神と仏教
ユダヤ教には神があり、その神の意志を言葉で伝える人を予言者という。
キリスト教にも神があり、その神意を伝えたとされるのが、キリストである。
イスラム教にも神があり、その神の意志を伝えたのが予言者、ムハンマドだと言われている。
そこで問題。
3者が戴いている神は同じで唯1つなのか、それとも3者3様なのか。
即ち、神は1つで、3つの宗教は同じ神を信じるもので、神の意志を伝えるとされる3者の呼び名が、予言者、キリスト、ムハンマドと言う風に別々なのか。そこから、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が生まれたのか。
それとも、ユダヤ教にはユダヤの神がいて、キリスト教にはイエス・キリストを遣わした神がいて、そしてまた、ムハンマドを遣わした神がいて、その各々は独立した神なのか。 何の脈絡もない個別の神なのか。
別な言い方をすれば一神か、多神か。どうなんだろう。この辺のところが判らない。
この謎を解く鍵はただ一つ。それは(つまり解答を与えることになるのだが) どちらの立場を信じるか。それによって、ある人は多神というだろうし、ある人は1つ神だというだろう。
そしてそれは、それらを信じる人々にとっては正解なのである。
客観的に1神、多神だと証明できるものが、あるのだろうか。
宗教にこのような方法でアプローチすること自体が誤りなのであろうか。
ところで日本はどうか。我が国は元々は神の国である。それも多神教で、神秘を含みそうなものは何にでも、神が宿るとされ、その数八百万の神々といわれている。剣、鏡、曲玉類などの人工的なものにはじまって、自然たとえば、山でも川でも大木でも太陽でも、神として崇められた。
そこへ外来宗教の仏教が持ち込まれた。伝来した。持ち込まれた当時には、崇仏、排仏に別れて戦争が起こった。物部氏に代表される排仏論と聖徳太子や蘇我氏の崇仏論が衝突したのである。その結果は崇仏派に軍配が上がり、以後仏教は聖徳太子らの努力もあって、この国に根付き、我が国は仏教国となった。
日本古来、自然発生的に生まれた神々は、その後どうなったのか。負けた崇神論はどうなったのか。というと日本の場合は神仏習合という形をとり、以後今日まで、うまく共存している。お伊勢さんも、春日大社も、平安神宮も、そして天照大神も、大国主命も健在だ。
ただ歴史的な流れで見ると、仏教はかなり国民の間に浸透し、九割以上が仏教信者であるから、普段目につくのは仏教寺院、即ちお寺である。こういう流れは流れとして、何ら不思議ではないのだが、私は疑問に思うことがある。
そもそも仏教は、インドの宗教・バラモン教や、ヒンズー教の中から、生まれてきたもので、ヒンズー教には、シバとかビシュニュとかいう神がいる。そしてまたお釈迦さんは宇宙の真理を悟ったもの、覚者と言われている。いわゆる発見者だ。
発見とは存在するものを、最初に見つける事だとすれば、宇宙の真理を作りだしたものがいる筈で、その宇宙の真理を作りだしたものが、神だと考えられはしないだろうか。
神とお釈迦さんの関係を、僕はそのように考えている。宇宙の真理の創造者が神、第一発見者がお釈迦様。そう考える事によって、ぼくは神仏の両方を認め、崇めている。その神が多神教なのか、一神教なのか、わからないから曖昧だが、そのどちらでもいいと思っている。
堅く信じてそれにこだわって、自分の考え以外のものを排斥する事は、神の意に背くことだと思うが、如何だろうか?
ユダヤ教には神があり、その神の意志を言葉で伝える人を予言者という。
キリスト教にも神があり、その神意を伝えたとされるのが、キリストである。
イスラム教にも神があり、その神の意志を伝えたのが予言者、ムハンマドだと言われている。
そこで問題。
3者が戴いている神は同じで唯1つなのか、それとも3者3様なのか。
即ち、神は1つで、3つの宗教は同じ神を信じるもので、神の意志を伝えるとされる3者の呼び名が、予言者、キリスト、ムハンマドと言う風に別々なのか。そこから、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が生まれたのか。
それとも、ユダヤ教にはユダヤの神がいて、キリスト教にはイエス・キリストを遣わした神がいて、そしてまた、ムハンマドを遣わした神がいて、その各々は独立した神なのか。 何の脈絡もない個別の神なのか。
別な言い方をすれば一神か、多神か。どうなんだろう。この辺のところが判らない。
この謎を解く鍵はただ一つ。それは(つまり解答を与えることになるのだが) どちらの立場を信じるか。それによって、ある人は多神というだろうし、ある人は1つ神だというだろう。
そしてそれは、それらを信じる人々にとっては正解なのである。
客観的に1神、多神だと証明できるものが、あるのだろうか。
宗教にこのような方法でアプローチすること自体が誤りなのであろうか。
ところで日本はどうか。我が国は元々は神の国である。それも多神教で、神秘を含みそうなものは何にでも、神が宿るとされ、その数八百万の神々といわれている。剣、鏡、曲玉類などの人工的なものにはじまって、自然たとえば、山でも川でも大木でも太陽でも、神として崇められた。
そこへ外来宗教の仏教が持ち込まれた。伝来した。持ち込まれた当時には、崇仏、排仏に別れて戦争が起こった。物部氏に代表される排仏論と聖徳太子や蘇我氏の崇仏論が衝突したのである。その結果は崇仏派に軍配が上がり、以後仏教は聖徳太子らの努力もあって、この国に根付き、我が国は仏教国となった。
日本古来、自然発生的に生まれた神々は、その後どうなったのか。負けた崇神論はどうなったのか。というと日本の場合は神仏習合という形をとり、以後今日まで、うまく共存している。お伊勢さんも、春日大社も、平安神宮も、そして天照大神も、大国主命も健在だ。
ただ歴史的な流れで見ると、仏教はかなり国民の間に浸透し、九割以上が仏教信者であるから、普段目につくのは仏教寺院、即ちお寺である。こういう流れは流れとして、何ら不思議ではないのだが、私は疑問に思うことがある。
そもそも仏教は、インドの宗教・バラモン教や、ヒンズー教の中から、生まれてきたもので、ヒンズー教には、シバとかビシュニュとかいう神がいる。そしてまたお釈迦さんは宇宙の真理を悟ったもの、覚者と言われている。いわゆる発見者だ。
発見とは存在するものを、最初に見つける事だとすれば、宇宙の真理を作りだしたものがいる筈で、その宇宙の真理を作りだしたものが、神だと考えられはしないだろうか。
神とお釈迦さんの関係を、僕はそのように考えている。宇宙の真理の創造者が神、第一発見者がお釈迦様。そう考える事によって、ぼくは神仏の両方を認め、崇めている。その神が多神教なのか、一神教なのか、わからないから曖昧だが、そのどちらでもいいと思っている。
堅く信じてそれにこだわって、自分の考え以外のものを排斥する事は、神の意に背くことだと思うが、如何だろうか?