おいらは、運命論者ではない。でも、時々、あらかじめ台本に書かれたような出会いがある。
おいらが、手話を学ぼうと思ったのは2度目の高校2年生の時。その頃には、政党の演説会などで、手話通訳が付くのを見かけるようになっていた。手話を学ぼうにも、今のように、地域に手話サークルはほとんど皆無で、やっと新聞でサークルを見つけた。自宅から遠かった。会場は、主に新宿四谷の周辺の公民館で、夜に活動していた。内容は、初めに手話の勉強があって、その後はろう者の問題を話し合ったり、ゲームをやったりした。手話で、「四季の歌」をよく歌った。サークルの人は、優しい会長をはじめとして、とてもいい人ばかりで、楽しく手話を学ぶことができた。大塚ろう学校で交流会もあった。
でも、腎臓病の事もあり、帰宅時間も遅くなることから辞めざるを得なくなった。その後、サークルの会長から立川で講習会が始まった事を教えてもらったが、
やはり夜の勉強は無理だった。
地元でやっと講習会が開かれるようになってから、初級の講座に通った。内容は、挨拶など簡単な手話だった。
それから20数年は、手話は休眠状態だった。でも、いつも手話のことは気になっていた。
腎臓病の方は、30年近くの保存期もついに終わることになった。後は、何時透析を導入するかの段階に入った。都内の病院に入院。シャントだけは作っておこうということで、手術を受けた。透析導入の方は、何時入っても良かったのだが、ここで最後の頑張りで、導入を遅らせた。最後の抵抗をしていたのである。
この入院中も手話の事を考えていた。夜、病室の窓ガラスに自分の手を映して、指文字の練習をしていた。透析の方は、無駄なあがきのせいで先送り。いったん退院することになった。
でも、程なく透析導入のため、2度目の入院と相成った。かばんを持って、病室に入ると妙な声を発する入院患者がいた。ろう者だと分かった。パジャマに着替えてから、錆びついた手話で、コンニチハと彼に挨拶した。これが、Nさんとの最初の出会いだった。まさに、おいらが透析という人生の転換点で会ったのだ。
おいらが、手話を学ぼうと思ったのは2度目の高校2年生の時。その頃には、政党の演説会などで、手話通訳が付くのを見かけるようになっていた。手話を学ぼうにも、今のように、地域に手話サークルはほとんど皆無で、やっと新聞でサークルを見つけた。自宅から遠かった。会場は、主に新宿四谷の周辺の公民館で、夜に活動していた。内容は、初めに手話の勉強があって、その後はろう者の問題を話し合ったり、ゲームをやったりした。手話で、「四季の歌」をよく歌った。サークルの人は、優しい会長をはじめとして、とてもいい人ばかりで、楽しく手話を学ぶことができた。大塚ろう学校で交流会もあった。
でも、腎臓病の事もあり、帰宅時間も遅くなることから辞めざるを得なくなった。その後、サークルの会長から立川で講習会が始まった事を教えてもらったが、
やはり夜の勉強は無理だった。
地元でやっと講習会が開かれるようになってから、初級の講座に通った。内容は、挨拶など簡単な手話だった。
それから20数年は、手話は休眠状態だった。でも、いつも手話のことは気になっていた。
腎臓病の方は、30年近くの保存期もついに終わることになった。後は、何時透析を導入するかの段階に入った。都内の病院に入院。シャントだけは作っておこうということで、手術を受けた。透析導入の方は、何時入っても良かったのだが、ここで最後の頑張りで、導入を遅らせた。最後の抵抗をしていたのである。
この入院中も手話の事を考えていた。夜、病室の窓ガラスに自分の手を映して、指文字の練習をしていた。透析の方は、無駄なあがきのせいで先送り。いったん退院することになった。
でも、程なく透析導入のため、2度目の入院と相成った。かばんを持って、病室に入ると妙な声を発する入院患者がいた。ろう者だと分かった。パジャマに着替えてから、錆びついた手話で、コンニチハと彼に挨拶した。これが、Nさんとの最初の出会いだった。まさに、おいらが透析という人生の転換点で会ったのだ。