の中心部はすべて文化財であるので、その保護基金として
外国人は入場料を払うわけである。
ダルバール広場へ行くのには、歩いて15分ほどかかった。地図を持っていなかったので、どこをどう通ったのかわからないが、細い迷路のような
路地をさまよっているうちに広場に出た。そこには五重の塔があり、その向かいには木造の寺がある。
その寺の木製のひさしには、いろいろ彫刻が施されていた。
ひさしの上の方には菩薩の姿が刻み込まれていて、その下にはさまざまなスタイルのミトーナ像が柱1本につき1体刻まれていた。
なに?ミトーナ像が、寺のひさしのに?
僕はびっくりして、この意味を誰かに尋ねようとしたが、人通りは少なく尋ねることもできず、そのままになってしまった。
それにしてもこの木造の寺は日本の寺とは大違いである。日本の寺には少なくとも性に関することは、一切見受けられない。だいたいミトーナ像などというものは、おっぴらに人の目の前にさらしておくべきものじゃないと
いうのが僕のセンスだ。だのに、わざわざどうして寺のひさしにこんなものを彫刻したのか、僕にとっては不思議なことであった。
性と宗教のかかわり合いなど日本では、おおよそ切り離されてタブー視されるものである。にもかかわらず、バクタプルのこの寺ではご丁寧にも、屋根の庇回りすべてに、ミトーナ像が彫り込まれている。
おまけに人間だけでなく動物、たとえば象などのミトーナ像もある。
はじめ僕がミトーナ像を見たときには大いなる違和感を感じた。
違和感はやがて疑問に変わった。ひょっとすると僕の知らない世界がここにあるのではないか。そんな疑問の渦巻く気持ちにもなった。
300年も昔の人は宗教においても、現代とはかけ離れた変な事を考えるものだなあ、と思いながら僕は日本に帰ってきた。
ところがある日、宗教と性のかかわりあいを「仏典の言葉」の中に見つけだして2度びっくりした。
NHKの教育テレビで仏教と性のかかわり方を解説していたのである。それによると食欲、性欲という本能を積極的に肯定して、人生を有意義なものにしようと仏典は説いているのである。特に真言宗の根本経典である理趣経や東大寺の華厳経のなかに、それは説かれているという。
簡単にいえば男女交接の絶頂感が菩薩の位であると解説されている。
「妙適これ菩薩の位なり」とはそういう意味いらしい。
こんな結び付きがあったのか、僕は驚いた。
それならなぜ女人禁制のしきたりがあるのか。特に真言宗本山、高野山では1,000年の長きにわたって、女人禁制だったのではなかったか。
この疑問に正面からどう答えるのか。僕は誰に尋ねるともなく、こうつぶやいた。ひょっとしたら僕の知らないところでこのような世俗的なことが、どこかに隠されているのではないか、そんな疑問も頭を持たげてきた。
NHK教育テレビのこの講座を聞いてから、僕の仏教観は変わった。
自然にあるものを自然に受け止める、そこに自分のもろもろの意味付けや、解釈や、感情や、目的を放りこまないで、ごく自然にすべてを自然体で受け入れるところに、仏教の真の教えがあるのではないか。そんな気がしてきたのである。
こう解釈することによって、僕は宗教と性を自然な形で結び付けて
自然な形で受け止めるようにしようと思った。
このような理解の下で、今一度思い直してみると、バクタプルのあの奇妙な、ミトーナ像も今となっては、嫌悪感どころか、そこには深い意味があり
なんとなく懐かしい思いがする。
インドを旅した時も、ヒンズー教のご神体がリンガーだと知って、強烈な違和感を抱いたが、思い返してみると、僕の仏教に対する理解や常識やこだわりが、むしろ偏狭だったんだろう。
仏教は人間の生死という両極面のあり様に、かかわりを持つものだとは思ったが、このように仏教の中に、あからさまに性の表現をされると驚きが先に立ってしまう。すんなりと受け入れるには、余りにも違和感がありすぎる。今まで持ちつづけた宗教,特に仏教のイメージと目の前にあるものとが距離がありすぎて、つながらないのである。ギャップが埋まらないのである。
人は自分が持つ好みの視点によって物をみて、自分なりに解釈するから、答えはバラエテイに富むとは思うが、カジャラホのミトーナ像を見たとき、
人はどんなことを思い、何を考えるのだろうか。ふとそんなことを思った。
仏教って僕が今まで漠然と把握していたものよりは、はるかに大きな
スケールのものであることを今回の旅で知った。大体仏教というのは道徳の基本として、日常生活のマナーとして取りこまれて、行動の指針として何気なく生活に溶け込んでいるという程度にしか考えていなかったので、
違和感と同時に、1つの問題意識として頭の中にこびりついた。
ところで、僕はこれから仏教について何を考え様としているのか、自分でもまだはっきり分からない。分ったことは、日本に定着している葬式仏教は死の世界のことを扱うものだが、いわゆる仏教というのは同時に生の世界をも含めて扱うものなのだという事だ。
よく考えていると分ることだが、葬式仏教が仏教そのもののように思うところに大きな誤解があり、お釈迦様も説かれたように、その教えは本来生きている人間が如何に上手に生きるかというハウツーものがお経であるはずだ。その中には命の源泉について説かれていてもなんの不思議もない。
偏った葬式仏教が仏教だと思っていたこと自体が間違いの元だった。
なるほど。なるほど。!!!
日本にいては、おそらくこのことに気がつかないままだったろう。
やはりインドやネパールを旅したからこそ、気がついた事なのだ。
「妙適これ菩薩の位なり」。なんと美しく、輝きのある響きを持つフレーズだ。
僕は心からそう思った。
カトマンズ市内のニュロードを走る車の排気ガスはもの凄い。車の数は日本のそれに比べると、問題にならないほど少ないのだが、排ガス規制がないから、すすと爆音を撒き散らして車が走るので、カトマンズの大気汚染はすごいものがある。加えて、どうもカトマンズという街は、盆地の底にあたるようだ。地形が池の底みたいなもので、排気ガスが四方から集まってくるのだろう。
すべての大気汚染がこの盆地に集まってきて、小さな町全体を包み込んでしまう。排気ガス規制とは無縁の車が、もうもうと排気ガスを出して走って回っている。商店街が立ち並ぶ通りは道幅が狭く車が通れるような状態ではないのだが、それでも排気ガスのせいで、のが痛くなるし、息が苦しくなる。僕はタオルを口に当てて、町の主だった通りを歩いた。カトマンズの大気汚染を思うと、これは正解だ。
日本と違って、工業が発達していない農業中心の都市であるにもかかわらず、あのもの凄い排ガスとはどういうことか。それは工場の排気ガスではなくて、単に車の排気ガスだけなのだが、緑もあり、川もある、こんなちっぽけな街に排気ガスが充満して、息苦しいなんて信じられないことだ。
日本はあんなにたくさん、車が走っているにもかかわらず息苦しいとは思わない。
そんなカトマンズを離れて、田園風景を楽しみながら、こ1時間もトロリーバスにゆられていると、終点バクタプルに着く。
バクタプルは15世紀から18世紀にかけて栄えた町で、奈良や京都と同じく古都である。そこではネワール文化が栄えた。この街は別名バドガオンともいうが、それはどういう事を意味するのだろうか。
バクタプルは赤茶色のレンガで作られた街で、町全体が埃をかぶったようにくすんで古びている。古色蒼然とした雰囲気が街一面に漂っている。古色蒼然、そう、!。この言葉が良く似合っている。ぴったりだ。この街はレンガを作ったり、焼き物を作っているので、あちこちから煙が立ち昇り、
そのせいで余計に、くすんで見えるのかも知れない。いや4,500年も昔の古都だから古びているのは当たり前だ。街を一巡して僕はそう思った。
日を改めて後日、僕はそんなバクタプルへ出かけた。トロリーバスを降り、街の中心部に入ろうとするとゲートがあり、ここで入場料を払うことになっている。この町の中心部はすべて文化財であるので、その保護基金として
外国人は入場料を払うわけである。
ダルバール広場へ行くのには、歩いて15分ほどかかった。地図を持っていなかったので、どこをどう通ったのかわからないが、細い迷路のような
路地をさまよっているうちに広場に出た。そこには五重の塔があり、その向かいには木造の寺がある。
その寺の木製のひさしには、いろいろ彫刻が施されていた。
ひさしの上の方には菩薩の姿が刻み込まれていて、その下にはさまざまなスタイルのミトーナ像が柱1本につき1体刻まれていた。
なに?ミトーナ像が、寺のひさしのに?
僕はびっくりして、この意味を誰かに尋ねようとしたが、人通りは少なく尋ねることもできず、そのままになってしまった。
それにしてもこの木造の寺は日本の寺とは大違いである。日本の寺には少なくとも性に関することは、一切見受けられない。だいたいミトーナ像などというものは、おっぴらに人の目の前にさらしておくべきものじゃないと
いうのが僕のセンスだ。だのに、わざわざどうして寺のひさしにこんなものを彫刻したのか、僕にとっては不思議なことであった。
性と宗教のかかわり合いなど日本では、おおよそ切り離されてタブー視されるものである。にもかかわらず、バクタプルのこの寺ではご丁寧にも、屋根の庇回りすべてに、ミトーナ像が彫り込まれている。
おまけに人間だけでなく動物、たとえば象などのミトーナ像もある。
はじめ僕がミトーナ像を見たときには大いなる違和感を感じた。
違和感はやがて疑問に変わった。ひょっとすると僕の知らない世界がここにあるのではないか。そんな疑問の渦巻く気持ちにもなった。
300年も昔の人は宗教においても、現代とはかけ離れた変な事を考えるものだなあ、と思いながら僕は日本に帰ってきた。
ところがある日、宗教と性のかかわりあいを「仏典の言葉」の中に見つけだして2度びっくりした。
NHKの教育テレビで仏教と性のかかわり方を解説していたのである。それによると食欲、性欲という本能を積極的に肯定して、人生を有意義なものにしようと仏典は説いているのである。特に真言宗の根本経典である理趣経や東大寺の華厳経のなかに、それは説かれているという。
簡単にいえば男女交接の絶頂感が菩薩の位であると解説されている。
「妙適これ菩薩の位なり」とはそういう意味いらしい。
こんな結び付きがあったのか、僕は驚いた。
それならなぜ女人禁制のしきたりがあるのか。特に真言宗本山、高野山では1,000年の長きにわたって、女人禁制だったのではなかったか。
この疑問に正面からどう答えるのか。僕は誰に尋ねるともなく、こうつぶやいた。ひょっとしたら僕の知らないところでこのような世俗的なことが、どこかに隠されているのではないか、そんな疑問も頭を持たげてきた。
NHK教育テレビのこの講座を聞いてから、僕の仏教観は変わった。
自然にあるものを自然に受け止める、そこに自分のもろもろの意味付けや、解釈や、感情や、目的を放りこまないで、ごく自然にすべてを自然体で受け入れるところに、仏教の真の教えがあるのではないか。そんな気がしてきたのである。
こう解釈することによって、僕は宗教と性を自然な形で結び付けて
自然な形で受け止めるようにしようと思った。
このような理解の下で、今一度思い直してみると、バクタプルのあの奇妙な、ミトーナ像も今となっては、嫌悪感どころか、そこには深い意味があり
なんとなく懐かしい思いがする。
インドを旅した時も、ヒンズー教のご神体がリンガーだと知って、強烈な違和感を抱いたが、思い返してみると、僕の仏教に対する理解や常識やこだわりが、むしろ偏狭だったんだろう。
仏教は人間の生死という両極面のあり様に、かかわりを持つものだとは思ったが、このように仏教の中に、あからさまに性の表現をされると驚きが先に立ってしまう。すんなりと受け入れるには、余りにも違和感がありすぎる。今まで持ちつづけた宗教,特に仏教のイメージと目の前にあるものとが距離がありすぎて、つながらないのである。ギャップが埋まらないのである。
人は自分が持つ好みの視点によって物をみて、自分なりに解釈するから、答えはバラエテイに富むとは思うが、カジャラホのミトーナ像を見たとき、
人はどんなことを思い、何を考えるのだろうか。ふとそんなことを思った。
仏教って僕が今まで漠然と把握していたものよりは、はるかに大きな
スケールのものであることを今回の旅で知った。大体仏教というのは道徳の基本として、日常生活のマナーとして取りこまれて、行動の指針として何気なく生活に溶け込んでいるという程度にしか考えていなかったので、
違和感と同時に、1つの問題意識として頭の中にこびりついた。
ところで、僕はこれから仏教について何を考え様としているのか、自分でもまだはっきり分からない。分ったことは、日本に定着している葬式仏教は死の世界のことを扱うものだが、いわゆる仏教というのは同時に生の世界をも含めて扱うものなのだという事だ。
よく考えていると分ることだが、葬式仏教が仏教そのもののように思うところに大きな誤解があり、お釈迦様も説かれたように、その教えは本来生きている人間が如何に上手に生きるかというハウツーものがお経であるはずだ。その中には命の源泉について説かれていてもなんの不思議もない。
偏った葬式仏教が仏教だと思っていたこと自体が間違いの元だった。
なるほど。なるほど。!!!
日本にいては、おそらくこのことに気がつかないままだったろう。
やはりインドやネパールを旅したからこそ、気がついた事なのだ。
「妙適これ菩薩の位なり」。なんと美しく、輝きのある響きを持つフレーズだ。
僕は心からそう思った。