トッペイのみんなちがってみんないい

透析しながら考えた事、感じた事。内部障害者として、色々な障害者,マイノリティの人とお互いに情報発信したい。

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絶望から希望へ/絵本『ぜつぼうの濁点』

2009-07-31 01:05:40 | 絵本・児童文学
ぜつぼうの濁点
原田 宗典
教育画劇

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 小説家原田宗典による絵本。

 なんて不思議な話なのだろう。昔、存在したという言葉の世界。その真ん中に穏やかなひらがなの国があったという。

 「や」行の町の道端に「〝」と濁点が置き去りにされていた。もともとは、主人の「ぜつぼう」についていた濁点であった。いつも接している主人の絶望の深さが自分のせいではないかと思って、主人の「ぜつぼう」に頼んで、捨ててもらったのだ。濁点は、他のひらがなたちに一緒になってくれるように頼んだが、「ぜつぼう」に付いていた濁点は誰からも嫌われた。

 「おせっかい」が、濁点を「し」の沼に放り込んだ。濁った水に中で溶けてしまえばいいと言われて。

 濁った水の中に沈みながら、主人だった「ぜつぼう」の気持ちが理解できたような気がした。濁点は、もともと、主人を思って捨てられたのだから、こうして沈んでいく孤独というむなしさの中から、主人を救い出せたのだから、それを喜びとしようと思った。これでいいのだ。これでよかったのだ……というつぶやきが「きほう」の三文字に変わった。「きほう」は、濁点に自分にくっつけと言う。水面に浮かんだ時、「きぼう」という言葉が生まれ、ぱちんとはじけて、あまねくこの世を満たしたという。

 不思議な神話的世界。濁点の心意気が希望を生み出したのだ。よだかの星に通じる世界。

僕たちの誇り/『シリーズ憲法9条〈第2巻〉平和を求めた人びと』

2009-07-31 00:30:14 | 読書
シリーズ憲法9条〈第2巻〉平和を求めた人びと (シリーズ憲法9条 第 2巻)

汐文社

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 図書館に、扶桑社の新しい歴史教科書が置いてあった。今年は、それに関与したグループも内紛を起こし、自由社からの教科書と合わせて、戦前への逆行を思わせるものが2種類となった。図書館においてあったのは、一般読者向けのものであった。

 戦後、時間が進むにつれて、右翼思想はだんだんと縮小するものと思われたのに、小泉政権の誕生以来、若者の間にまで、ネット右翼という形で、亡霊が復活しつつある。安彦良和氏が、おたくとネット右翼との関係を論じた対談の中で、近現代史が教育現場で教える時間がほとんどない結果、歴史的知識の空白の中に、国家主義が抵抗もなく刷り込まれたことに言及していたことが印象に残っている。また、想像力の欠如ということも言われていた。要するに、もし、今、外国の軍隊が東京や大阪を占領して、たとえ、インフラ整備を行おうと、占領された国民はどんな思いかということへの想像力の欠如がネット右翼を生み出したのだ。同じことを、戦争中に日本が行ったことへの安易な肯定感。

 本書の最初に、敗戦の日に書かれた群馬県高崎市の国民学校の3年生の作文が紹介されている。
「 ぼくは、戦争がまけたので、くやしくてくやしくてたまりません。また二十年ぐらいたつと、またせんそうははじまるというきもちでべんきょうするのだ。…ぼくが大きくなったら、また必ずこのかたきをとります。」

 別の男の子2人も「あの、にくいにくい米英のためにまけてしまった。…よし、いつかはきっと、あのにくいにくい米英をやぶるために、まいにち、まいにち、いっしょうけんめいべんきょうをやっていこう。」「ぼくは戦争にまけてくやしいです。まるで夢のようです。…ぼくは、早く大きくなって、戦争には今度こそかちたいとおもっています。」と書いている。
 いま、この軍国主義に洗脳された子どもたちの思いと同じ亡霊が、一部の若者の精神をむしばんでいる。これは、恐ろしい連続体だと思った。

 当時のフランスの子どもが書いた作文。「『戦争は終わった!』うれしい。わたしたちはもとのように自由になったのです。そう思うとうれしくてなりません。そして、なん千という人が、もう戦争で死ぬこともなくなったのです。人びとは、喜びにかがやいています。もうけっして戦争をしないために、私たちは団結しなければならないと思います。あすの平和をのぞみ、国境をこえて、ドイツの子どもたちに手をさしのべましょう。日本の子どもたちに手をさしのべましょう。」

 この違いは何なのだろう。よく、考える必要がある。

 本書では、与謝野晶子をはじめ、平和を求めた人々が紹介されている。われわれの誇るべき先輩たち。彼らの意志を受け継ぐためにも、彼らの生き方を知る必要があるのだ。たとえば、日本国憲法の中に「戦争放棄」の条文を入れたのは誰かという説で有力なものは、本書でも紹介された幣原喜重郎首相の強い主張だとされる。ただ一人、大政翼賛会に入ることを拒否した人物でもある。

 こうした平和を求めた人々の残したものは、われわれの大切な遺産である。まず、そうした視点で歴史を学ぶことで、終戦の日にあのような作文を書いた子どもがもう出てこない世の中を作る必要があるのだ。

今日の園芸日記/アイスプラントの花

2009-07-30 23:48:38 | 日記
 今日は、朝から晴れていた。どうも、天気予報は当たらないようだ。今は、雨が降っているが。

 アイスプラントの苗は順調に育っているが、水分が足りないのか、サラダで食べるようなみずみずしい葉ではない。他の多肉植物のように、乾燥に耐えているような感じの葉である。

 この所、しばらく天気が悪かったので、水やりの方ほお休み状態であった。今日は、晴れたことだし、透析から帰宅後、水やりをしようとアイスプラントを見てみると、たくさんの白い花をつけていた。一応、メセンの仲間なので、ある程度は、花の様子は予想できたが、案外、地味な花であった。よくいえば、可憐に咲いていたということだろう。
 葉の先が赤いのは、前から気になっていたのだが、育て方によるもののようだ。

 実生の苗は、まだ、株分けをしていない。もう少し、放置栽培して様子を見ようと思う。


第32回納涼能②『大江山』

2009-07-30 00:39:35 | 演劇・舞台
 能『大江山』(金剛流)
  前シテ(酒吞童子)後シテ(鬼) 金剛永謹
  ワキ(源頼光)         森 常好
  ワキツレ(独武者・保昌・貞光・季武・綱・金時等 登場は5人)
  間(強力)           善竹十郎
  間(童子の捕らわれた都女)   善竹富太郎

 一昔前までは、酒吞童子といえば、子どもでも知っている話であった。しかし、他の多くの伝承とともに、人々から忘れ去られていく運命なのだろう。
 酒吞童子に関する伝承で最も古いものは、「大江山絵詞」であるが、作者には吉田兼好をする説もある。平安時代に、大江山に住んでいた山賊を、源頼光らが退治したのが、鬼退治の話に転化したのであろう。なお、漫画の中には、当時、日本に住み着いた異国の人間を鬼と解釈した話をあった。

 話は、源頼光一行が、勅命を受けて、丹波の国大江山に住む酒吞童子を退治に向かうところから始まる。彼らは、山伏の姿に身を変えて、酒吞童子に近づく計略であった。

 この能は、ワキと間の狂言方も活躍する作品である。頼光の家来の強力と、鬼にとらえられた都の女との狂言方のやり取りが面白い。この女の手引きで、頼光ら一行は、酒吞童子のもとで宿を借りることができる。

 酒吞童子は、前シテでは、童子の姿で現れる。この鬼は、かなり人間臭いというか、弱みを頼光らの前で見せる。もともとは、比叡山に住んでいたのだが、最長が延暦寺を構えるに際して追い出され、諸国をさまよった結果、大江山に暮らすようになた。「一稚児二山王」という諺があった。山王とは、延暦寺の鎮守する日枝神社である。諺の意味は、延暦寺の僧侶、つまりは山法師は、山王よりも、美しい稚児を大切にしたことを諷したものである。いわゆる当時の稚児潅頂を経た稚児に対する僧侶の同性愛の関係を反映したものである。明治維新により、西洋文明が入り込むまでは、我が国では、同性愛に寛容であったという指摘もある。
 能の中でも、山伏姿の頼光らに、童子の姿の酒吞童子が可愛がってくれと言っている。隠れ家が露見したことを山伏に内緒にして欲しいと頼む気持ちの上の言及であろう。酒吞童子は、酒宴の果てに酔いつぶれてしまう。

 この後に、酒吞童子の寝所の鍵を女に差し出させた頼光らが、鬼と化した酒吞童子と立ち回りをする。

 その前に、強力が女と共に、先に都へと急ぎ帰っていく。女は、強力から都の亭主が女のいない間に再婚をして子どもをないがしろにしていると聞いて、怒り出す。強力は自分と結婚すれば、子どもの面倒も見ることを約して、2人は夫婦となることに決めて去っていく。このやり取りが、また楽しいものであった。

 「夕顔」のような幽玄な能と違い、大江山のようにスペクタクルの作品も能にはある。シテ方が、前転をするなど、立ち回りを含めてそうしたハードな動きもするのである。

 後半の鬼と化した酒吞童子との戦いの様子も興があるものであるが、本作では、前半の鬼らしからぬ酒吞童子の振る舞いが、面白い作品である。弱気の鬼が童子の形をして、人間臭いところがである。

山は生き物でいっぱいだ、きのこをみんなで食べよう/絵本『ほなまた』

2009-07-29 23:44:57 | 絵本・児童文学
ほなまた (わくわくたべものおはなしえほん)
こしだ ミカ
農山漁村文化協会

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 「わくわくたべもののおはなしえほん」の中の一冊。山のきのこのお話。

 土の中のきのこの胞子が、成長する。それを待って、おいしく食べる山の動物たち。こしだ ミカさんの絵が素敵だ。大胆なタッチで描かれた絵をよく見ると、色々な生き物の営みが書き込まれている。まさしく森は生きているではなく、山は生きているのである。きのこの成長を待って、腹いっぱい食べる動物たちの満足そうな姿を見るだけでも、幸せな気持ちになれる。ハエまで登場している。

 細かく書き込まれた、山の様子は、地中を含めて、土を肥やし、山を豊かにする様々な生物の営みも描かれているから、きのこを食べる話のほかに、ページをめくりながら、その様子を宝探しのような感覚で見つけるのもこの本の読み方である。

 動物たちが満腹になった後、彼らは、人間の村のおじいさんが孫を連れてやってくる姿を見て、木の陰に隠れた。

 おじいさんも、きのこのたくさん出ている場所を知っているのだ。孫と一緒にたくさんのきのこを収穫する。でも、まだまだきのこはたくさん生えている。もっと取りたい孫におじいさんは言った。「食べるぶんだけ とったらええんや。あとは、また来年」。そう、来年、ほなまた。動物たちもねぐらに帰っていく。ほな、またね。

 山の自然は、みんなのもの。人間も、そのおすそ分けをしてもらっているのだ。

野良猫の夢/絵本『ネコのジュピター』

2009-07-29 00:55:01 | 絵本・児童文学
ネコのジュピター (新しい日本の幼年童話)
茂市 久美子
学習研究社

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 『招福堂のまねきねこ―またたびトラベル物語』の本のことは、以前に投稿したが、同じ茂市久美子さんのお話で、やはり、ネコが主人公の絵本である。

 世の中にたくさんいる野良猫が見る夢のようなお話であった。

 ネコのジュピターは、もともとノラだったが、今は、オリオンキャットフード工場の試食係をやっている。この工場には、他にも、もとは捨て猫や野良猫だったネコたちが、キャットフードの試食係をしている。この工場で働いている星さんが、ネコたちの世話係を進んで引き受けてくれているが、星さんは、その名前のように星が好きな人なので、ネコたちに星の名前を付けている。これがかなり難しい。僕も、プラネタリウムで覚えた名前が続く。ベガ、デネブ、アルタイル、シリウス、プロキオン、ペテルギウス……。試食係は大切な仕事だ。ネコのための食べ物を作っている工場なんだから。
 でも、ある日、この工場は閉鎖されることになった。同じ町にあるキングドッグフード工場が、半値でキャットフードも作るようになったからだ。ネコたちは、動物愛護団体の人に引き取られていった。ジュピターにも、みいこさんという女の人が迎えに来た。みいこさんの家で、キングのキャットフードを試食してみた。そしたら、おいしくない。だから、ジュピターは、やがて、オリオンキャットフード工場も再会すると思った。そして、その日を工場で待つために、みいこさんの家を出た。でも、行き方が分からないので長い間フラフラしていると、カラスの姿が見えたので、工場の場所を知っているか聞いてみた。このカラス、オリオンのキャットフードが大好きなんだって。公園で、野良猫におばあさんがオリオンのキャットフードをやっているのをくすねて食べていたんだって。道を教わったけれど、車が行き交う道路でカラスの姿を見失ってしまった。でも、そこへ通りかかった車の荷台に飛び乗ったんだ。工場に行けると思ってね。あれ、車は工場とは反対の方に進んでいく。工場は海の近くにあったんだけれども、ジュピターが下りたのは、山の方だった。
 おなかのすいたジュピターは、近くにあった家に行ってみると、おばさんが出てきて、トラが帰ってきたかと思ったと言ったんだ。そして、あのオリオンのキャットフードを出してくれた。おばさんには、1人息子がいて、今は遠くの町で働いている。そこで知り合ったネズミのマースの話では、その息子は星の好きな子どもだったって。そして、トラのことも聞いた。遠くに行って帰ってこないのではなく、死期を察したトラがおばさんに気付かれないように自分から姿を消したということを。

 さて、結末はもうお分かりの方もおられるでしょう。この本の素敵なところは、野良猫や捨て猫にとっての、夢のような居場所があることです。試食することも工場のためになるという点もいいですね。世知辛い世の中に、こうした心がホッとするような絵本を読むこと、それも読書の楽しみの一つです。