トッペイのみんなちがってみんないい

透析しながら考えた事、感じた事。内部障害者として、色々な障害者,マイノリティの人とお互いに情報発信したい。

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遺伝子組換え技術に関する意識調査

2008-07-28 20:40:58 | 科学
 アメリカをはじめとする数か国で、世界的な食糧事情の悪化や気候変動を契機として、収穫量の多い、また病害虫に強い遺伝子組換え作物(GMO=geneticlly modified organism)が開発され実用化が始まって、作付け面積も増えている。

 我が国では、食の安全性や生態系への影響面についての懸念が社会的に強い。実際、消費者としては食品購入時には「遺伝子組換え作物を使っていません」という表示にこだわっているし、農業団体でも遺伝子組み換えの菜の花の拡散の調査と駆除を行っている所がある。国民的コンセンサスが無い時点で、内閣府から「遺伝子組換え技術に関する意識調査」の結果が出された。内閣府のホームページから詳しい内容を知ることができるので、関心のある方はそちらにアクセスして下さい。
 
 内閣府の立場は、今回の結果の概要に述べられている。『しかしながら我が国では、GMOを受け入れることに対する社会的理解と受容が必ずしも十分に進んでいないこともあり、GMOの商業栽培は未だ行われていない。 一方で、我が国はイネゲノム解析をはじめとする優れた育種技術を擁しており、それの活用は我が国の食料問題のみならず国際的な貢献につながっていくことが期待される。まずは、GMOに関する技術の内容、安全性、有用性、生物多様性などへの影響等に関する情報の発信を行い、国民理解を得ることが必要である。 そこで、今回は、GMOに関して教育や消費者に関わる情報に深く関係する「学校教員」、「研究者」、「地方自治体職員」、「メディア関係者」に対して意識調査を行った。』

 今回の調査結果はGMOに関しては、参考になるので内容をピックアップして載せてみる。

 この調査は、今年1~3月に実施された。教員8000人、日本植物生理学会か日本育種学会所属の研究員800人、都道府県職員282人、メディア関係者110人に無記名質問票を郵送し、それぞれ51%、31%、70%、33%の有効回答を得た。

 主な調査結果
①学校教員
★学校教員の75%が授業の中で「遺伝子」、「遺伝子組換え」、「遺伝子組み換え食品」といったテーマについて教えたことがあった。
教科別には、特に、高校の生物の教員が97%、高校の家庭科の教員が81%と高かった。

★具体的な主な授業内容については、高校の生物で「遺伝子組換え技術の基本原理」や「栽培・応用事例」、中学の技術家庭科、高校の家庭科で「表示制度」や「流通実態」について教えていた。
高校の社会科では、4割以上が「遺伝子組換え食品の表示制度」、「遺伝子組換え作物の栽培事例紹介」について教えていた。

★「遺伝子組換え作物・食品」という言葉から受けるイメージとして、安全のイメージを持つ教員は少なく、高校の生物の教員も、安全と答えたものは約4割であった。

★GMOについて、中学校の理科、高校の生物の教員の多くは中立的、中学の技術家庭科、高校の家庭科・社会科の教員の約半数が慎重・否定的な立場。

★多くの教員が、GMOの安全性評価の根拠が分かり難い、GMOを教える時間が十分にない、GMOの情報が少ないと感じている。

★教員の多くが授業を行う上で遺伝子組換え技術・食品の安全死に関する情報や最新の研究動向についての情報が必要と考えていた。

★遺伝子組換え技術の応用については、「病害虫の強く農薬散布が少なくて済む遺伝子組換え作物」以外はあまり知られていなかった。
  

②研究者
★我が国の植物分野の研究者の多く(97%)が、GMOの実用化研究が社会に受容されていないと認識しており、69%の研究者が国に対してGMOの有用性に関する国民理解の促進を期待、その次には45%が国がすべきことに「安全性確保についての国の取り組みの周知」を挙げた。


③自治体職員
★自治体職員の意識については、職員の所属する部門における差は大きく、食品安全・衛生部門の職員の8割以上が、遺伝子組換え作物・食品を「かなり安全」あるいは「どちらかといえば安全」と回答していた。一方で、消費・生活関連部門の職員は、7割以上が「どちらかといえば危険」あるいは「非常に危険」と回答していた。


④マスコミ関係者
★マスコミ関係者の多くは、GMOの安全性に対する国の明確な方針を示すべきであると考えている。

障害と文学 「謡曲 弱法師」

2008-07-28 10:53:28 | 文学
舞台となるのは、大阪市にある四天王寺。聖徳太子が創建した仏法最初の寺院とされています。悲田院があり、貧窮者・病人・孤児も集まってきていました。寺の周辺には乞食(こつじき)が参集して、参詣人の憐憫を乞うていたという事です。参詣人も功徳のために、彼らに施しを行っていました。
 舞台には、河内国高安の里の左衛門尉(さえもんのじょう)通俊が従者を伴って登場します。去年の暮れに、他人の讒言により、息子の俊徳丸を家から追い払ってしまいました。今となっては、俊徳丸が不憫で、現世後世の安楽を祈るために七日間貧民に施しを行っていました。満願の日に、盲目の少年が杖をついて現れます。
「出入(いでいり)の、月を見ざれば明暮の、夜の境をえぞ知らぬ。難波の海の底ひなく、深き思いを人や知る」「前世で誰かを厭い嫌ったので、現世で報いを受け、人の中傷を受けて、不孝の罪(勘当)に沈む我が身。悲しみの涙で目が曇り、ついには盲目の身にまでなってしまい、まだ死んでもいないのに、宙ぶらりんの状態で闇の道に迷うようであります」
 仲間からは、あまりにもよろめいて歩くので「弱法師」(よろぼし)と名前を付けられています。お互いに気付かぬ身、父通俊は、弱法師に施しを与えます。時は彼岸の中日。垣根の梅の花が、弱法師の袖に散ります。梅の花の古歌の問答が始まり、仏を讃嘆する弱法師。逆境の中でも、風流心を忘れず、悟りの境地にいます。ここで、父は弱法師が我が子俊徳丸である事に気が付きますが、人目を気にして、夜になってから名乗ろうと思うのでした。
さて、四天王寺の西門の石の鳥居は、極楽浄土の東門に向かい合っていて、彼岸の中日にここで日没を拝する古例がありました。夕刻になりました。通俊は弱法師に、日想観(西に向かい日没を見て極楽浄土を瞑想すること)を拝むように勧めます。弱法師の心眼には、かつて見慣れていた「難波の西の海「淡路絵島」「須磨明石」「紀の海」が映り、興奮状態で舞い狂うのでした。
「難波なる長柄の橋のいたづらに、彼方こなたと歩くほどに、盲目の悲しさは、貴賎の人に行き逢ひの、転(まろ)び漂ひ難波江の、足元はよろよろと、げにもまことの弱法師とて、人は笑ひ給ふぞや。思へば恥ずかしやな、今は狂ひ候はじ、今よりはさらに狂はじ」
 夜も更けて、通俊は我が子に過去を問いかけます。
「そも通俊はわが父の、その御声を聞くよりも胸うち騒ぎあきれつつ、こは夢かとて、俊徳は、親ながら恥かしとて、あらぬ方へ逃げ行けば、父は追ひ付き手を取りて、何をかつつむ難波寺の、鐘の声も夜まぎれに、明けぬさきにと誘ひて、高安の里に帰りけり、高安の里に帰りけり」

 追記:観世元雅作。クセは世阿弥作。世阿弥自筆本の転写本では、俊徳丸の妻や四天王寺の僧侶たちが登場する。
 参照:日本古典文学全集 謡曲二 (小学館)

 なお、この能の素材ははっきりしない。当時、継母により家を追われる子供の話が世に広がっていたのだろう。次回は、出来ればそれにも関連する説教節「信徳丸」に触れてみたいと思っている。
 子との再会というテーマを題材にした能には、少年花月が天狗にさらわれて、峰々を廻った後、清水寺で喝食となり、父親と再会を果たす「花月」がある。地元の神社の薪能で拝見したが、清清しい能であった。
 蝉丸と逆髪の再会は、悲しくもむごいものであった。