トッペイのみんなちがってみんないい

透析しながら考えた事、感じた事。内部障害者として、色々な障害者,マイノリティの人とお互いに情報発信したい。

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捨てられる命ゼロの社会を目指して・読書『命がこぼれおちる前に―収容された犬猫の命をつなぐ人びと』

2012-07-06 07:04:48 | 読書
命がこぼれおちる前に―収容された犬猫の命をつなぐ人びと (感動ノンフィクションシリーズ)
今西 乃子,浜田 一男
佼成出版社


 愛玩動物という言葉がある。この字を見ると、おもちゃのように犬を飼うというイメージが湧いてしまう。
命を持った存在というよりも、おもちゃとしてペットの犬や猫を買う人が少なくないようだ。実際に、公的施設で、毎日のように殺処分される犬と猫の数は、全国で一体どれほどいるのだろうか。飼い主の勝手な都合で、捨てられたり、そうした施設に飼い主に連れられて、何も知らずに収容されるペットも後を絶たない。本書に書かれているケースでは、高い金を払って買った柴犬が、病気だと判明するとすぐに施設に連れてきたケースが書かれていた。手術は高額だし、毎月の治療費は払いたくないという。では、何故安くないその犬をかったのか。飼い主に連れられて、喜び勇んで施設に入ってきた犬は、そのままだと1週間後には「殺処分」されてしまう。

 著者は、学校の子どもたちに殺処分される犬や猫の事を話すことにより、「命の学習」を続けている。本書は、子どもたちのために書かれたノンフィクションであるが、大人たちにも読んで欲しい。実際にペットの命を絶つのは、大人たちによることがほとんどであるのだから。
 街を歩いていたり、いろいろなところで犬を連れた人を見かける。ちょっと前まではミニチュアダックスフンド、そしてチワワ、最近はトイプードルが多い。流行があるのである。テレビやマスコミに接して、「可愛い」から飼うものの、シベリアンハスキーの流行の時はひどかった。飼育環境や犬の特性を知らずに、テレビ番組の影響で飼い主は増えたが、最終的施設に収容される結末も少なくなかったようだ。飼わないことも、動物愛護であるという本書で語られる言葉も大切なことである。

 施設に収容された犬や猫を個人的に引き取ったり、里親探しを行なっているボランティア団体の活動がある。また、引き取った犬をセラピードッグに育成している団体も存在する。今回の出版では、千葉市動物保護センターで新たな飼い主探しに協力する譲渡事業協力者と、殺処分に関わってきたセンターの獣医師の、一歩踏み込んだ活動が紹介されている。行政組織が、ボランティア活動を行なってきた私人の熱意に動かされて、彼らと協力して殺処分される命の数を減らそうという活動は先駆的である。二酸化炭素の充満する部屋での殺処分はもうそこでは行われていない。しかし、殺処分ゼロは達成するのは難しい。新たな飼い主を探すために、獣医が紹介した環境庁の譲渡適性検査を行なった犬や、捨て猫の飼い主が見つかっても、センターに持ち込められる命は後を絶たない。収容された猫たちも、ストレスや病気で飼い主を見つける前に施設内で死んでいる。
 下半身不随の瀕死の犬や、障害や病気を持った犬や猫の飼い主探しも行われている。どの命にも生き残るチャンスを与えるためである。そうしたケースのエピソードも感動的だった。

 最終的な目的は、殺処分ゼロから「捨てられる命ゼロ」への我々の意識の変換である。「命はめぐらない……。たったひとつだけ――」という本書からの声に子どもたちと一緒に耳を傾けよう。

 なお、この本に登場するボランティアの方が、捨てられた命を引き受ける人を探すために使っているブログ等の情報は、本書の記載を参照してください。
 

江戸時代も怖い話が好まれた・『江戸の怪談絵事典』

2012-07-04 23:01:41 | 読書
江戸の怪談絵事典
クリエーター情報なし
PHP研究所


 最近、本屋の児童書コーナーで、豪華な図鑑類をよく見かける。素敵な絵や写真と、最新の記事は大人も魅了する力がある。博物学的内容のものから、行儀作法に触れるものやら、多種多様である。今の子どもは羨ましいと感じつつ、子どもの世界にも及んでいる活字離れに対する出版社のヴィジュアル作戦のようでもある。かつて、家庭のインテリアも兼ねていた百科事典は過去の遺物となっている。子どもたちには、理性と感性をバランス良く育てる書籍が自分のすぐ利用できる環境に置かれていて欲しい。

 僕は、怖い話や怪異な話が大好きである。歌舞伎も南北の世界が心惹かれる。太平の江戸時代も、怖い話が人々に好まれたようだ。また、甲子夜話では、著者の怪異現象との遭遇が事実として記されている。今より夜もずっと暗かった時代の怖い話を,絵事典という形で、浮世絵などの当時の絵画を話に添えたのが本書である。読書が、伝統に触れることにもなっている。江戸は火事の街である。深川は、大火の後に開発された湿地で、水抜きと水運のための水路が作られた。その新興開発地の怪異は、本所七不思議として有名である。怪談とともに、その土地と密接な関係を持った話も本書に紹介されている。

 特に興味深いのは、実話として伝えられた『稲生物怪録(いのうもののけろく)』が当時の素朴な絵と共にストーリーが紹介されていることである。主人公の平太郎少年の成長物語でもある一般には知られていない作品に触れられたのは幸かなと思わせられた。

 解説と共に、どこから読んでも良い事典形式の本書から、江戸文化の香りを感じてもらいたい。
 監修者は、国立民俗学博物館民族文化研究部教授の近藤雅樹氏である。

同じ人間なんや、児童書『おっちゃん、なんで外で寝なあかんの?―こども夜回りと「ホームレス」の人たち』

2012-07-02 09:37:12 | 読書
 年越派遣村が初めて開設された時、人々の関心が一時的ではあったが多く集まった。しかし、この国では心情的に反応する事の方が多く、そのために時期が来ると何事もなかったように忘れてしまう傾向がある。より生きやすい社会を作るためには、自分たちには何が出来るかなどと、心情だけでなく理性のレベルで考える事をしていないようにも思える。真面目に一途に考える行為に対しては、また、行動することに対しては、何もそこまでする事はないという反応をしてしまうような気がする。その反面、「自己責任論」という為政者にとっても、無関心な国民にとっても都合の良い「異分子」に対するレッテル貼りの便利な言葉が日本中に拡散していった。これには、ネット社会が大いに「貢献」している。
 その後、「すべり台社会」、「無縁社会」などという現代の社会の孕む非人間性を指摘する言葉が登場したが、それらの言葉もどれだけの人々が自分の問題として受け止めたのか疑問である。
 未だに、社会には「ホームレス」の人々は減少しているようでもないし、悲しい事に、彼らを襲撃する「殺人行為を平気でする」若者たちの存在は、時々報道される事件で世間の一時的注目を集める陰で、認められるようだ。又、我々にとっても、「ホームレス」状態の人々を街の中で見かけても、ごく当たり前の風景のようにすぐ記憶から消してしまう、また、襲撃事件のニュースを知っても「またか」という無関心の領域に押しやってしまう。
 子ども達の成績と親の所得との相関関係の指摘、子どもの貧困問題、貧困の連鎖等、現代の日本は新たな階級社会となりつつある。親の属するクラスに生まれた子どもも親と同じクラスで生きていく。今後の日本の方向性を真っ先に考えるべき衆院議員ですら、小選挙区制というシステムの中で、狭い選挙区の中で、二世議員、三世議員といった世襲制が実際には行われていて、こうした選挙区には、新しい志を持った人間が入る余地がないのが現状であろう。身近な市区町村の議員の中にも、世襲制が少なからず認められ、封建時代の様相を示している。国会議員をはじめ、議員定数の削減問題も、一見すると経費削減の意味のある提案のように見えるのだが、少数意見の切り捨てを目論んだ封建時代的感覚の政治家にとって都合の良い手段となりかねない。今の政治の閉塞感も、小選挙区制のもたらした選択肢の無さと、松下政経塾の出身者のように、立候補できるなら、一部の政党を除いてはどこの政党から出馬するかは問題ではないという当初からの志?の問題点、また、言論の自由のために戦った事のないジャーナリズムの精神を失ったマスコミの政治、社会問題のショータイム化、バラエティー化による大衆迎合化による世論の誘導化などが、この国をどこに導こうとしているのか不安である。大阪で起こっている事も、マスコミの力が働かなければ今のような事態にはならなかった。古い国家主義的考え方をしようと、その考えを実行しようと、「改革」として評価されて問題点も指摘されなくなってくる。
 大阪の日本一生活保護の受給率が高いとされる西成区で、26年間にわたって、1月から2月の厳しい寒さの時期に、「ホームレス」の人々に対する「こども夜回り」が続けられている。同区にある「子どもの里」という児童館の子ども達が、野宿者に声をかけながら、おにぎりや温かい汁を配っている。大人たちがそうした活動をするより時よりも、野宿者は心を開きやすいという。その活動は、1986年に、横浜で起こったホームレス襲撃事件に心を痛めた館長が子ども達に意見を聞いた時の子ども達の反応がきっかけとなって始まったそうだ。西成区という立地条件からも、児童館に通う子どもたちも貧困などの問題を抱える子どもたちが少なくないはずなのに、襲った若者たちに対してよりは襲われたホームレスの人々に対する否定的な意見が多かったのだ。臭い、汚い、怠け者等の評価は、大人たちの偏見によるものなのだが、あのような人にならないように親から言われていたら、そうした評価を持つのが普通になってしまう。
 なお、同地区には、毎月1回、やはり夜周りを続けている児童館が本書で紹介されている。子どもたちは、夜周りによる野宿者との出会いで、今までの認識を変えていくが、その点については、野宿者の話とともに、子ども達の感想文も本書に載っているので是非読んでいただきたい。
 本書で触れられている大事な事実認識があった。野宿者もかつては、西成区ではあいりん地区等、全国でそのような地域に千人ほどしかいなかったという。しかし、企業による非正規労働者の利用が盛んになる事により(企業のコンプライアンスとか言われる事があるが、消費税論議同様、企業に働くのは、役員報酬と株主対策への視点で、後は倫理なき営利追求というのが大方の傾向なのだろう。)、若者も野宿生活者へ転落する、又、転落までも至らなくても、年金や国民健康保険の納付も出来ない最低限度の生活を送る例が増えてきた。現在は、野宿者は冬の極寒地の北海道も含めて、全国に二万人は存在するとされている。また、ホームレスの中には、聴覚障害者、知的障害者などの障害者や高齢者も、女性の野宿者も少なくないと本書では指摘している。女性の場合は、家庭内暴力も大きな原因となっている。
 夜周りをする子ども達とは、別に、襲撃をする子ども達、若者たちも後を絶たないという。彼らが警察に逮捕されても、悪びれる様子はない。骨を折った時の音を聞いてスカッとしたという若者すらいる。捕まえてみても、「普通の子」、中には優等生タイプもいるという。
 著者は、襲撃する子どもたちの事にも、大人社会の野宿者への偏見ばかりでなく、彼らの「生きづらさ」を指摘している。そこで、著者は、学校現場への出張授業の活動を行っている。少しでも、子ども達に野宿者の現状を知ってもらい、偏見をなくしてもらうためにであるが、時には野宿者も一緒に授業に監査して彼の話を子ども達に伝えている。
 本書を子どもたちが読むことで、偏見をなくし、自分たちに何が出来るのかを考えてほしい。本書の中で、ビッグイシューの販売員についても触れていたが、彼らから雑誌を買う事も、すぐに実行できる事である。
 ホームレスの人々も、自己責任論で無関心の対象とならないために、大人にも読んでほしい本である。出来たら、子どもと一緒に。

おっちゃん、なんで外で寝なあかんの?―こども夜回りと「ホームレス」の人たち
生田 武志
あかね書房

頭の中でなイメージの上で疑似体験をー『3.11が教えてくれた防災の本〈4〉避難生活』

2012-06-29 23:36:11 | 読書
3.11が教えてくれた防災の本〈4〉避難生活
クリエーター情報なし
かもがわ出版


 本書の最後の方に、東海地震、首都直下地震など今後大規模地震の起こる可能性の5ヶ所が地図と共に資料として載っている。日本の広い範囲が、いつ地震が起こってもおかしくない場所に位置している。

 透析患者の地域団体も、身近な市区町村を相手に、防災対策のマニュアル化などの対策を求めている所も増えているようだ。透析無しで、食事等の自己管理をしたとしても、だいたい1週間が生き続ける限度とされている。では、行政に震災後に透析が出来るインフラ整備を求めることは現実的であるのか。透析には、多量の水と電力が必要であるが、ライフラインの切断等がどこで起こるのかは、確実にはわからない。また、被災者の中には、他の難病患者や、人工呼吸器を必要とする障害者もいる。限られた予算の範囲での要求も限界がありそうだ。日本沈没ということがない限り、透析の出来る場所への移送ということが有効かもしれない。まずは、震災時の自分の命を守る自助から出発するのは他の被災者と同様であろう。透析患者は、できるなら災害弱者と呼ばれる他の障害者と一緒に、行政と防災対策を話し合って、災害に備えることができたらいい。透析患者の団体の共助の可能性も検討する必要があるだろう。受け身だけの存在ではなく、リアルな行動の可能性の追求。

 本書は、誰でも被災者となりうる状況下で、「その日」に備えるために、写真など視覚に訴える手段も有効に使って書かれた子ども向けの本である。避難生活について、少しでも追体験できるように表現されている。実際に、音や臭いもしないのであるが、辛い制限の多い避難生活の具体的な描写の中にそれすら感じ取れそうだった。困難な中で、人々を元気づけた子どもたちの行動や、行政ばかりを頼れない分、「避難所運営委員会」の活動等、前に進もうとする共助の紹介等も参考にすべき記事であった。ペットの避難生活での位置付けも興味ある内容であった。親子で、共に読んで普段から「その日」の事を話し合うのにふさわしい本である。

 

忘れないための記憶装置としての本『わたしたちの「無言館」』

2012-06-28 23:45:43 | 読書
 夏の思い出は、楽しいものばかりではない。思い出といっても、僕らの世代は実際には体験しなかった僕たちの親の世代の戦争に関する記憶である。直接に体験した人々の数は、年々減っていくが、再び悪夢を呼び起こさないためには、その記憶を伝えていかなくてはならない。今の閉塞した政治状況は、ヒトラーのごとき人間を自分たちの指導者にしてしまうリスクの高い所にものを孕んでいる。理性ではなく、心情の方が重きを置かれる社会は、客観的に冷静に考える能力を人々から奪っていく。ネット社会に巣食う排外主義や国家主義は、若者の近現代史の知識の空白を狙って、相乗以上に簡単に刷り込まれる例も少なくなかったようだ。その意味で、かつてなかったネットからの脅威も、無視できないものである。ファシズムはそよ風とともにやって来ると表現した人がいるが、心情に強く訴える非合理主義のその怪物は、時代に合わせて社会主義者、新民主主義者と巧みな擬態をとることができる。
 今は、過去の伝えるべき思い出や記憶が風化している時代となってしまった。故意に忘れさせようとする動きも強まっている。

 私たちは、決して諦めずに、執拗にその記憶を自分たちのものとして共有しながら、次の世代に伝えなくてななるまい。国家、社会が理性を失ってしまってからでは無力であるから。

 信州に旅することがあったら、無言館を訪れてみたい。戦争により命を奪われた画学生たちの思いを伝える彼らの遺産に触れるために。

 本を通じても、彼らの思いに触れることができる。それぞれの作品に添えられた館長でもある窪島誠一郎さんの文章が、作品の言いたかったであろう思いの大事なことを語っている。本書の絵や彫刻と向き合ってみると良い。

 戦争画というおぞましい一群の絵画が存在している。藤田嗣治も描いている。その封印も、戦争の記憶の風化と共にほころびようとしている。たくさんの富士の絵を戦費調達のために描いた横山大観もいた。音楽家の山田耕筰同様、反省したことはなかったようだ。

 無名といっていい若者たちの絵は、戦争画の対極で、静かさの中で大切なものを表現している。


わたしたちの「無言館」
窪島 誠一郎
アリス館

逃げるが勝ちー災害から身を守るための絵本

2012-06-16 23:27:28 | 読書
 現在の日本に住むことは、かなりリスクを伴っているのかもしれない。新聞やテレビが報じる、かろうじて残ったジャーナリズムとしての機能の一つとしての「報道」ニュースは、天災、人災の内容が少なくない。ゲリラ豪雨という言葉も、今や社会に普通に普及しているし、竜巻の発生も珍しいものではなくなりつつある。東日本大震災は、政治の無策が続く中、大幅に復旧事業が遅れている。なお、政治では松下政経塾という呪縛が蔓延している。これは、人災である。

 と、又、余計な事を書いてしまった。本題は、災害から命を守るためには、先の東日本大震災の時の教訓からも、まずは、自分の身一つで逃げることが大事だという観点から、様々な災害からの避難方法を記した絵本の紹介なのである。

 本書では、「にげることは生きること」というテーマが表表紙の裏に載っているが、その具体的な方法が、広域・集中豪雨から、原子力発電所事故まで、絵本という形でかかれている。

 平素から、子どもも大人も、学校や職場でも、皆でこの本を読んで後、自分の住んでいる土地や学校、職場の立地条件を考慮して、自分たちの逃げ方を話し合っておくことが大切である。

 逃げることは、決して卑怯なことではない。まず、危険が迫ったら、その危険から避難するのにふさわしい仕方で、一刻も早く逃げることである。逃げるが勝ちなのである。逃げるが価値のある行為なのである。そんなことを気づかせてくれる一冊である。しかし、原子力発電所事故は、本書でも厄介な災害とされている。制御することができないのに、作り出してしまったモンスターのようである。完全に逃げ切ることは難しいことであるが、生きるためには、できる方法で逃げるしかない。なんせ、コントロールができない最大の人災であるのだから。

 私たちが命を落としても、国家は存続していくのではないだろうか。逃げて生き残ることが、最大の抵抗なのかもしれない。


にげましょう 災害でいのちをなくさないために
河田 惠昭
共同通信社

青少年のための『世界一やさしい精神科の本』

2011-07-02 22:58:36 | 読書
世界一やさしい精神科の本 (14歳の世渡り術)
斎藤 環,山登 敬之
河出書房新社


 僕が育ったまちは、世界一精神病院が多い所といわれていた。しかし、少年時代は、精神疾患に関する治療法も薬も、今ほどは開発されておらず、社会的入院ということもごく普通だったようだ。だから、そんなまちでも、自分の生活圏に患者の存在を感じることもなかった。小学校では、鼓笛隊に入っていたが、ある年、学校の裏山にある精神病院の運動会に演奏することになった。子供なりに、病院の門を入って会場に行くときは、いささか緊張したものであった。しかし、実際に見た運動会では、どの選手や参加者が患者なのかはわからなかった。

 現在は、うつ病に関する社会的認知も深まり、新薬の登場もあり、街の中に精神科、心療内科の外来を見かけるのも珍しいことではない。職場での理解も進んでいるようだ。しかし、すべての精神疾患が社会の理解を受けているわけではない。当事者の声も、なかなか社会には伝わっていかない。ハーモニーの『妄想かるた』のような存在もまだまだ十分には知られていない。

 精神疾患について気になることはたくさんある。医師やスタッフによる治療が、病院の診察室だけのことになっていないか。検査室での研究は、実際に人間が生きていく社会と接点を持っているのか等。

 「14歳の世渡り術」の中の1冊として登場した『世界一やさしい精神科』には、若者を取り巻く現在の行きづらい社会にも目を向けている。本書の前書きで述べられているように、ヒトの「多様性」を認め難い若者社会にも懸念をもっている。個性があるようで、実際は、ある限られた範囲の中での模倣に近い自己主張。その仲間内からはみ出した者に対するマイナスの感情。

 「発達障害」「摂食障害」「ひきこもり」「社会不安障害」「統合失調症」などのついて、やさしく解説した本書は、国民性や文化との関係にも触れるなど、人間の「多様性」を描き出していく。思春期に、この本を読んでみて、精神疾患を通して、人間に対する思いやりの気持ちを育ててほしいものだ。

文化の多様性/読書『正しい大阪人の作り方』

2010-09-29 01:48:19 | 読書
正しい大阪人の作り方 (集英社文庫)
わかぎ ゑふ
集英社

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 歴史的にみれば、東京に比べて関西の方が、日本の文化の中心の時間がはるかに長かった。徳川家康が江戸を開発するまでは、伊勢物語の東下りの話のように、東国は文化の果てる国と理解されていた。江戸時代も、大阪は経済都市であり続けた。また、町人文化も、当初は大阪が中心であった。

 と言いつつ、大学生の時、大阪出身者は関西弁をずっと使っていたのが印象的であった。他県の出身者は、大方が標準語を話していたのに、彼らだけは、標準語を使わなかった。もちろん、そのことに関しては、何ら問題はないのであるが。

 エスカレーターは、本来、バランスの関係から、真ん中に一人だけ乗るのが正しい乗り方だそうだ。しかし、都会の慌ただしい時間の中で、さらに歩いて登る人のために、片方に寄って乗るのが普通である。しかし、東京では左に寄るのに、大阪では右に寄るという。また、マクドナルドが、マックではなく、マクドであるそうだ。そんな表面的なことを最近耳にした。

 しかし、もっと深いところに、大阪の文化の独自性が見られるに違いない。そんな疑問に答えてくれたのが、本書で会った。

 今年は、国際生物多様性年である。上野の科学博物館で多くのお客さんを呼んだ「大哺乳類展」もそれにちなんだものであった。
 
 文化も、国同士という国際的な多様性の他に、日本国内でも県民性をはじめとして文化の多様性が見られる。文化の多様性も、また、生物の多様性同様に、大切な物である。

 と言っても、かなり理解に苦しむこともあるようだ。

 本書の最初に、会社で、トイレに行くときに、大の方か、小の方かを言ってから席を立つという話。のっけから、びっくりする話で会った。東京では、トイレに行くとは言っても、ウンコしに行くなんてことは、まず部下には言わないし、行ったらパワハラなんてことになりそうだ。
 でも、来客があった場合、大か小かでは、待たせる時間が違うわけだから、電話を受けたとき同様、間の取り方が分かってよいという合理性があることが、文章を読み進めるうちにわかってきた。

 そんな具合いに、この本を読んでいると軽いカルチャーショックを受けることになる。大阪人による大阪人の「特異性」の話である。批判も書かれている。なるほど、文化の多様性も、こうした形で理解する必要があるのである。

 大阪を中心とした関西人への、著者の見方も書かれていて興味深い。

 さて、江戸っ子というのは、最低3代は続かなければならないようだが、大阪人というのは、1代でも成れるそうだ。そこも、特質なのだろうか。

戦争、核兵器、差別に渇!「張本勲 もう一つの人生―被爆者として、人として」

2010-06-03 02:32:33 | 読書
張本勲 もう一つの人生―被爆者として、人として
張本 勲
新日本出版社

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 日本の野球界の輝かしい記録を残した張本勲氏の、今まで、知られていなかった人生を記した本である。
 在日韓国人としての生き方、母や兄、家族との関係など、張本氏の語る人生から多くのことを学ぶことができた。暴れん坊の学生時代、彼を支えてくれた家族の重い。野球の道に進んだのが、貧困からの脱出であったということ。
 学生時代の言論大会で、1回目は、原爆をテーマにして、2回目は非差別のテーマで優勝したことは、張本氏の単純にも思えるが、熱情的な正義感をうかがうことができた。
 そして、この本で、自らの被爆体験と語って、平和への思いを「自然に」述べている姿に打たれた。また、子どもの時に、右手を大やけどして、手に障害を残しながら、周囲にそうしたことを告知することもなく、障害を克服して野球の世界で活躍していたことなど、初めて聞く話であった。

 今年70歳になる張本氏が、自らの被爆体験を語るきっかけになったことの一つは、テレビで「戦争など関係ない」とうそぶく若者の姿を見た事であった。広島と長崎に原爆が落とされたことも知らない若者の存在、そして、被爆体験、戦争体験を語ることのできる世代が少なくなっていることが、彼にまっすぐというべき生き方に働き掛けたようだ。

 もちろん、空洞化する日本の野球界への思い、自らも育て上げた韓国野球界のことや、メジャーに飲み込まれるかもしれない日本の野球界を、アジア諸国に球団を育てる夢なども語られている。そして、語られることのなかった90%は苦しかったという彼の野球人生の語りも興味深いものであった。

 憲法9条を持つわが国の果たすべき役割も考えさせられた。

 野球も、平和な国、世界でしかできないスポーツである。

 あの戦争で、沢村投手他、多くの野球人が命を奪われたことも忘れてはならない。



戦火に消えた幻のエース―巨人軍・広瀬習一の生涯
上田 龍
新日本出版社

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我輩はミケ・60の山頂に立った・本になった/気になるニュース

2010-05-18 01:51:44 | 読書
我輩はミケ・60の山頂に立った・本になった(読売新聞) - goo ニュース

 一部の人の間で話題になっていた「山登り猫、ミケ」が、全国紙にも、ミケの本と一緒に紹介されました。何とも、変わった猫ですね。

『ミケはオスの三毛猫で15歳。元々犬を飼いたかった岡田さんは、「ペットと散歩がしたい」と、リードをつけてミケの散歩を始めた。次には、登山が趣味だったことから、ミケを山に連れて行こうと思い立った。1995年8月、生後5か月のミケは、リードを付けて聖高原の三峯山(標高1131メートル)に初登山した。

 日々の散歩にも慣れ、リードがなくても岡田さんと妻さよさん(52)の後をついてくるようになったミケは、96年3月の寺山(千曲市、標高530メートル)、霊諍山(同市、標高490メートル)の縦走登山からリードなしで山に挑むように。

 以降、約14年間で県内外62の山頂に立った。これまでの最高峰は、09年9月に登った標高2223メートルの双子山(佐久穂町、茅野市、佐久市)。岡田さんが登山用リュックを出すと、そわそわした様子で玄関に向かうほど、登山がすっかり「ライフワーク」になった。

 雑木林の中で遊んだり、草花のにおいをかいだりしながら山を登る。頂上ではエサの缶詰をもらって昼寝をし、下山するのがミケのスタイル。落ちていたマタタビの枝で酔っぱらったり、ネズミを捕まえてきたりしたこともあった。ほかの登山客からは「犬かと思ったら猫だ!」と驚かれ』と記事で紹介されています。

 でも、ミケがとても年寄りの猫だとは知りませんでした。

山登りねこ、ミケ―60の山頂に立ったオスの三毛猫
岡田 裕
日本機関紙出版センター

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モスラとは何であったのか/『モスラの精神史 (講談社現代新書)』

2010-04-19 02:13:19 | 読書
モスラの精神史 (講談社現代新書)
小野 俊太郎
講談社

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 子どもの頃、怪獣ブームは映画から始まった。といっても、映画館には、めったに行けなかった。子ども同士で繁華街に行くことは禁止されていた。それでも、びくびくしながら、6年生の時に級友たちをこっそり映画館に、怪獣映画を見に行った。その時は、ゴジラとラドン、キングギドラが登場する作品で、モスラは出ていなかった。併映の「エレキの若大将」が大ヒットしたのを記憶している。

 当時は、テレビで野球中継が中止になると、代わりの番組として、東宝の怪獣映画が良く放送された。そのため、いつも、テレビ欄で中止の時の演目を見るたびに、その日に大雨が降ることを祈っていた。

 さて、モスラは、映画以前に少年雑誌の付録についていた漫画の小冊子の「モスラ」」を読んだのが先であった。漫画を読みながら、イメージを膨らませながら映画館に行きたいと思っていた。

 モスラは、子どもから見ても、ゴジラなどの怪獣とは性格の違う存在であった。今回読んでみた「モスラの精神史」は、知的好奇心を刺激する著作であった。

 まず、中村 真一郎,福永 武彦,堀田 善衛の3人の文学者が、分担して原作になる小説「発光妖精とモスラ」を書いていたというのは、初めて聞く驚きであった。この原作を読みたくても、レアなものと化しているようだ。

発光妖精とモスラ
中村 真一郎,福永 武彦,堀田 善衛
筑摩書房

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 「モスラ」に関して、様々な視点からの著者の解析である「モスラの精神史」は、読んでいてわくわくとするものであった。単なる怪獣映画以上の意味を持った作品であることの解明は、大いに、知的好奇心を刺激し、知的冒険の世界を旅することが出来た。蛾の怪獣である必然性を、民俗学的観点から、日本の養蚕業と結びつける最初の展開から、この1冊には、たくさんの意味が込められていた。

 モスラの誕生したインファント島の場所の特定の試みも面白く、南洋の海洋文化と、古代日本との関連性なども、作品の背景となっていたという。ザ・ピーナツの歌う「モスラの歌」が、インドネシア語によるものだということも初めて知った。

 また、映画は小説とは違って、日米合作による娯楽映画の要素が強いものであったが、それでも、背景には、原水爆禁止運動や、日米安保条約との関連性を見ることができる。モスラが東京タワーを目指したコースも、小河内ダムから、横田基地を破壊して進むという面が、アメリカを意識したものとの指摘等は、さもありなんと感じられるものであった。

 原作では、「ロシア」+「アメリカ」から「ロシリカ」、映画では、「ロリシカ」はアメリカを指す国であるが、モスラが最後は、アメリカの都市を破壊する事になるのは、日本への空襲に対する思いが込められる結果となった。当初は、日本国内での話の展開が、アメリカ側の意向で、9.11以前の破壊を描くことになったのは、皮肉な結果であった。幻の風船爆弾のように、静かに空中を飛びながら、一度も敵国から攻撃を受けた事のないアメリカへと進むモスラの姿は、どんな思いが込められていたのだろうか。

Mosura trailer


モスラの歌(Mothra's Song)・・・ザ・ピーナッツ


 なお、「モスラ」の併映作品は、坂本九主演の「アワモリ君売り出す」であったが、この封切りの7月の後、8月にスキヤキこと上を向いて歩こうが、海を越えてアメリカでヒットしたことも紹介されている。モスラと共に、アメリカに飛び立ったのである。

mosura 九ちゃんモスラを起動 kyu sakamoto 坂本九


坂本 九 上を向いて歩こう





3つのハムレット/『ハムレットQ1』

2010-03-31 01:44:22 | 読書
ハムレットQ1 (光文社古典新訳文庫)
ウィリアム シェイクスピア
光文社

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 舞台は、観る方が多く、あまり演劇史に関しては、文学部ほど勉強はしていません。
 ハムレットの上演台本は、シェイクスピア存命中に刊行された「第2四折本(1604)・Q2」と、死後劇団員によって刊行された「第1・二折本(1623)・F1」が元になっているそうです。どちらも全文が長く、完全上演すれば5時間近くもかかるとのこと。そんな訳で、実際に上演する時は、かなりのセリフのカットが行われます。演劇というのは、生き物ですから、舞台で演じる時は、かなりの演出上のセリフのカットや書き換えはありうることです。Q2をもとにするか、F1をもとにするかは、演出家の裁量に属することなのでしょう。実際には、Q2とF1を合わせたものを基本にした台本が使われることもあるようだ。
 問題は、1603年に出版されたQ1の存在で、長らく、海賊版として扱われてきた。しかし、事態はそう単純なものでもないらしく、単純に海賊版とすることには異議があるようだ。とにかく、当時の上演の雰囲気をよく醸し出しているテキストとなっているという。セリフも、Q2・F1の半分くらいで、幕割りや登場人物の名前などに異同がある。セリフの内容も、あの有名な"to be or not to be"や尼寺のセリフの置かれている場面も違っている。
 ハムレットの母が、息子から真相を知らされる点も、種本に近いということだ。

 翻訳をした安西徹雄氏は、演劇集団〈円〉での上演に、このQ1をテキストとして使用したそうだ。

 いつもは、観客の視点でしか観ていない演劇の世界だが、ハムレットもめぐる3つのテキストの関係は、とても興味ある話であった。

 戯曲を読みのも意義のある事だが、望むべきは、Q1での上演を観ること。

読書バリアフリー法、年内成立求め集会/気になるニュース

2010-03-25 01:12:34 | 読書
読書バリアフリー法、年内成立求め集会(読売新聞) - goo ニュース

 一般に、読書人口が減っているようです。その反面、情報を得るために、読書という手段が、障害者や高齢者に対しても、保障されることが大切だと思います。
 読書バイアフリー法が成立してほしいなと、このニュースを読んでいて思いました。

『障害者や高齢者が読書に親しめる環境づくりを盛り込んだ「読書バリアフリー法」の制定を目指す集会が24日、国会内で開かれ、国民読書年にあたる今年中の成立を求めることを決めた。

 集会は、超党派の活字文化議連(会長・山岡賢次民主党国会対策委員長)や文字・活字文化推進機構(肥田美代子理事長)などが主催し、民主、共産両党の国会議員13人や障害者団体関係者が参加した。

 同法には、音訳された図書や点字図書、電子データ化された図書の整備や販売に努めるよう図書館や出版社に求める規定を盛り込む考えだ。

 学校の教科書に関しては、出版社に検定教科書の電子データの提供を義務付け、文字の大きな教科書を発行するよう努めることを求めた「教科書バリアフリー法」がすでに成立している。』

 一つ、付けくわえてほしいことがあります。それは、日本語の図書を、日本手話に翻訳したものを、図書館に常備してもらいたいということです。

 ろう者の母語としての日本手話は、日本語とは独立した、独自の文法を持った言語です。日本語を、機械的に手話の語彙に置き換えた日本語対応手話は、ろう者の言語ではありません。日本手話は、話し言葉で、書き言葉は存在しません。
 我々聴者が、外国文学や、日本の古典文学を翻訳で読むように、日本語で書かれた本を、日本手話に翻訳して、DVDなどの記録媒体に録画する方法をとることが、現代の日本では可能だと思われます。ろう者には、活字になった日本語を読みこなすことが困難な人も少なくありません。図書館に、日本手話に翻訳された様々な分野のDVDが置かれていれば、情報保障にも有効です。

 視覚障害者には、点字図書の提供や、音読サービスがあるのですから、ろう者にも、日本手話のDVDが利用できることを希望するものです。

山を登る猫の本が出版されました/『山登りねこ、ミケ―60の山頂に立ったオスの三毛猫』

2010-03-23 00:37:02 | 読書
 飼い主と登山をする犬なら珍しくないかもしれません。

 今、話題になっているオスの三毛猫「ミケ」は、信州安曇野に生きる登山猫です。オスの三毛猫というのも、珍しい存在ですね。
 もちろん、リードは付けていないそうです。山が好きな夫婦の良きパートナーとして、これまでに60以上の山を登ったそうです。

 「ミケ」との出会いから、山登り、家族としての絆が描かれたフォト&エッセーが出版されました。

山登りねこ、ミケ―60の山頂に立ったオスの三毛猫
岡田 裕
日本機関紙出版センター

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 「ミケ」が山を登る動画は、この本を出版した日本機関紙出版のブログ「まいど、日本機関紙出版です。」から、見ることが出来ます。「ミケ」の写真も紹介されています。

まいど、日本機関紙出版です。

可笑しくて切なくてやがて温かき『じりラブ』かな

2010-02-27 23:43:47 | 読書


じりラブ
うたぐわ
集英社

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 アメブロに連載中のうたぐわさんの『じりラブ』が2月26日に発売されました。タイトルになった「じりラブ」という言葉は、うたぐわさんが作られた造語で、「愛があるけどじりじりする、じりじりするけど愛がある」というような感情を表わしているそうです。うたぐわさんは、40代のサラリーマンですが、パートナーのツレちゃんと一緒に暮らしています。男性同士ですから、現在の日本では、結婚が認められません。だから、「ほぼ夫婦」と呼んでいます。二人の愛の形が「じりラブ」というものなのですね。この言葉、案外、この国に定着したりしてね。同じような愛のバリエイションにあるカップルは、男女の組み合わせに関係なく、案外多いのかも知れません。本書を読んで、納得出来るでしょう。

 うたぐわさんこと、うたちゃんは、会社では、自分がゲイであることをカミングアウトしています。漫画では、実際のうたちゃんを取り巻く人々をモデルに、魅力ある人間として描いています。会社の女子の面々、ノンケの同僚、2丁目の仲間など、読んでいてその性格描写に感心させられますです。

 この本の視線は、普通のゲイからのものでしょう。普通といっても、ゲイの人にも、当然多様性がある訳です。ただし、世間一般で誤解されていることが多いことが分かりました。女装マニアはゲイではないし、性同一性障害もゲイではない、それに、テレビで露出しているオネエという存在も、本物はそうはいるものではないことが分かりました。
 奥さまは魔女のオープニングのフレーズみたいなんですね。ごく普通のサラリーマンが、ごく普通の生活を送っている。ただ、違っていたのは、彼がゲイだったのです。こんな感じかな。もちろん、「普通」の意味は、自然にという意味ですが。

 ゲイを取り扱った各分野の作品は多く作られていますが、内容が変に変形させられたり、不自然だったり、偏っていたりしているようです。

 自然流が一番ですね。

 当事者が描いた本というのもいいですね。面白い漫画ですが、その中には、本音が見られ、ほろりとする内容もあったりするんです。

 特別に、深読みしないで、楽しく読むのもいいんです。

うたぐわさんのブログ『[漫画]♂♂ゲイです、ほぼ夫婦です』