日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

平家物語り序章

2008年05月26日 | Weblog
平家物語り序章



新聞やテレビの報道通り、ポートピア会場は、超満員である。
人気館に入ろうと思えば、2、3時間は、待たなければならない。 3歳の末娘をつれているので、とても、人気館には、よりつけない。

 どこかすいている会場は、ないものか、と探したら、たまたま、兵庫県の展示会
場が比較的すいていた。特別関心があったわけではないのだが、ひょいと入ったら、平家物語りの展示が目に、飛び込んできた。

平家物語り。
これほど鮮やかに、人生の無常や、哀感を浮かび上がらせた文学作品は、日本文学史上ないのではなかろうか。底に流れる仏教哲理の冷徹さが非情なまでに、人の一生の、有為転変、栄枯盛衰の、理を物語る。
50センチ四方の、ヒノキの板に描かれた平家物語り。


[祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。たけき者もついには滅びぬ。偏に風の前の塵に同じ。以下略]

この高札の前に立って、平家物語りの世界に酔いしれて、私は自分というものの存在を失った。

きらびやかな、平家の武者が、京の街を闊歩する。平忠度が辞世の句を携えて、歌の師匠である、藤原俊成に、最後の別れを告げに行く。 佐藤義清が泣き叫び縁側まで追ってくる妻子を振りきって出家し、西行となり人生の無常と限りない哀愁を漂わせた名歌を遺す。
清盛を中心に、我が世の春を、謳歌した平家一門は、やがて一の谷から屋島へ、さらに壇ノ浦へ落ちのびて、瀬戸の早瀬の藻くずと消える。

 もう完全に、吉川英治の新平家物語の世界の中に、私はとけ込んでいる。小泉八雲の名作・怪談に出てくる、「耳なし芳一」の物語に武満徹が付けた、あのものすごいメロデイが私の体を、身震いさせながら通り過ぎていく。
 
 気がつくと私の心の中にもかすかに、尺八と琴が鳴っている。哀愁に満ちた、曲の感じからすると、平家の都落ちから壇ノ浦の藻くずと消え去るまでの様子、その過程の中で、繰り広げられる人の世の悲哀、特に悲しい別れの悲痛な叫びが、心の琴線に触れて、私の心がないているのである。
しかも、一方では人生は無常であると仏教の哲理が、非情なささやきをする。
 
「お父さん。いつまでそんなところで突っ立っているの。ちっとも面白くないのに。早く、面白いものを見に行こうよ。」
中学生の長女の声ではっとわれにかえった。気がついたら、五線紙に、メロディーラインが、曲線を描いていた。

「こんな曲ができました。1度聴いてみてください。」
私は谷村新司の曲に、ぞっこんほれ込んでいるSさんに言った。Sさんは50歳を少し過ぎた女性だが、心のある歌を愛でる、音楽好きで、耳は確かなものがあると私は常々思っていた。

 作曲はしても、めったに、口ずさむことはない私だが、このときばかりは、カラオケに合わせて歌った。歌ったというよりは、詩吟をやる調子でうなった。
 
--奢れるものも、久しからず、ただ、春の夜の夢のごとし。--

このフレーズは、音域が私の声域と、合っているので、心は共振したように思う。
歌い終わってから彼女を見たら、目をつぶったまま、じっとしている。一瞬、眠っているのかと疑った。
 しばらくして、静かに目を開けた彼女は、開口1番
「すべてが消えた。私さえも、そこにいなかった。ただ、空漠とした空間があるだけだった。」 といった。四周がビルで囲まれて、谷間になっている小さなビルの一室での出来事である。
 
 丹前を着て、あぐらをかき、囲炉裏端で、ゆっくりと、杯を傾け、たった1人で---、このときばかりは、女気抜きで、---かの有名な冒頭の名文

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり--」

を思い浮かべながら、この曲に聞き入るとき、この曲は必ずや、あなたに何ものかを与えてくれるだろう。それはあなたの過ぎ去った時の流れを、琥珀色に染め、人生の無常の何たるかをきっと、示唆してくれるに違いないと私は思う。



マンダラ湯

2008年05月26日 | Weblog
駅を出て、通りを300mも行くと、川につき当る。架かった橋を渡らずに、手前を左におれて、川の両岸にある川端柳をめでながら、上流へさかのぼっていくと、橋があり、それを渡ると、そこが一の湯だ。

一の湯を通りこして、街中を4・5OOmも行くと道は月見橋のたもとで、ほゞ直角に近い角度で、右折する。そこからもと来た道を4・50m、引きかえすと、巾は広いが、露路のような感じのする道がある。その奥の突き当りがマンダラ湯である。
玄関前に立っている由緒書を読むと、その昔、ありがたい聖の力で適温の湯が湧き出したとか。

 城崎温泉は外湯がうれしい。それも外湯が七湯もあり、宿泊客は竹で編んだ手さげの竹カゴに、タオルや石けんを入れて、カラコロ、カラコロ下駄の音をひびかせながら、外湯めぐりをして、温泉情緒を楽しんでいる。
それもボンボリに灯が入って、人の顔もさだかでない、かはたれ時には温泉情緒は一気に盛りあがる。立ちのぼる湯煙に、温泉街特有のあの艶めかしさが漂う。七湯のほとんどが道にそって点在するのだが、マンダラ湯は道からほんのわずかではあるが、奥まったところにある。それだけに、静かであり、人のざわつきも少く、ここだけは孤立しているというのか、孤高を保つというのか、そんな雰囲気がある。
 マンダラ湯の中の造りは、そこらそんじょの銭湯と同じようなもので、あまり変わり映えはしない。湯舟の広さも、洗い場も殆ど変わらない。これでも温泉か。私は少々がっかりした。知ってか、しらでか、お客は少なく、私を入れて五人だけだった。
 
 にわかに戸があいて、一団になった男がどやどやと入って来た。一見してどういう集団かすぐ分かった。入れ墨、目付き、言葉などからすると、ヤの字の衆である。
 彼らが入って来たために、のんびり入浴を楽しんでいた雰囲気は一変した。一人減り、二人減りして、ヤの字の衆と私だけになってしまうと、彼らは遠慮なくしゃべり出した。

「なんや、これは。町の銭湯と、えろ変らへんやんか。これでも温泉け。」
「温泉ちゅうたら、広々してのんびり出来る所と違うんか。」
言葉の訛りからすると、シマは関西らしい。
「こんなとこ、あかん。温泉に入った気分になれへん。はよ、上がって温泉へいこ。」

遠慮、気兼ねのない自由奔放な会話に、私も同感で、心のそこでうなずいた。ヤの字がいうように、銭湯くらいの大きさしかないうえに、温泉情緒を醸し出す大道具も、小道具も、何一つとしてない。これは温泉ではない、という云い方は粗雑ではあるが、その通りである。
温泉と云えば、湯の花の香りがしたり、それらしい雰囲気があったりするものであるが、この湯は聖人、それも仏弟子が開いたとされるだけに、質素に出来ているのだろう。長居は無用と、私も先客の後を追った。

 鴻の湯は、その昔、傷を負った鴻の鳥が、この湯に足をつけて、傷をいやしたところに因んで付けられた名前とか。
外湯七湯のうちで、駅から最も遠い所にあるが、と云っても歩いて、せいぜい15分か、20分ぐらいの所にあるのだが、ここはいつ来ても、賑わっている。恐らく露天風呂があるからだろう。
 この露天風呂はピリッとした熱さで、十分も湯舟に浸かっていると、額から大粒の汗がしたたり落ちるし、湯上がり後は、足の爪先あたりがジンジンしてくる。いかにも温泉に浸かったという実感があり、それにもまして、露天風呂の風情は、温泉情緒と旅情を感じさせてくれる。
岩と岩がつなぎ合わさって、湯舟ができていて、湯舟にしだれかかる真っ赤な紅葉に、夕陽が美しい。

フツフツと沸いてくる温泉に、体をどっぷりつけて、タオルを頭に乗せて目をつぶっていると、極楽の住人になる。これでこそ、はるばる城崎温泉にやってきた甲斐があるというものだ。身についた垢とともに、心にこびりついた、この世の垢も、この湯の中に洗い流してしまいたいと念じた。たった六畳二間くらいの広さのこの温泉が、娑婆世界の住人を極楽世界まで連れて行ってくれる。この実感は、城崎温泉の御利益と云っても過言ではない。一人旅の温泉旅行は何の気遣いも、気配りも必要ないので、一番くつろげる旅である。
黄昏の空を渡り鳥が、くの字を描いて北を指して飛んでいった。
              
 私の後を追いかけるようにして、先程の一団が入って来た。
一団は完全に私を無視して話し出した。

「やっぱり露天風呂はえーなー。」
「雪がちらちら舞う時に、この湯に浸かり徳利を盆に載せて、くっと一杯やったら極楽や」
「そこの岩みてみい。真っ赤な紅葉が夕日に映えとるやろ。体をどっぷりつけて、 一 節うなったら最高や。胸のむしゃくしゃはいっぺんに取れてしまうで。」
「お前、日頃に似合わず、えー事をいうなー」
「いや、ほんまですねん。」

 会話を聞いているぶんには、まともである。こんな心をもっているのに、何故ヤの字なのか。正業についたら、もっと心安らかに入浴出来るのに。
マンダラ湯では、一方的に恐れてはいたが、慣れて来たというのか、私は会話の続きが聞きたかった。度胸がついて来たのだろうか、私は積極的に耳を傾けた。ヤの字の衆といっても、所詮は人間。渡世の仕方がちがうだけとは思いつつも、渡世の仕方の違いが、私からすると、天国と地獄ほどの違いなのである。

世渡りは、いわゆるカタギの世界からはみ出した、あるいはドロップアウトした世界の住人だけに、感情的には敏感に研ぎ澄まされたところがあるのかもしれない。心の中では、自分が住んでいたカタギの世界への未練を残しながら、この娑婆の世界で集団をなして、暮らしていることを自覚しているが故に、日ごろの渡世の緊張感から解き放たれて、こうして温泉で束の間の安らぎを得ているのだろう。

 その昔、奥の細道の道中で、芭蕉と同宿した遊女は、私は人間の端にもおいて貰えない人間だが、、、とへりくだって声をかけた、という「奥の細道」の一節が頭をかすめた。さしずめ私が芭蕉で、ヤの字の衆が遊女か。

ハッハッハッー。私は翔んでいる自分に気が付いて苦笑した。
 それにしても、なんとまんが悪いのだろう。ゆっくり、のんびり、リラックスするために、リフレッシュするために、はるばるここまで来たというのに、余計な緊張を強いられるとは。!こわい物みたさで、私はヤの字の衆の言動に神経を集中させた。
 お陰ですっかりくたびれた。

それにしても人の世の縁の不思議なことよ。そこで一句。

ヤーさんと背中合わせの曼陀羅湯



沖縄平和祈念像讃歌

2008年05月26日 | Weblog
沖縄平和祈念像讃歌


   諸人の願い 天地もなびく

   今 みなが郷に 諍いを捨てん

   見よ、白雲の果て 聖なる空に

   沖縄の風 さやかに歌う

                  渡久地 政信 作詞
    
摩文仁の丘に開堂された沖縄平和祈念堂に流れる「沖縄平和祈念像讃歌」である。    
「お富さん」「踊子」「上海帰りのリル」など、昭和20年後半から30年代にかけて、一世を風靡した名曲の数々を作られた、高名な作曲家渡久地政信氏によって作詞されたものである。

私は初めてこの詞に触れたとき、心が震える思いがして、胸が熱くなった。
 なんとすばらしい詞なのだろう。どこまでも透き通る深さがあって汚れなき魂の人の、心の内からなる叫びとでもいうたらよいのだろうか。
この詞を歌う心境はとても世俗に、慣れ染まった通常の人間のそれではない。
 宗教哲学の雰囲気が漂っている。欲も得もない唯ひたすら、心の中にある一つの想念を、思い続けたときに、瞬間的によぎるひらめき。
その珠玉の言葉が光を放って詞になり、言葉は芳香をはなって詞を構成している。

この地上にある人類は、争いをしつつも、一方では、心から平和を望んでいる。人々の純なる願い、平和を求める気持ちの集合体。その声には、天地もなびくであろうし、鬼神も耳を傾けざるをえないだろう。

 そして今、沖縄・日本は言うまでもなく、60年昔に血みどろの地獄絵図を繰り広げ、死闘を繰り返した、アメリカの里に置いてすらも、諍いを捨てて平和な日々を過ごしたいと、心より願っている気持ち。それが日米一般大衆の素朴な感情である。

そして、詞は続く。

聖なる空に日米両軍の激戦の中に、死んでいった、その修羅場。この沖縄の地には、沖縄の風が、さわやかに、歌っていると。

この世界は、まさに、御仏の世界である。修羅世界から、涅槃の世界に入ったときに、経験するであろう世界である。

 私は従軍の経験もなければ、内地の空襲の修羅場をくぐり抜けた経験もないで、体験的にはよく分からないが、「殺すか、殺されるか」のギリギリの人間の極限状態の中に置かれた人間が、どれほど、どう猛化しているが、想像するに難くない。

 先日、私の街で行われた戦争展でみた沖縄戦の実写フィルムや写真のパネルは、実戦さながらの迫力を持って私に迫ってきた。なんという暴力だ。戦争の犯罪性、非人間性、残虐性は、百万言を持ってしても語り尽くせない。人間悪の極限である。

 六十年昔のこの小さな実写フィルムが、その事実を雄弁に物語っている。お互いの憎悪が火を噴いて悪逆の限りを尽くす。その様子をまざまざと見せてくれる。
家は焼けて、田畑は戦場と化し、逃げ惑う非戦闘員の老人、女、子供。累々と重なる死体。これが、地獄絵図以外の何物であろうか。

日本本土が、戦場になる前に、沖縄はその前哨戦で、まず最初に悲劇の舞台となった。非戦闘員とくに年頃の女性は生きて恥ずかし目を受けるよりは、死を選んだほうがよいと、断崖から飛び降りて、生命を断ったという。

 筆舌に尽くせない生き地獄に放り込まれてどっぷり身をつけたままで、この世を去った人たちの心の思いは、いったいどのようなものであったろうか。

 悪逆非道の業火にやきつくされて、苦しみの中にどっぷりつかったまま死に追いやられていった人たちが、この世に残していった恨みは、誰がどのようにして、はらせばよいのだろうか。深い深い悲しみと怒りを果たして癒す方法があるのだろうか。
 全世界に向かって再びこの過ちを繰り返さないと誓うことだけによって、果たして怨念を解き放つことができるのだろうか。

 降り積もった膨大な怨念を解き、鎮魂させるためには血を吐くような思いを込めて、平和を守る誓いと、真心からなる鎮魂の情の発露ではあるまいか。
今はすでに魂の世界へ還っていった人々の霊を慰め、癒すために、生きている者の、心からなる鎮魂の真心に源を発する言葉によって、それらの次元をさらに高め、高める真心から作られた音楽によって、生きている者の思いや願いが今は、神仏の世界に住まわせる人々のこよなき慰めとなって、天高く伝わっていく。そんな風景にぴったりするのが、沖縄平和祈念像讃歌である。

渡久地政信先生。よくぞをお作りくださった。あなたの平和を愛する気持ちから、生まれたこの作品は、千代に平和の灯となって、日本はもちろんのこと、世界を照らすことでしょう。それは、生者はへの平和の働きかけと同時に、犠牲者の魂のこよない慰めとなりましょう。