日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

三段壁

2008年05月05日 | Weblog



三段壁

 白浜温泉は、関西の奥座敷ともいわれる、
景勝の地である。
 関東人は、熱海や伊豆の温泉を愛しているが、それと同じように、
関西人は、白浜温泉を愛でている。
 東京から、伊豆方面には、2時間ほどの旅であるが、白浜温泉も、大阪から、2時間ほどの列車の旅である。
 山あり、海ありの風景は、そのまま、両者とも同じようなものである。
 
 白浜には、見るところがいくつもあるが、とりわけ有名なのが、三段壁である。
海面から、切り立った高さ四,五〇メートルの崖がそびえ立ち、真下の海面を見ると、目がくらむ。
 逆にそれだけ高いところだから、眺めは、非常に良い。展望台に立って、はるか彼方の水平線を眺めると、気宇は壮大になる。なんだか自分の体が、大きく引き伸ばされた気分にもなる。
 空と海が解け合う遙か彼方に吸い込まれたら、どんなにか気持ちが良いだろう。そんな感じもする。
じりじりと照りつける真夏の太陽の下で、帽子もかぶらずに、僕は三段壁に立って、はるか彼方の大海原をぼんやりと眺めていた。
夏の明るい太陽に照らされて、目玉として観光客を誘う三段壁の展望台は、今日も大勢の人でにぎわっている。

湯崎温泉までは、よく来るが、景勝の地とはいいながら、三段壁はめったに来ない。今回来たというのは、おそらく一〇年ぶりだろう。
特別目立って変わったところはなかったが、一カ所だけ気になったことがあった。
それは、バスを降りて展望台へ行くまでの間に、自殺防止の立て板が、たくさん建っていたが、
それが今日は、一つも見あたらないということであった。おそらく、観光客に、悪いイメージを与えていたのであろう。だから撤去されたのだろうと思った。

 もうかれこれ六〇年以上も昔の、戦前の話であるが、ある旅館の主人と、芸者が、三段壁から飛び込んで自殺した、という話を母から聞いたことがある。
 戦前の出来事であるから、今日のようにマスコミは発達してはいなかったが、おそらくセンセーショナルな出来事として、人々の記憶に残っていたのであろう。
 
 この話を聞いたときに、私は子供心に三段壁は恐ろしいところだという思いが、頭の中に焼き付いてしまって、それは今も離れない。
その事件が、世に知れわたると、同じように、
三段壁から飛び込みで、自殺する人があとを絶たなかったらしい。そこで、町当局をはじめ、
いろいろな宗教団体が、自殺防止の立て看板を立てたということであろう。
以前は道路沿いに建っていた一〇本あまりの自殺防止用の立て看板が目立っていた。
ところが不思議なことに、今回、その立て看板が見当たらない。どうしたのだろうかと思っていると、別な所に移設されて数も少なくなっていた。
 
 それは展望台へ行くまでの道沿いではなくて、真下が、海という目のくらむ断崖絶壁の岩場に、建てられていた。しかも、この海を守る牟婁弁財天・寺務所が建てた
「死んで花実が咲くものか。」
というのと、白浜町当局の
「危険だから、近寄らないように」という注意書きの立て看板。それに、日本キリスト教会の命の電話の立て看板の三つしか目につかなかった。
 イメージも大切だが、人の命はそれ以上に大切だと僕は思った。

 しかし、よく考えてみると、自殺防止の立て札が人によっては逆効果になって、そのために死に誘い込まれて、自殺をするという人が現れないとも限らない。やはりこれでいいのか。
僕は自問自答して納得した。
自殺するものも、自殺しないものも、その心の内は刻々と変化してとらえどころがないから、
その動機や真実は分かりにくい。

 夏の太陽の明るさとは裏腹に、三段壁には、深く暗い大きな影の中に、人生を最後まで、全うすることができなかった人の、悲しみや苦しみが、亡者の嘆きとして、ここに隠れているような気がした。

 自殺をする動物は、人間だけだ。
確かに人間は、自らの命を自らの手で絶つことができる動物である。
どういう運命を持って生まれてきたのか、知らないが、人生をまっとうできなかった者の悲しみは、いかばかりかであろうか。
 人が無事に人生を全うすることは、平凡な事のように見えるが、大変なことである。
 
 自殺して果たして、ことが片づくのであろうか。僕は疑問に思った。
というのは、状況というものは時間の推移とともに、変化するからである。その場面では死の苦しみを味わっているとしても、時間が経過すれば、事情が変わり、その苦しみは和らいだり、解消されていくことだっていくらでもある。

早い話が、例えば、よく世間に知られた典型
的な例として、相場師の岩本さんの話がある。株式の売買によって莫大な儲けをした彼は、
大阪の中央公会堂を寄贈したが、当時の金で、一〇〇万円だと聞いている。ところが、次の場面では、株の暴落によって、彼は大損をする。そのため、彼は、ピストル自殺する。
しかし、しばらくすると、暴落した株がまたもとに戻って岩本さんは死ななくてもよかったという状況が生まれたのである。
 時間の経過と共に抱え込んでいる問題は常にプラス・マイナスの波を打ち、それによって状況は、変わるのである。だから生死については、こだわらないほうが、よいのではないかと思う。

 人間の生死についての真実を知っているのはおそらく神だけだ。それは人間それぞれが持つ運命で、人間は自分の運命、を前もって知ることはできないのである。
 自殺などという究極の場面では、風が背中を一押しするか、しないか、そんな微妙な心の揺れが生死を分けることになる場合だってある。とすれば自殺にブレーキをかけるような立看板は、それなりの役割を果たしているはずだ。
 やっぱり人目につくところにあったほうがいいと僕は思った。と同時に次の瞬間は立て看板が死の誘引になっても困るとも思った。どちらがよいのか。本当のところは誰にもわからない。
おそらくそれを知っているのはこの三段壁の断崖絶壁が形成される前からここに鎮まって居られる弁財天しかわからない。
そこで僕は弁財天に会話を試みた。

 「弁財天は、ずっとここにいて、悲喜こもごもの人間の生き様を見てこられた。弁天さんの結論はどういうことになるのですかね。」
 「人間と一口に言っても、神と縁のあるものと、ないものがある。縁のあるものは、ことごとく救うてきたが、縁のないものは、いくら救済の手を差し伸べても、するりと手を交わし、抜け落ちてしまう。縁なき衆生は度しがたしとはこのことだ。」
 「いやいや。神の御力で、は縁なき衆生を、縁ある衆生に心変わりさせるぐらいは出来るでしょう。僕の気持ちとしては、せっかく命を与えて、この世に生まれさせておきながら、人生を全うすることなしに死に急ぐという人間をつくり、送り出すというのはどうも腑に落ちないです。つまり神がこの世に送り出したこと自体が、矛盾ではありませんか。
 そんな無用なものを神の名の下に、矛盾として放置して置いていいものですか。」
 「神が完全であるというのは人間が勝手に決めたことで、それはケース・バイ・ケースである。完全でなくてはならないものは完全にしてある。あいまいでいいものは、そのままでよいのである。 そしてその判断は、時として人間の判断とはうけいれないものもあるが、最後には神がしている。
先ほどの自殺者の話に戻すと、助けなくてはならない者は、すべて助けておる。どちらでもいい者は、人間の判断に任せてある。
彼らの判断を尊重している。それだけのことだ。」
 「ちょっと待てください。もう少し話をさせてください。あの、、」
「時間の無駄だといっておこう。何千年昔からここに鎮まって、人を眺め、世を眺めてきたが、お前のような会話を試みたものは珍しい。
 牟婁の海賊として恐れられた、多賀丸も熊野水軍もお前のような質問はしてこなかった。
 悪いやつなりに一生懸命にわしにすがっていた。人間と神の関係はそれでよいのじゃ。問答は必要ない。必要なのは祈りじゃ。これだけ言っておこう。さらばじゃ。」
弁天様はご自分の居場所である牟婁大洞窟の社に帰っていかれた。

 僕は自分では判断がつかないので、どうしようもないと諦めたが、なんとしても自殺者が減るように、と、だけは、祈らずにはいられなかった。