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朝日新聞のコラム欄の「司馬史観」への疑問の言及

2010-04-07 00:22:13 | 歴史
 4月6日付の朝日新聞夕刊の「窓 論説委員室から」に「司馬史観への疑問」が載っていた。当ブログでも、何回か、司馬史観への問題点を書いている。

 NHKが、司馬遼太郎の、「坂の上の雲」の映像化を拒否する遺言ともいうべき意思に反して、敢えて、放送化したことが問題の始まりだった。

 書店に行っても、商売上からでもあるが、無批判に「坂の上の雲」を取り上げた本を多く見かける。作家の作品の上での考えだから、敢えて、批判することもないだろうという意見もあるが、NHKの放送等から、史実だと勘違いする人も少なくないものと思える。また、「あたらしい歴史教科書」の編纂にも、「司馬史観」は影響を与えている。こうした問題のある教科書などに見られるように、「司馬史観」を見過ごすわけにはいくまい。

 明るい明治と、日露戦争から坂を転げ落ちた果ての敗戦までの暗い昭和という対置は、あくまでも、史実ではない。

 コラムでは、名古屋大名誉教授の安川寿之輔氏の一連の研究を紹介している。

 たとえば、日清戦争、及び、今年100年目になる日韓併合も、「司馬史観」では、避けられない地政学上の出来事として描かれている。しかし、勝海舟は、日清戦争に反対し、足尾鉱毒事件という暗い明治に関わった田中正造との交流という動きもあった。選択肢としては、別の展開もあり得たのである。

 このコラムには、安川説の大事な概要が書かれていて参考になった。

 興味があったのは、明治をことさら明るく描く源流に、戦後の著名な政治学者の丸山真男があげられている事だ。福沢諭吉のアジア蔑視を無視して、健全なナショナリズムと評価し、昭和の超国家主義と対峙させている。

 僕自身、何故、丸山真男が、大学の講義でも高く評価されるのが長い間分からなかった。政治評論家も政治学者も、丸山氏を必要以上に持ちあげている。

 多分、その歪みに原因があるのかもしれない。戦争に対して、沈黙することしかできなかった、あるいは、協力した「文化人」は、自分たちの責任を正面から反省する事をしたのだろうか。丸山氏も、傍観者でしかありえなかった。それゆえ、戦争に反対した組織や個人を否定的に描いた。自分の立場の保身からかもしれない。「家父長制」などとの烙印を押すことで、彼らの立場を評価することがなかった。だから、戦後、そうした組織から離れた人々は、丸山の考えを高く評価した傾向がある。

 傍観者の負い目は、自分の立場の批判者となりうる組織や個人を否定する事につながったのではないか。そして、彼の考えに共鳴する学者や評論家も似たような傾向があったのではないのか。

 「司馬史観」の源流として理解することは、意味のある事のように思えた。

ミスで「つくる会教科書」発注 学校負担で別の本購入へ/気になるニュース

2009-11-26 23:27:49 | 歴史
ミスで「つくる会教科書」発注 学校負担で別の本購入へ(朝日新聞) - goo ニュース

 「司馬史観」と呼ばれるものが、自由主義史観研究会の藤岡信勝氏に「新しい歴史教科書」を作らせるきっかけになったという。しかし、司馬遼太郎氏は、昭和という時代を、明るい明治に対比し、暗い時代と評価している。昭和ひとけたから、敗戦後までの時代を、嫌悪している。異胎とまで言っている。しかし、新しい歴史教科書をつくる会は、昭和の戦争を大東亜戦争と未だに称し、肝心の司馬氏の嫌悪した軍部による昭和の時代を、防衛戦争として描く結果となっている。
 現憲法に関しても、「……押しつけとかいろいろ悪口をいう人もいますが、できた当時……自分が生きているあいだにこんなにいい憲法が出来るとは、思わなかった、と感じました。今でもその気持ちはかわっていません」と、憲法学者の樋口陽一氏との対談で述べていた。(『月刊Asahi』1990年3月号)。

 新しい歴史教科書をつくる会は、よく知られているように、内部分裂し、互いに批判しあい「扶桑社」と「自由社」による2冊の歴史「教科書」が編纂されるようになった。今年も、教科書採択ではほとんど採用されない状態が続いている。(しかし、一部の自治体首長による、同教科書を採択されようとする策動が強まっているので、油断はできない。開港博の責任も取らず、任期途中で辞めた前横浜市長中田氏のように、教育委員の任命から、教科書採択を目指した動きなどは、無視することはできない。教育現場や住民の意思を無視して、教育委員会だけで採択が出来るように進めてきた。彼と、志を同じくする首長たちの今後の動きにも警戒が必要である。今年は、こうした首長たちの策動の結果、わずかだが、両教科書の採用率が上がっている。)

 今回のニュースでは、東京三鷹市にある私立明星(みょうじょう)学園中学校で、ミスから、東京都教育委員会の専用サイトに、クリックミスから、自由社の教科書を採択したと報告してしまったとの報道がされた。

 本来、来年度以降の社会科歴史分野の教科書には、日本書籍新社版を7月に採択している。義務教育の教科書は、無償で児童・生徒に渡されるが、都教委での手続きが進んでいるため変更できず、同校は自費で教科書を購入するという。

 選択肢としては、無償の問題のある教科書を採用する道をあったのだが、リベラルな校風の明星学園では、費用を負担しても本来採択した教科書を使用する。

 同校の、河住貴夫教頭は「採択していない教科書を使うわけにはいかない。どのくらい費用がかかるか分からないが、学校として購入したい」と話した、と報じられている。

 自由社の教科書の採用がないことは、良いことであったが、手続き上で、有償で本来の教科書を購入しなくてはならないことは、気の毒なことである。

『多摩の古墳』特別展

2009-10-26 17:55:52 | 歴史
 昨日は、八王子市郷土資料館で開催中の特別展「多摩の古墳」を見学に行った。

八王子郷土資料館 平成21年度特別展「多摩の古墳」

 多摩地区では、多摩川流域に、下流域に有力首長の墓と考えられる古墳が作られ、時代が進むにつれ、上流域でも見られるようになる。6世紀前半には、府中市でも古墳が作られるようになるが、6世紀半ばになると一斉に作られなくなる。その後、6世紀後半になり、再び、多摩地区では古墳が多く作られるようになるが、その空白の時間の理由はよく分かっていない。

 八王子地区は、縄文時代からの住居跡などが少なくないが、何故か、古墳時代に作られた古墳が少ない。その点も、理由ははっきりとはしない。今回の展示では、多摩地区の古墳も合わせて紹介されている。

 八王子市内には、伝承等も含めて、12基の古墳が存在する。また、4か所の横穴墓群も存在するが、今回は古墳を合わせて紹介されている。

 なお、市内から発見されている周溝墓と古墳の関係については、まだ、評価が定まっていない。

 展示品も少ない小さな展示であるが、床に、実物大の石室の絵が貼り付けてあったり、色々と工夫がされている。

 なお、「タマ」の地名のついて、初めて文献資料に登場するのは、万葉集の「赤駒を山野に放し捕りかなにて多痲の横山徒歩ゆか遣らん」の歌の中の「多痲」だという。また、和名類聚抄の中には、国群名に「多摩」と記載されている。 
 そして、日本書紀の記事「武蔵国造の乱」をめぐる記載を、古墳群と検証する考古学の立場と、文献学の立場による年代や内容の真偽についても、地名の事と共に紹介されていたのは、興味深かった。





 なお、今回の展示に合わせて、「特別展 多摩の古墳」の小冊子が売られている。多摩地区の古墳についての詳しい解説が、図版を多用して書かれれている。値段も300円なので、お勧めである。



 今回、参考展示として、「仁徳天皇陵古墳石棺図」を見ることができる。国内では、2か所でしか確認できない資料で、色付きは、本館蔵のものだけだそうだ。2枚と1枚の貼り札からなる。
 明治5年9月7日に、大山古墳(伝仁徳天皇陵古墳)前方部の東南の一部が崩壊して、人ひとりが入れるほどの穴が開いたことがあり、その時に、中にあった石棺を図に書いたものである。なお、この石棺は、天皇ではなく、当時の最高首長と同格の人物が埋葬されたものと考えられているそうだ。最近、卑弥呼の墓かと話題の箸塚古墳同様、天皇陵の公開調査が望まれている。




知られざるもう一つの宗教弾圧/『>権力に抗った薩摩人 (南方ブックレット1)』

2009-10-10 00:27:00 | 歴史
権力に抗った薩摩人 (南方ブックレット1) (南方ブックレット 1)
芳 即正
南方新社

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 江戸時代のキリシタンに対する弾圧は、歴史上、広く知られている。しかし、薩摩藩による真宗弾圧と、それに抗った「かくれ念仏」の事は、あまり知られていないのではないか。僕自身、本書でその事実を知った。南九州の鹿児島県と宮崎県の一部に当たる地方で行われていた宗教弾圧と、それにもめげず、二百余年にもわたり信仰を守り通してきた人々に関する事実は、もっと歴史的にも、宗教的にも掘り起こされ、知られるべき事なのだろう。
 薩摩藩が、一向宗(浄土真宗の信者自身は使わない呼び名である)に対する宗教弾圧を何故始めるようになったかは、はっきりしたことは分からないという。しかし、著者による諸説に対する検討が行われている。

 弾圧の中では、天保の摘発は人口の四分の一、14万人にものぼった。この時の、弾圧の原因としては、薩摩では有名な家老調所笑左衛門による財政改革が指摘されている。薩摩藩内の信者からの西本願寺への相当額の金銭上納に対する取り締まりにあったようだ。薩摩藩による激しい弾圧・拷問の様子が紹介されているが、その残酷さには目を覆いたくなる。
 なお、鹿児島県は、一世帯あたりの切り花購入額が日本で最も高いといわれている。かくれキリシタンのマリア観音のように、様々の偽装が行われていた。柱を削り、そのくぼみに御本尊を隠したりした。しかし、そのような事は、藩の役人にすぐ知られることとなり、人々が堂々と念仏を唱えることが出来るのは、墓の前であった。先祖供養の形で信仰を続けた。鹿児島県人が墓を大事にする理由も、歴史の中に理由があった。

「坂の上の雲」放映を前に/司馬史観の危うさ・批判書を読む②

2009-10-03 01:06:20 | 歴史
異評 司馬遼太郎
岩倉 博
草の根出版会

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 「司馬史観」なるものが、自由主義史観につながってる危険性をどれほど、社会が認識しているか、本書もまた、緻密に検討作業を行っている。
 そもそも、歴史小説は歴史ではないので、作者の歴史観がはっきりと表れれる。藤沢周平や大岡昇平のように、歴史に翻弄される庶民に対するまなざしを持たない司馬遼太郎という著者の評価はうなずけるものである。一握りのエリートを除く大多数の民衆は愚かであり、相手にするに足りないし、関心もない司馬の冷たさ。
本書では、司馬作品の特徴として、天才主義、余談の多用、「明るい明治と暗い昭和」の二項対立史観、恣意的事実選択などをあげているが、最大の特徴として「昭和天皇に戦争責任がない」という天皇無答責論をあげている。この思いが、司馬をして昭和を描くことを不可能とさせた。
『坂の上の雲』における天才主義と恣意的事実選択を検討も詳細になされている。正岡子規、秋山好古、昌之兄弟に関する記述における事実の捻じ曲げも指摘している。明るい明治を描くために、「あえぐほどの重税、民権軽視、足尾鉱毒、女工哀史、小作争議」などは軽視した。そして、明るい明治を描くために、歴史からの恣意的事実選択を行い、歴史のねつ造も行っている。ただし、それはあくまでも、大衆を喜ばせる単なるエンターテイメントとしての読み物との理解の段階で済めば良いのだが、いつしか、「司馬史観」と称される歴史観としての誤解を招くことになる。そして、それに依拠する自由主義史観の歴史教科書も、教科書ではなく、ある意図を持った読み物に過ぎないのである。
 司馬は、日露戦争までは日本はまともだと考えたかった。昭和は、軍部による「狂い」の生じた時代であった。しかし、歴史をみれば、「狂い」は、日清、日露戦争においても既に生じていたのであった。
 「軍の狂い」と「国民の狂い」に関して、本書では、資料に基づいて検証している。統制のとれた理性的な軍隊(軍律厳しい日本の軍隊)という司馬によるフィクションは、この戦争の時の虐殺、略奪行為の存在により、打ち砕かれる。台湾の反乱軍に対する残虐行為も、司馬は無視する。彼にとっては、日清、日露戦争は、祖国防衛のための戦争であり、侵略戦争ではなかった。朝鮮も中国も劣った国ゆえ、日本によって近代化が導かれて当然という考えであった。

「坂の上の雲」放映を前に/司馬史観の危うさ・批判書を読む②

2009-09-22 00:37:37 | 歴史
司馬遼太郎をなぜ読むか
桂 英史
新書館

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 以前、教育テレビで山田風太郎について読み解く番組を放送したことがある。山田風太郎といえば、忍者もの、伝奇もので有名で、僕も、その面白さに引き込まれ、結構たくさんの作品を読んだ。ただ、明治時代を扱った開化ものは、内容が他のジャンルと作風で違っていたので読むことはしなかった。番組では、この開化ものに取り上げられた軍人が関わったある歴史的事実を、山田風太郎がどう描いたかを、同じ事件を描いた司馬遼太郎の文章と比較した。モデルとなった事件を、二人は全く違った視点で描いていた。司馬遼太郎が、かなりの作為で作品を自分流に描いていることがあぶりだされた。

 最近のテレビというメディアの放送の仕方は、「お茶の間劇場」と化している事は小泉政権誕生の時などで、指摘されているところである。民主党による政権交代が起こった時点でも、組閣前に、テレビ朝日では、国会に関するトリビアクイズと称して、朝の時間帯に、政治記者のうんちくを紹介しながら、議員食堂のメニューなど、どうでもいいことに時間を割いていた。組閣の前日と、当日には、民放各局では、番組を変更して、酒井法子とその夫の釈放を取り上げていた。登場した自動車は、ヘリコプターにより追跡放送された。ここまでするのか。
 こうしたメディアの動きを、本書の著者は、マルチメディア・イベントと呼んでいる。『メディアは、本来は、知のあり方を決める「かたち」である。「かたち」をはっきりさせることができるからこそ、マクルーハンがいうように「メディアはメッセージ」なのである。』しかし、マルチメディア・イベントは、国民に、個人を捨て去った共通の記憶を作り上げるものとなってしまった。これは、戦前の新聞・ラジオの果たした戦争への国民への幻想を植え付けた事と同じ作用をもたらしうる。
 著者は、司馬遼太郎という作家を、そうしたマスメディアの作り上げた「国民作家」ととらえている。司馬文学には、緻密な心理描写がないのは、作品の発表の場となった週刊誌の記事の書き方に合わせたからだと論じる。
 歴史学者の中村氏が取り上げたような「司馬史観」なる歴史上のセオリーなどはもともと存存在しているものではなく、それはマスメディアが作り上げたナショナリストとしての司馬遼太郎の作品に対するイメージであり、政財界の人間も含めた読者の勘違いであることを、我が国のメディアの歴史を検証する中で、明らかにしていく。
 たいそうに「司馬史観」たるものを保険とする自由主義史観のような乱暴なナショナリズムの術中にはまらないためにも、著者は「司馬史観」というものの不在を強調する。

 今、流行りのテレビゲームのような世界との指摘はなるほどと思える。「昭和特殊説」をとりたいために、明治時代の尊王攘夷の時代を理想化した司馬独自のいディ後しての理想世界を夢想しながらの作品。「いわゆる維新の志士たちは、総人口の5%程度の特権階級に属する人々のできごとである。その他95%の人々の生活は、むしろ知略を駆使するヒーローが活躍するゲームを阻害するものでしかない。ゲームを繰り広げるヒロイズムの描写を重視するあまり、戦争が題材に取られても、一般庶民や侵略される側、すなわち戦争でもっとも抑圧された人々が描かれることがないのだ。」彼の「脱亜入欧論」によれば、「日本は進んでいるが、他のアジア諸国はなかなか近代化がすすんでいない」から、日清・日露戦争も、歴史の偽造が行われ、例の朝鮮植民地化は、朝鮮に近代化をもたらしたものとの考えが当然視される。侵略者の論理が働き、侵略される方の感情など一切考慮されることはない。」 
 本書で著者が指摘する司馬メソッドは、「無思想」「一人称」「類型化」であるが、こうした内容の解明をはじめ、我が国のメディアの変質についても、かなり読みでのある本である。内容の検証については、専門外のことも多いので、全ての著者の考えに同調できるものではないが、批判書としては貴重な一冊である。

「坂の上の雲」放映を前に/司馬史観の危うさ・批判書を読む①

2009-09-12 01:37:06 | 歴史
近現代史をどう見るか-司馬史観を問う (岩波ブックレット (No.427))
中村 政則
岩波書店

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 NHKで、近々、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の放映があるという。司馬氏は、生前、この「坂の上の雲」のテレビ化、映画化を許可していない。何故、許可しなかったのか、また、何故遺族が許可をしたのかも、よくはわからない。ただ、内容に関しては、司馬史観の中でも特に問題とされるものなので、まずは、批判書を読んでから、番組を観ようと思っている。日本の台湾統治に関して、右翼からクレームが付いているNHKで、自由主義史観をとる二つに分解した「新しい歴史教科書とつくる会」の支持者が喜ぶような作品を制作することは何とも皮肉な話である。

 まずは、日本近現代史専攻の中村政則氏の「近現代史をどう見るか―司馬史観を問う」を読んでみた。

 『司馬氏の歴史観では、「明るい明治」と「暗い昭和」という歴史の把握をしている。本来、歴史は、多面的に解釈すべきものであるが、司馬氏はそのように単純化している。ということは、「明るい明治」を描くために、「暗い部分」を故意にか、切り捨てているのである。たとえば、日清戦争における旅順虐殺事件(外電は、非戦闘員・婦女子・幼児など数千人を殺害と報道)を無視して、日本兵士は「軍隊につきものの略奪事件を一件も起さなかった」と不正確な叙述をしていることなどである。日露戦争時の労働者・農民の苦しさなどにも触れないし、大逆事件などについても一、二行程度触れるだけである。他の作品に関する歴史叙述の歪みも本書では取り上げられている。

 こうした日本の近現代史を全体構造を的確につかむことのない司馬史観が、「自由主義史観」の藤岡信勝氏に与えた影響は大きく、本書でも、「自由主義史観」は、司馬史観の中の都合のよいところだけを取り出した「信奉史観」だと指摘している。
 ただし、司馬氏の「暗い昭和」の日本軍の統帥権への嫌悪は継承していないことが問題であるが。

 本書では、日露戦争と朝鮮の植民地化との関連についても言及している。司馬史観では、この不可分の関係を深刻に考えていないと指摘している。

 歴史を一面的にしかみない作品が、明治をいう時代を明るい時代と描く事のみになるかは、まずは、拝見ということか。

 本書は、特異な歴史観から無視された大正デモクラシーの時代の意義についても言及している。

 

追記・仏教の女性差別に関して/『破戒と男色の仏教史 (平凡社新書)』

2009-09-02 02:32:20 | 歴史
破戒と男色の仏教史 (平凡社新書)
松尾 剛次
平凡社

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 本書で、仏教における女性差別に関する歴史もうかがうことができた。
仏伝に依っても、仏陀は養母マハー・パジャパティの出家をなかなか許そうとせず、弟子のアーナンダの取りなしによって、やっと許されたとある。その際に、差別的な条件が出された。八敬法(はっきゅうほう)である。

 我が国に、国立戒壇ができてからも、女性の比丘尼に対する受戒は行われることがなかった。一人前の尼になれなかったのである。藤原氏がその権勢で、道長の娘彰子のために尼戒壇がつくられたのは、あくまでも例外であった。
 比丘尼の前段階の雛尼になるについても、男性と比べて戒律の数が多かった。

 仏教における女人五障説から女性のままでは成仏できないとされていた。死に際して、男となって成仏するとの転女成仏説が一般だった。あるいは、変成男子の考えが。

 戒律復興運動を展開した叡尊らにより、鎌倉時代になって初めて奈良の法華寺に尼戒壇が樹立されたのである。

 なお、日蓮に関しては、女人五障説の立場ではなく、女人成仏の考え、つまりは、南無妙法蓮華経を唱えれば女身のままで成仏できると説いたのは注目に値する。
 禅宗でも、道元は出家して座禅修行すれば、女性でも成仏できると説いている。

 仏教史における女性差別の問題も避けては通れぬ問題である。

 本書において、こうした視点からの言及があることは意義深い。

※ 五障説 
 女性はどんなに精進しても、仏、転輪聖王、帝釈天、魔王、梵天の五つの地位に就けないとする説で、女性の成仏を否定した。

破壊からの正反対の2つのベクトル/『破戒と男色の仏教史 (平凡社新書)』

2009-09-01 01:53:45 | 歴史
破戒と男色の仏教史 (平凡社新書)
松尾 剛次
平凡社

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 日本史の文学や芸術史を観ていくと、同性愛に関する表現に多く出会う事になる。「稚児之草紙」や本書でも取り上げられている「春日権現験記絵」などの絵巻物。後者は、今回、国立博物館で展示される。その中には、僧侶と床を共にする女性のような髪型や服装をしている稚児が描かれている。謡曲でも、「松虫」のような作品のほかに、先日拝見した「大江山」でも、前シテの酒吞童子が童子の姿をしているのも、延暦寺での男色関係を踏まえてのものである。貴族の間にもそうした関係が存在した。戦国武将の間でも、男色関係は珍しくなく、武田信玄も男色相手に恋文を書いているのである。江戸時代の若衆歌舞伎は、身体を売ることもあったし、陰間茶屋なるものもあった。こうした風習の源流は、日本の仏教の破戒に源を発した。

 天平時代に、我が国に鑑真を招聘したのは、国立の戒壇を作るためであった。戒壇で、一人前の僧侶、比丘と認められるためには、それを認証する資格のある高僧が必要だったのである。それ以前は、戒壇で受戒を執り行う僧侶が国内に存在せず、中国に留学したとしても、一人前の僧としては扱われなかったのである。国立皆伝での、受戒制で、僧侶は国家公務員たる官僧となった。受戒とは、守るべき戒を授けることである。東大寺等の国立戒壇では、小乗系の「四分律」の戒を10人の有資格の僧から受ける必要があった。
 戒の中には、不淫戒(異性はもちろん同性や動物との故意の性交を禁止)・不盗戒・不殺戒・不妄語戒(我は悟ったと大言壮語すること)の四戒が含まれたが、これらは懺悔しても許されることがなく、僧団追放処分とされることになっていた。
 最澄は、四分律ではなく、「梵網経」に基づく十重四十八軽戒による大乗戒壇(延暦寺戒壇)の樹立を朝廷に訴えたが、旧来の仏教寺院の反対が強く、樹立が認められたのは、死後7日目であった。大乗戒壇でも、違いがあるものの、不殺生戒・不淫戒・食肉の禁止等が含まれていた。

 しかし、こうした戒律も時と共に形骸化し、いつ受戒したかという戒籠の方が問題視されるようになった。いわば、僧侶の年功序列化というのであろう。

 真弟子なる言葉があるが、これは父親が僧侶である弟子のことである。つまりは、女犯が行われていたことを示す言葉である。男色関係もごく一般的であった。資料としては、東大寺の別当にまでもなった宗性の宗性の仏に対する誓いの文書である1238年11月2日付の五箇条記請の文が残されている。その中には、「二、現在まで、九十五人である。男を犯すこと、百人以上は、淫欲を犯すべきでないこと」「三、亀王丸以外に、愛童をつくらないこと」「四、自房中に上童を奥べきでないこと」などの誓いが書かれている。生年三十六の時とされている。

 飲酒も行われていた。今、別の山岳宗教の本を読んでいるが、やはり、修行者の修業の形骸化が見られる。「延年」は、飲酒を伴った慰労会のようなものだし、修行上の年数を水増しするために、生年月日の偽造まで行われている。

 こうした一般化した破壊行為に対しては、戒律復興運動が鎌倉時代を中心に起こった。叡尊・忍性らの運動であった。いわば、仏教界の宗教改革運動であり、釈迦の時代への復帰運動という理念の下に行われた。官僧の身分では、衆生救済の事業は制限があってできなかった。現代の仏教が、葬式仏教と揶揄されることがあるが、実は、官僧の身分では、死に触れることは穢れにつながることであった。死人の弔いや、また、当時のハンセン病患者の救済などはできなかった。そのため、戒律復興運動を展開した彼等は、官僧の身分からの離脱を意味する二重出家たる「遁世」「隠遁」を行なった。その点では、民衆の救済のために本来の戒律を破っているのである。菩薩行としての読み変えであろう。また、行基らに倣い、公共事業も行っているのである。

 こうした動きに対する反対方向に働いたのが、親鸞の「無戒」宣言に基づく動きであった。妻帯も認めるのは、末法の世の中故というが、おそらくは、鎌倉新仏教の開祖たちも、比叡山での若き日の修業中には、高僧の男色相手になっていた可能性が高く、寺院内での女犯・飲酒などの破戒行為を嫌というほど観てきたのであろう。

 今まで、仏教史においては、僧侶の「身体論」は取り上げられてこなかった。

 著者は、現代の仏教界での戒律復興運動を期待しているようである。確かに、世界の仏教界からみれば、日本仏教は仏教にあらずとみられている。戒律に対する態度からである。しかし、新たな戒律復興運動はおそらくは不可能であろう。親鸞の思想が働いていくのだろう。

 なお、俗世では、同性愛をはじめ、LGBTはもはや精神病の範疇からは外れている。

NHKに対する攻撃が続く/危険な一歩にならないために/気になるニュース

2009-06-26 11:16:51 | 歴史
NHK番組で8千人が提訴 台湾支配報道は「捏造」(共同通信) - goo ニュース

台湾統治巡る番組「偏向」 8389人、NHKを提訴(朝日新聞) - goo ニュース

 こうした攻撃に、政治家も影響を与えている。2001年のETV特集『問われる戦時性暴力』の時にも、右翼がNHKの建物に乱入した。安部晋三管法副長官(当時)に、NHKの放送総局長と国会対策局長が訪れ、事前の番組説明をした後に、番組の内容が大幅に書き換えられるという事件が起こった。
 今回、安部氏は自分のメールマガジンで、『NHKスペシャル「シリーズJAPAN」に異議あり( 2009年6月3日)』として、攻撃をしている。その中で、「この番組のあまりのひどさに2週に渡って1000名以上の市民が渋谷のNHK放送センターを取り囲みましたが、NHKはもちろんマスコミは沈黙しています。談合でもあったのでしょうか。憲法改正反対なら30人の集合でも報道するのに。」と嘆いているポーズをとっている。そして「国民の代表である議員が立ち上がるべきです。」と言及、実際にNHKを攻撃する国会議員の会が立ち上がり、当然、安部氏も入っている。

 メルマガに出てくる、抗議する市民というのは、ネット右翼が好んで使う用語ならプロ市民、右翼のプロ市民なのだろう。

 マスコミが沈黙といっているが、今回も、産経新聞が重要な役割を果たすだろう。
この特異な新聞の最近の報道は次のごとく。

NHKを8400人集団提訴 責務見失う公共放送(産経新聞) - goo ニュース

NHK集団提訴 「日台戦争」「人間動物園」負の側面、強調(産経新聞) - goo ニュース

 今回の提訴は、産経新聞を広報誌に、右翼と、ネット上で集まったネット右翼、そして「せいじか」の連合体が結成された動きを示すものなのかもしれない。 

 しっかりと、見張っていく必要がある。この国の言論の自由が暴力によって壊されないように。

 なお、NHKの見解は、下をクリックしてください。

NHKの番組に関する見解

縄文の合掌、ビーナス、八頭身土偶そろって今週英国デビュー

2009-05-24 22:55:21 | 歴史

日本の八頭身美人ら、今秋英国デビュー
(時事通信) 5月24日(日) 14時56分

八頭身、ビーナス、合掌ー。形に応じてさまざまな愛称が付いた日本各地の土偶が9~11月、ロンドンの大英博物館で展示される。写真左から青森県八戸市、長野県茅野市、山形県舟形町で出土した(文化庁など提供)【時事通信社】

八頭身、ビーナス、合掌…=土偶が勢ぞろい-大英博物館で展覧会・文化庁(時事通信) - goo ニュース

 この魅力的な原始のアート。今の日本人と縄文人のつながりは、よくは理解していないが、こうした作品を生み出した縄文人のイマジネーションがすごいと思う。

 下の写真は、おいらが群馬県の物産として求めたレプリカ。


 なお、この大英博物館での公開を機会に、日本でも公開を予定しているという。その折は、是非観に行きたい。

国立療養所多磨全生園と国立ハンセン病史料館見学

2009-05-15 23:34:39 | 歴史
 ネットの世界での、ネット右翼や右翼の宣伝行為には、辟易していた。ナチスの宣伝戦略、「嘘も百回言えば本当になる」の精神よろしく、彼らの言説は、決して少なくない影響を与えている。gooをはじめとしたブログを訪問すると、そうした言説の影響を受けたものに出くわすこともあり、ひどい時は、読んでいて気分が悪くなる。近隣諸国、在日外国人、障害者、病人などに対する非難・攻撃など、こうした記事を書く人の気持ちが知れない。最近も、この手の記述を前にして、気分が落ち込んでいた中、今日、サークルで国立療養所多磨全生園と国立ハンセン病史料館を見学した。

 ハンセン病については、『チョコラ!』の小林茂監督の著書『ぼくたちは生きているのだ』(岩波ジュニア新書)で、監督のハンセン病の人達の出会いの記事で、基本的なことを知ることができた。監督が訪れたのは、邑久光明園。施設のある島と、本土との間にまだ橋がかかっていなかった頃の話だ。そこには、ハンセン病の簡単な解説が載っていた。

 最初に見学した国立ハンセン病資料館に「小学生のためのハンセン病の知識」という説明書が置いてあった。それを参考にすると、「ハンセン病は、1873年にノルウェーのハンセン博士が発見したらい菌の感染によって、皮膚と主に皮膚や筋肉に張り巡らされた末梢神経がおかされる病気である。らい菌の毒力はごく弱く、うつっても発病することはほとんどない。現在は、よく効く薬があるので完治する病気になった。しかし、昔は、らいとからい病と呼ばれ、特効薬もなく、顔や手足などに目立つほどの跡を残すこともあったため、恐ろしい伝染病のように思われて、らい予防法という法律で強制的に療養所の中に一生閉じ込められてきた。うつりにくいし、発病もしにくく、たとえ発病しても完治するようになったうえに、人間として生きる権利を踏みにじるようならい予防法は、もともと必要なかったことも明らかとなって、ようやく1996年に廃止された。しかし、まだ、悪い恐ろしい病気だという偏見が一部に残っており、患者さんや家族を今も苦しめているから、誰もがハンセン病について正しい知識を持たなければならない。」

 ハンセン病患者に対する人権無視は、明治時代の日清・日露戦争後の、世界の一流国入りを目指した国家による、ハンセン病者撲滅という「犯罪行為」であった。患者から、人間性と人生を全て奪った。この「犯罪行為」は、当然、日本の植民地であった台湾・朝鮮でも行われ、患者に過酷な仕打ちを行ってきた。戦後も、保守政治の下、旧態依然のハンセン病対策が長い間継続した。

 資料館の展示は、そうした国家と、偏見をもった国民による「犯罪行為」をあぶりだす。これが、日本民族の優位性を説いた国家の影の姿。国家主義の悪しき姿。療養所には、多くの子どもたちも収容されて、労働に就いていた。

 映像によるハンセン病についての解説と歴史を観た。以前にハンセン病患者の宿泊を断った宿泊施設のことも触れられた。その時は、新聞などにも報道されたが、一部の国民から、患者側に対して、非難や中傷の手紙が多く届いたそうだ。今の、ネット攻撃を彷彿とさせた。国民に、未だ、偏見が残っていることを示した。しかし、当然、患者を励ます声を多数寄せられた。日本もまだ、末期症状までには至っていあなかった。
 その後に、語り部による話を聴いた。最近までも、悲劇は続いている。その中で、年々少なくなる患者がいずれいなくなっても、この国が患者に行ってきたことと、患者の人間性回復の運動の跡を、園内の多くの緑と共に残す「人権の森」構想の話をされた。宮崎駿監督もこの運動に賛同して協力をしている。「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」にも、ハンセン病患者が登場しているという。

 この構想の下、園内にあった山吹寮(男子独身寮)が復元されている。今後も、歴史的にも価値のある史跡構造物を保持し、ハンセン病の歴史を残す計画である。



 資料館見学の後は、全生園の中を散策してみた。園内には、案内板が各所におかれていた。本来は、安静が必要だった患者には、重労働が課せられた。命をすり減らしながら、雑木林を切り拓いて農地に変えた。その時に掘り起こした木の根を1か所に集め、さらにその上に、逃亡防止のために掘られた堀の残土を、患者たちは望郷の念に駆られながら積み上げ、1925年に築山を完成させた。この山に登って、故郷を思った。今は、復元された望郷の丘に、案内板の解説を読んでから登ってみた。


 復元された山吹寮にあった作業用のリヤカー。重労働を語る遺物である。

 先日は、ハンセン病市民学会が開かれたそうだ。こうした記憶を決して忘れないこと、101回の嘘をつかれても騙されないこと、私達に課せられた課題である。

弥生時代の人面帽子が初めて出土する

2009-05-15 21:19:44 | 歴史

弥生の「かぶりもの」見つかる=岡山
(時事通信) 5月14日(木) 15時20分

総社市教育委員会は14日、弥生時代前期(紀元前3世紀ごろ)の上原遺跡から、かぶりものの形をした人面土製品が出土したと発表した。祭祀に使われた可能性があり、当時の習俗を知る上で貴重な史料だという【時事通信社】

弥生のヘルメット 人頭かたどった土製品 岡山・総社(朝日新聞) - goo ニュース

弥生時代に人面「帽子」=全国初、農耕祭祀に使用か-岡山・総社(時事通信) - goo ニュース

 文字以前の時代を知るには、土の中から遺物を発掘する考古学の成果が有効である。まだまだ、日本各地には、出土されるこのなく、眠っている遺物がたくさんあるのだろう。

 今回、岡山県総社市の教育委員会が14日発表した内容は、とても興味深い内容であった。総社市上原にある上原(かんばら)遺跡(紀元前3世紀頃、弥生時代前科)から、かぶりものの形をした人面土製品が出土したのだ。弥生時代のかぶりものの発見は全国初で、この「帽子」をかぶって、宗教上の行為が行われていたと推測される。人の頭部を表現した造形で、まゆ毛や鼻があり、頭頂部には鳥の冠羽を模した羽飾りが付いており、祭祀用につくられたものだろう。発掘調査にあたった同市教委文化財係の松尾洋平さんによれば、鳥は豊穣をもたらすものと神聖視されており、弥生時代の遺跡からは、同じような羽飾りをつけた人面付き土器や鳥の装束を着た祭司を描いた絵画土器が複数発見されているという。

 弥生時代に、この帽子をかぶり、豊穣を祈っていたのだろう。古事記以前の世界。
この「人面帽子」は、来月の4日まで、同市庁舎の玄関に展示されているという。この歴史的に貴重な史料は、同市近辺の人しか見られないのが残念である。

世界最古のビーナス像発見

2009-05-14 21:03:26 | 歴史

世界最古、3万5000年前のビーナス
(時事通信) 5月14日(木) 9時21分

ドイツ南西部のホーレ・フェルス洞窟(どうくつ)で発見された、3万5000年前に彫られたとみられるビーナス像(独テュービンゲン大学提供)。マンモスの牙で作られており、高さ約6センチ。大きな胸などが特徴【AFP=時事】

3万5千年前のビーナス像…クロマニョン人のペンダントか(読売新聞) - goo ニュース

世界最古のビーナス像発見 3万5千年前、牙に彫刻(共同通信) - goo ニュース

 原始時代のビーナス像は、これまでも色々と紹介されてきたが、今回発見されたのは、少なくとも3万5千年以上も前のもので、これまで最古のものとされていたものより5千年さかのぼるという。ふくよかというか、強調された乳房が特徴だ。やはり、豊穣を祈ったものなのだろうか。当時は、女性が今の世の中と比べて差別されるようなことはなかったのだろう。

 ドイツ南西部にあるホーレ・フェルス洞窟には、4万年位前にアフリカからヨーロッパに移動してきて、ドナウ川沿いに進出した現代人の祖先が住み着いたらしい。
頭が非常に小さいのは、身体に比べて顔を重視しなかったのかなどと思ってしまう。首の所にひもを通してネックレスにしていたらしい。一体、どんな人間が身につけていたのだろうか。原始、女性は太陽であった、なんて。

「合掌土偶」国宝指定へ

2009-03-23 10:02:17 | 歴史

「合掌土偶」国宝指定へ
(時事通信) 3月19日(木) 15時57分

文化審議会は19日、縄文時代後期の住居跡から見つかった合掌した形の土偶(写真、文化庁提供)を国宝に指定するよう答申した。高さ約20センチ。約3500年前のものとみられ、1989年に青森県八戸市内で出土【時事通信社】

蕪村「夜色楼台図」・縄文「合掌土偶」を国宝に…文化審答申(読売新聞) - goo ニュース

 なんてすごいものを縄文時代の人が作ったのかと驚いた。縄文時代は、今までに思っていた以上に、文化が進んでいたのだろう。この土偶の造形性は、現代のアート作品といっても問題がないくらいのものだろう。合掌して何をか思わん。