日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

聴覚を失った中で音を紡ぐ

2013年12月30日 | Weblog


聴覚を失った中で音を紡ぐ

ベートーベンが晩年聴力を失った事は、広く知られていることだが、現代の日本にも、聴力をうしなって交響曲を作曲する人が現れた。
作曲は聴力と重大な関係があり、聴力を失う事は即作曲を不可能にすると常識では考えられている。
しかし僕は自分が作曲することについて考えてみると、元はイメージであり音は関係ない。言葉から来るイメージや、もっと広い範囲からやってきて心をふるわせるものが音群となってメロディーを構成する。
僕が作曲する場合極度に精神を集中させイメージに沿った音群を絞り出し、それを楽譜に書き留め、楽器を使って音を確かめ、不自然だと思う所を編集して曲を完成させる。
この延長線上で聴力を失った作曲家、佐村河内守氏の作曲のケースを考えてみると、心の琴線によるオーケストラか、それとも実音を伴うオーケストラかの違いはあっても曲は存在しうる。

そうはいつでも管弦楽法や和声学や対位法などなど諸々の技法が身に付いていないと交響曲は書けない。
やはりある種の天才だろう。ちなみに彼のCDは10万位売れたそうな。クラシック畑では稀有なことである。

優しさとか 思いやりとか

2013年12月30日 | Weblog
優しさとか 思いやりとか

優しさとか思いやりということは言葉の上では理解できる。
少なくとも気持ちはわかる気がする。これらの言葉は実際に行動に移してはじめて、優しさや思いやりが現実のものとなる。

ところで実際に行動に移すに際しては「そういう気」にならなければ行動に移せない。この部分が難しい。そして「そういう気」になるには自分が実際に体験することが最も手っ取り早い。

すなわち、他人に対して同情や共感と言う感情的共有があることが必要不可欠だなのである。そのために、おうおうにして苦労して苦しんだ者だけが現実的に優しさや思いやりの心を持つのである。

自分が苦労して苦しんだ分、他人にも苦労を要求することもあるが、人間っておかしなもので、自分が味わった苦労や苦しみは自分だけでよく、他人には味わわせたくないとも思うのもまた事実である

苦労が少なく、のうのうとして生活している者の優しさや思いやりは、言葉上或いは教義上の優しさや思いやりになりがちだ。
優しさや思いやりというのは中身の伴わない言葉上のものであったら、それは単なる観念に過ぎない。