トッペイのみんなちがってみんないい

透析しながら考えた事、感じた事。内部障害者として、色々な障害者,マイノリティの人とお互いに情報発信したい。

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無常観を感じされる二つの作品 その2

2010-05-27 01:40:32 | 演劇・舞台
 最近は、しばらく遠ざかっていた劇場に再び足を運ぶことが多くなった。人生の秋を感じるようになったからだろう。

 4月14日に、文学座の「わが町」の公演に行ってきた。ソーントン・ワイルダーの作品で、森本薫の訳によるものであった。この作品は、翻案されたり、一部が上演されることが、今までもあった。実際、同時期に、別の劇団が上演している。訳者も違うので、当然、演出方法も違うのだろう。僕も、高校生の時に、この作品の上演を演劇教室で見た記憶がある。特別な舞台装置のない上演で、その当時のアメリカの衣装をつけた女性が傘をさして登場した場面しか記憶にない。

 初演は1923年だったのだろうか。演劇の古典といってもいいのかもしれない。ワイルダーの上演方法も、幕が無く、舞台装置がないという、当時としては、斬新な手法を用いたという。現代では、そうした上演方法も珍しくは無いのであるが。

 物語は、ニューハンプシャー州にある小さな町グローヴァーズ・コーナーズという、ごく平凡などこにでもあるような町の、ごく普通の人々の生活を、時間を追って描いている。おそらくは、架空の町であろう。エミリとジョージは、お隣同士。両親も、町の人々も、身近な付き合いをしている。平凡な住人達といっていいのだろう。しかし、表面だけを見ても分からない深層部をそれぞれの人々は持って生きている。それも、今を生きる私たちも同様な事である。子どもだった二人も、高校卒業を間近に、愛し合い、若すぎるともいう年齢で結婚に至る。町に人々の祝福の結婚式の場面は、歌を踊りの入った明るい演出であった。小さな町の、大きなイベントであった。

 狂言回しの作者の分身ともいえる男が、物語を進行させていく。彼は、過去を振り返るように、時の流れと共に、町の人々の様子を説明していく。彼には、未来が当然のように見えるが、登場する町の人々は、時間の流れに沿ってしか行動しないし、未来を知ることは当然出来ない。その時間、その空間を、他の人々との関係性を持って生きていく。

 今回の上演では、第3部が重要な意味を持った。雨の墓場、そこには、使者たちがたたずんでいる。ジョージの母親も、エミリの弟もそこにはいた。アメリカ人の感覚として、そうした描き方は普通でないように思えた。キリスト教では、最後の審判の日まで眠りに就く訳だし、天国を信じている限り、墓場に思いが残っているというのも、不思議な感覚である。狂言回しの男によれば、時と共に、肉体が朽ち、記憶を浄化されて魂の存在と化すという。死者たちは、墓場で、静かに生きている町の人々を見つめ続けている。
 そこへ、傘をさした葬儀の一団がやってくる。誰の死だったのだろうか。たたずむ死者たちの下に、エミリがやってきた。エミリは、過去に戻りたかった。もう一度、人生をやり直したかった。他の死者たちは、止めるように忠告した。しかし、エミリは過去へと旅立つ。そこでは、その時代のエミリを演じるしか他なかった。自分では、それから先に何が起こるのか分かっているのだが、その時に生きた姿と同じことをしなくてはならかなかった。
 よく、もう一度人生をやり直せたら、あなたは何をするかという設問を立てることがある。確かに、自分の未来がわかるのならば、あらたに未来に作り替えることができるかもしれない。しかし、そうだとしても、果たして、変えることができるのであろうか。人生は、悲しいことと楽しいこと、不幸な事と幸いな事が連鎖している。その流れの一つでも変えれば、その後の楽しいこと、幸福な事も消え去ってしまう。
 エミリの苦しみは、同じ体験を繰り返すことしか許されていなかったこと。だから、再び、丘の上の墓場の死者たちの中に帰ってきた。
 彼らは、死して後、生きていることがどんなに素晴らしいことであったかを知ることになるのだ。生きている時に、普通の人が普通に暮らすことがどんなに意味のあることであるのかを。生きている我々は、生きている間、この世界がどんなに素晴らしく美しい所かということに気付いてないらしい。

 絵本「百年の家」と演劇「わが町」は、どちらもアメリカ人が書いた作品であったが、我々日本人が見た場合、そこに無常観を感じざるを得ないのだ。そして、これらの作者も又、西洋文明に中に行きながら、無常観のようなものを感じていたのではないかと思うのである。

 そう言えば、両方の作品の女性の葬儀の日は、どちらも雨が降っており、葬儀の参列者たちが傘をさしていたのは、偶然の一致なのだろうか。

 死者たちが、肉体が朽ちても、その残された記憶からこの世を見る視点、また、すっかり破壊に向かった百年の家が、重いだけはその場に残って今の家の建った場所を見ているという視点が、無常観を感じさせるのである。

珍しいキノコ舞踊団八王子公演、なんて人間の身体は素晴らしいんでしょう

2010-03-13 23:40:07 | 演劇・舞台
 今日は、お馴染みのいちょうホールで、珍しいキノコ舞踊団が公演があった。
生憎と透析日、しかし、半分の希望を持って、朝の透析に臨んだ。開始は、10時12分。うーん、間に合うかどうか、微妙な時間。かくて、4時間の透析が始まった。今日は、時間との戦いと思いつつ、患者同士の会話、昼食、DVD「冒険者」観賞、いよいよ透析終了。止血を今か今かと待つ。血圧を測って、帰り支度が2時半。跳んで行こうと思ったら、腕の裏の方のシャントの穴から出血。こんな時に何故?再び、指で上から抑える。直ぐに出血は止まる。トイレに行き、ロッカーで慌てて着替え。時間は、2時40分頃。さあ、間に合うか。クリニックから、図書館にもよらずに、一路、いちょうホールへと駆けたり、早歩きしたり。
 執念で2時52分頃、ホールに到着。当日券を買って、急ぎ、観客席に。前から2列目の真ん中に席あり。ホッとする。気温が高かったので、汗が噴き出た。かくて、無事に公演を観ることになる。

 面白い名前の舞踊団である。現代ダンス、僕の専門外。クラシックバレーは、去年は、この大ホールで、地元のバレー団「シャンブルウエスト」のくるみ割り人形を暮れに観賞した。一昨年は、同じバレー団の公演で、コンテンポラリーダンスも観ている。モダンダンスとの違い、よく分かりません。

 舞台が狭いのか、演出上の都合か、張り出し舞台になっていた。不謹慎だが、ストリップ劇場を思い出す。
 舞台上手に、白い風船の樹のような集合体が立っている。

 3人のダンサー登場。ダンスを理解しない僕は、素直に観ることに決めた。

 人間の身体表現を楽しむ。身体と対話。ユーモラスが動きと優雅な動き。

 舞踏のような表現も観られた。

 マイクの登場には、驚いた。マイクのスタンドと使ってのパフォーマンス。何と、歌い出した。主婦の平凡な、何の変化もないような一日を、朝の目覚めから夜の訪れまで、歌い出す。日常を描くのだが、時折、その裂け目から、何かが見えてくるようだ。箱と小道具を使ったコント風のセリフ劇もあり。日常だが、何たる悪意も垣間見ることができることよ。

 結局、人体が見せる様々な表現を堪能出来た。美しくも、可笑しくも、不思議な動き。ダンサーの身体のよく動くことよ。

 そう、公演の題名は、「あなたが『バレる』と言ったから」

 最初の公演の時は、6人のダンサーだったという。公演を重ねていくうちに、ダンスの形も変わるという。今回の八王子公演も、そういう意味でも、1回性のもの。だから、舞台を観るのを止められない。

 観客の雰囲気も、微妙に舞台のパフォーマンスを変化させうるのだから。

 モダンダンスもいいものだと思った。

 透析後、慌てふためきながらの会場への道行き、これも僕のあきれたパフォーマンス。


 ☆2010年3月13日㈯ いちょうホール(小ホール)

 珍しいキノコ舞踊団公演 あなたが『バレる』と言ったから

 構成・振付・演出:伊藤千枝
 出演:山田郷美 篠崎芽美 伊藤千枝

ふれあいこともまつり(いちょうホール・八王子市)/『はこ/BOXES じいちゃんのオルゴール♪』

2010-03-09 01:42:19 | 演劇・舞台
 3月7日㈰ 念願のデフ・パペット・シアター・ひとみの舞台を観る。
劇団の名前のひとみに関しては、前から、命名の理由が疑問だった。子ども時代、夕方になると必ず観ていたNHKで放送していた人形劇「ひょっこりひょうたん島」の人形製作と操作が「人形劇団ひとみ座」よるもので、その劇団の名前との関係が知りたかったのだ。結局、デフ・パペット・シアター・ひとみがひとみ座を母体に1980年に設立されたことを知って納得した。また、この劇団の「目で見て楽しめる舞台を」との趣旨も名前の中の「ひとみ」に込められているそうだ。

 現在は、20代から60代の団員8名のうち、2人がろう者である。

 代表の善岡修さん(34)は、手話サークルに宣伝に来てくれたそうだが、生憎とその日は、僕はサークルを欠席していたので、話を聞けなくて残念であった。舞台当日は、耳の日フェスティバルと重なったために、サークルからの参加者が少なかった。

 デフ・パペット・シアター・ひとみの公演は、日本ろう者劇団との共演「真夏の夜の夢」を、以前にHNK教育テレビで見た事があるが、実演は初めてで、ふれあいこどもまつりのチラシで公演の事を知ってから、さっそっくチケットを買い求めて、楽しみに待っていた。

 今回の作品『はこ/BOXES じいちゃんのオルゴール♪』は、箱がたくさん出てきて大活躍する。箱が、色々なものを表現する。この舞台では、電気製品などに変身するのだが、その造形が面白かった。また、箱の中から、登場人物のある3世代の家庭の家族や、彼らに関係するものが登場したりして、上手い使い方に驚いた。また、観客の中の聴覚障害者のためにも、楽器の生演奏の時には、その音楽を、今回の劇の場合は、箱の動きや色で、視覚的に表現した。もちろん、箱自体も、叩くことによって、立派な打楽器と化している。

 物語は、戦前、少年が幼馴染の少女に恋をしますが、気持ちがいたずらという行為になってしまったり、その不器用ともいえるプロポーズの連続も、終戦になってやっと実ったものでした。その間、戦争に召集されます。戦争の愚かしさは、人形だから出来る動きを使って、箱も大活躍で、戯画化して描かれていました。
 やがて、二人の間には娘が生まれます。そして、時代も電化の時代を迎えます。次から次へ登場する電気製品や、機械のせいで、暮らしは便利になっていきますが、人と人との間の心の結びつきもだんだんと疎遠なものになってしまいます。でも、まだ、3人の家庭には、夫婦・親子の結びつきは強かった。
 娘は成長し、会社員の男性と結婚をしますが、間もなく、父親が、文明の利器である自動車事故でこの世を去ってしまいます。
 時は流れ、いよいよ生活は新たな技術の開発で便利になっていきますが、母親となった娘は、テレビに夢中、夫は、会社で仕事に追われています。彼らの間に生まれた息子も、テレビゲームに夢中で、この家庭にも、それぞれの気持ちがばらばらな状態が続きます。自分たちの周りに壁を作って。
 そんな時、おばあちゃんが、おじいちゃんが残してくれたオルゴールの箱を取り出しました。おじいちゃんがおばあちゃんにプレゼントした思い出のオルゴールから、懐かしいメロディーが流れてきます。それぞれの家族の胸に沁み込むメロディーが。家族の心に再び、あの懐かしい、温かい気持ちがよみがえってきます。

 劇団の25周年に作られた作品です。セリフのない劇、人形とパントマイムする人間が、舞台で掛け合う世界。

 会場には、知的障害児・者の仲間の姿もたくさん見えました。誰でも、楽しめる劇団を続けていってほしいものです。

デフ・パペット・シアター・ひとみ HP

ふれあいこどもまつり(いちょうホール・八王子市)/『ねこはしる』

2010-03-07 22:53:47 | 演劇・舞台
 平成22年度の「ふれあい こどもまつり」、楽しかったです。すぐれた児童向けの作品は、大人の鑑賞にも耐えるものです。
 児童文化に興味があるので、観客として参加しました。今回は、午前中からの観劇等で、3作品を観ることが出来ました。

 最後に観たのが、アートインAsibinaの演劇作品『ねこはしる』でした。

 三人の役者による上演。楽器は、オカリナ、ウクレレ、そして、重要な役回りをするとても変わった楽器ストリングラフィーでした。ストリングラフィーは、考案者であり、演奏家である水嶋一江さんの事は、新聞の記事でみたことがあり、いつかは、その音色と演奏を聴きたいと思っていました。今回の上演では、水嶋さんの指導の下、役者が演奏をしました。はじく音、こする音、それぞれに不思議な音がして、劇の中の重要な表現を担っていました。また、大道具のように、立派な登場人物のような存在でもありました。

 物語は、命の賛歌のように思えました。でも、この世界に生きている者は、他の命を食べることによって、生きているし、生かされているという、とても重いテーマを扱ったものでした。その大切なつながりを、原作の工藤直子さんが詩のごとく描いた世界を、劇の中で、役者が楽器とともに、命の喜びと悲しさを、身体を使って表現していきました。

 雪国の山あいの小さな村で、まだ雪がところどころに残る早春に、猫らしくない子猫が産まれました。内気でのろまな黒猫のランは、他のきょうだいの猫のようには、走ることも、跳ぶことも、高い所から宙返りをして落ちることも出来ませんでした。そんなランが、小さな池に住む魚と友達になります。本当だったら、友達になることなんて無理なんですが。二人は、それぞれ、心を通じ合わせ、季節は、夏、秋とめぐっていきます。その間に、二人は、励まし合い、たくましく成長していきます。気が付かないうちに、ランもたくましい若者へと成長したのでした。
 しかし、彼らの関係に大きな影が差すことになります。きょうだい猫達が、池の魚の事を見つけてしまったのです。母猫は、猫の修行の締めくくりとして、子猫たちに、次の満月の日に、魚とり競争をさせることになります。

 ランと魚は、この運命をどう受け止めたらいいのでしょうか。物思いにふける二人。そして、魚は、決意します。おれ、ランに食べられてもいいんだと。どうせ食べられるなら、ランに食べられ、ランの身体と心と一体になるんだと。だから、お互いに、当日は真剣勝負をしようと。

 そして満月の夜。他のきょうだい猫たちは、魚の頑張りの前に、狩りに成功することができませんでした。そして、ついにランの番がやってきました。

 ランは、池の周囲を走ります。だんだんと速度を上げて。ついには、姿が見えないくらいの速さで、何万回と池を回ります。やがて、池の水が波立ち始めます。それをみて、ランは、次第に、走る輪を小さくしていきます。やがて、小さな竜巻に水は吸い上げられ、その一番上に傷だらけの魚がいるのでした。二人の目があった時、二人の心は通じ合ったようです。ランは飛び上がりました。母猫やきょうだい猫には、初めてみるランの姿でした。

 ランは、魚と一体になると、どこまでも、どこまでも、野原を走っていきました。

 生きるために、わたしたち人間も、他の生き物の命を食べています。

 このお話では、大地や虫、動物、植物が、ランと魚の事を、自分たちの言葉で語っていきます。
 全ての存在に、精霊(スピリット)が宿っているようです。役者たちは、三人だけですが、たくさんの精霊たちになって、その言葉も語ります。
 自然は冷厳なのでしょうか。いや、ランと一体になった魚、魚と一体になったランの気持ちが、単純にそう考えてはいけないと教えてくれるようです。

 命の授業につながる作品だと思いました。

ねこはしる三分映像


アートインAsibinaの演劇作品プロモーション第1弾「ねこはしる」の三分映像です。
ねこはしる
工藤 直子
童話屋

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先週の『式能』行ってきました

2010-02-28 23:40:37 | 演劇・舞台
 昨年から、しばらく遠ざかっていた都心での、観劇を始めるようにしました。
能も、学生時代は、水道橋の宝生能楽堂が学校の近くにあったので、よく、観に行っていました。昨年は、初めて国立能楽堂で、能を拝見しました。

 今年は、今までに一度は行きたいと思っていた式能に行きました。江戸時代の様式に則って、5流翁付き5番立能という形式のものです。一度に、能の世界を続けてみることができる良い機会でした。(第50回記念式能 2月21日㈰)
 今回は、1部、2部通して観ることになりましたので、午前10時の翁から、5番能の半能『石橋』の終演午後7時頃までの、長い時間の観能になりました。

 翁は、金春流でしたので、下掛りとして、千歳は狂言方が勤めました。翁は、能の最初の姿を残している大変神聖な曲です。観能も翁から始まると、観客が清められるような感じが強く感じられます。

 翁の後は、直ぐに『竹生島』へと続きます。翁の後は、神能が続けて演じられます。『竹生島』では、弁財天が登場し、女人禁制との関係が論じられて、興味深いものです。

 続く狂言も、『福の神』で、大変お目出たいものです。福の神が、「早起き・慈悲・夫婦愛・隣人愛」が、幸せになるための人間の元手になるとおっしゃることはもっともなことです。でも、自分へもお神酒やお供えを十分にするようにと言うのは、御愛嬌です。

 修羅能は、短い曲の『俊成忠度』(宝生流)です。歌の師である藤原俊成のもとに、現れた忠度の霊が、帝釈天と阿修羅の軍の間の戦に巻き込まれますが、歌の徳により、その苦しみから救われます。阿修羅といえば、去年の国宝阿修羅展の事が思い出されます。あの少年、或いは少女のイメージは、この神様との永遠の戦いには、相応しくないようです。しかし、光瀬龍『百億の昼と千億の夜』、及び、その漫画化である萩尾望都の同名コミックでは、そのイメージが生かされているようです。これは、観能に関係のないお話でした。

 狂言『蝸牛』で第1部は終了しました。

 第2部は、『雪』から始まりました。この曲は金剛流のみに伝わるものです。「雪踏拍子」の小書で舞われる舞は、音を立てずに足拍子を踏む演出です。雪の精故の演出でしょう。内容は、僧侶の下に現れた雪の精の迷いなのですが、精霊なので、何故、自分がこの世界に出現したのかも、定かではありません。能としては、余り面白味がない作品です。

 次は、野村萬さんの『見物左衛門』。ドラマの進展の全てを、一人で演技します。

 『自然居士』(喜多流)は、当日では、一番ドラマティックな曲でした。居士ですから、半俗半僧の姿で現れます。能では『花月』も青年の姿で現れますが、清らかさと同時にある種の色気を感じてしまいます。曲の内容は、自然居士に亡き両親の為の供養を頼みに来た少年が、供物として、わが身を人買い上人に売ることで、小袖を買って居士に差し出します。この事を知った居士が、人買い商人から、少年を取り返すという話です。ワキ方、アイの狂言方も、ドラマに積極的に参加していきます。人買い商人から、少年を返す代わりに、自然居士に芸尽くしをさせる所が、後半の見所となります。
 7日の説法の満願の日に、説法の途中で止めてまで少年の救出に急ぐ居士の姿は、仏教者の慈悲の心を表わしたものです。

 狂言『千鳥』の後に、最後の曲、半能『石橋』(観世流)です。シルクロードを通って、日本に、ライオンが獅子として伝えられ、多くの芸能の基になっています。当然、実物は見られることはなかったのでしょう。
 この曲では、文殊菩薩の霊獣として描かれています。能の中でも、舞のための曲という特殊な位置にあるもので、祝言能として理解していいのでしょう。
舞の形も、他の能とはかなり変わっています。今回は、「大獅子」という演出で、白頭の親獅子と、赤頭の子獅子の合わせて4人による舞が舞われます。我が子を千尋の谷に落とすという獅子の伝承が舞われます。

能の鑑賞『君にもできる 能の世界』/狂言『盆山』・能『猩々』

2010-01-16 23:48:23 | 演劇・舞台
 能楽は、ユネスコによる人類の無形文化財に指定されている。このすぐれた伝統文化を、多くの人に触れてもらおうという催しが今年も開催された。
 都民芸術フェスティバルの一環として、「君にもできる 能の世界 ~体験と観賞~」で、ワークショップと観賞の会が開かれている。
 昨年は、八王子のいちょうホールで開かれたが、今年は、国分寺市立いずみホールで開催された。1月16日㈯。

 透析終了後、すぐに中央線に乗って会場へ急ぐ。開場30分前に着くが、ロビーでは、狂言のワークショップが開かれていて、その様子を列から見ることができた。大人より子どもの参加が多かったようだ。こうした体験から、能楽に親しむ子どもが増えることが、今後の伝統芸能の発展のためにも必要な事であろう。
 開演前の舞台では、仕舞のワークショップが行われていた。また、別室では、囃子方の部も開催されているはずであった。

 演目は、入門編ということで、解説の後、狂言1番と、短い能が1番演じられた。

 狂言は和泉流の「盆山」である。盆山というのは、今の盆景のようなもので、お盆の上に石を置いて小さな山を築き、その景色を楽しむことが、昔、多分、室町時代あたりに流行した。ある男が、たくさんの盆山のコレクターである知り合いの盆山をこっそり盗み出そうとする。夜中に忍び込んだのはいいが、知り合いに見つかってしまう。知り合いは、盗人の正体をすぐに見破ったが、からかってやろうと、隠れているのは犬だとか猿だとかいって、男に動物の物真似をさせる。そして、最後に物真似をさせようとしたものが、意外なもので、よく考えれば陸地にいないはずの鯛であった。この辺が、狂言の持っている可笑しみの本質が垣間見られるのである。不条理な事が、いともたやすく話の展開の取り入れられているが、観客の方もそれを取り入れ、自然と笑ってしまうのである。さて、鯛の泣き真似とは如何?
 シテは三宅近成、アドは、高澤佑介

 能は、「猩々」。元々は、前場があった能であったが、現在は半能形式で演じられる。したがって、短い曲で、入門編には相応しいのかもしれない。なお、昨年の八王子の公演では、「高砂」が半能で演じられている。

 中国のお話で、揚子江に臨む里に住む、貧乏だが親孝行のワキの高風が、夢の中で酒を作り市に出て商えば、金持ちになるというお告げを受ける。実際に、そうすることで、高風は金持ちとなった。高風が市で、酒を売っていると、男がやってきて酒を飲むが、いくら飲んでも顔色一つ変えることがなかった。不思議に思った高風が、男の素性を訪ねると、自分は揚子江に住む猩々であると言って姿を消した。その時に、酒壺を胸に抱いて水中に入った。ここまでが、本来は、前場として演じられていたのが、後に、後場だけ演じられる半能形式になったようだ。
 さて、猩々というのは、人面獣身の想像上の霊獣で、酒を好み、人の言葉を解するとされる。面(おもて)は、笑みをたたえた朱色である。頭という赤一色の長い毛のかつらを付け、装束も赤を基調にしている。酒に酔った時の赤と、おめでたい色としての赤を表現している。
 高風が、酒を用意して、猩々の登場を待つ。月が出ている夜のことであった。そこへ、猩々が現れ、酒を飲み、舞を舞う。すっかり酔った体で、高風に汲めども酒が尽きることのない壺を渡して消えていく。夢かと思い、傍らを観ると、壺が置かれていた。
 親孝行の男に対する猩々のご褒美といったところであろうか。
 祝言能として演じられるそうだ。

 以前、猩々がたくさん出てくる演出のものを観た事がある。『大瓶猩々』かもしれない。

 猩々が、とても愛らしく見える舞であった。

 今回は、小書無し。金剛流、シテ 工藤寛

 今年は、同じ都民芸術フェスティバルの式能を拝見に行く予定だ。今まで、なかなか行く機会がなかったのだが、今回は、チケットも求めた。翁付きの能5番、狂言4番の江戸式能の形式で、午前中に始まり、夜まで続く。体調を整えておかなければなるまい。

三多摩・憲法ミュージカル2009 「ムツゴロウ・ラプゾディ」/今年を振り返って、劇場編

2009-12-31 23:44:14 | 演劇・舞台
 3年前に始まった三多摩憲法ミュージカル、今年は「ムツゴロウ・ラプソディ」が上演された。総勢100名の市民による息の会った素晴らしい演技は、大事な憲法上のメッセージも発信していた。

 最初の公演は、生き物たちの創世から、キムジナーを通して視た沖縄の歴史を描いた「キムジナー」で、憲法9条の意義を考える作品であった。未だ、沖縄では、基地問題が解決していない。米兵による犯罪は絶えることがない。歴史教科書から、一部の人々の圧力により、軍による住民の集団自決の関与の記事が消えた。裁判でも、確認されたにも関わらず、文部科学省は記述を変えようとしない。
 この公演で、初めて、憲法ミュージカルを観ることが出来た。三多摩地区では初めての試みであった。障害者も参加しての舞台は、楽しいものでもあり、沖縄戦の悲しい歴史も描いていた。

 去年は、フィリピンの従軍慰安婦問題を描いた「ロラ・マシン物語」であったが、残念ながら、都合が悪くて観ることが出来なかった。

 だから、今年の「ムツゴロウ・ラプソディ」は、是非、観なくてはと思っていた。公演最終日の立川公演の昼の部を鑑賞した。

 あの諫早湾のギロチン堤防により、水門が閉ざされた時から、もう12年もたっている。自然環境が、無駄な公共工事の名の下に、いとも簡単に破壊されていく。失ったものを取り戻すことは容易ではない。豊かな諫早湾の生物の多様性が破壊されても、政治家は動かなかった。動いたのは、お金だったのだろう。佐賀地方裁判所の判決で、水門の開門命令が出るも、国は無視し続けた。

 ミュージカルでは、諫早湾に暮らしていたムツゴロウや他の生物の訴えという形で進行していく。第1楽章「序」では、かつての豊かな海に繰り広げられる生き物たちの営みが描かれる。第2楽章「破」では、ギロチン水門が絶つ生命の営みと、丘に上がった漁師の苦しみ。第3楽章「急」では、人間に対する問いかけ。人間はどこから来て、どこに行くのか?国家とは何か?ミュージカルの中では、水門が開いていく。

 憲法25条が保障する生存権。人間ばかりでなく、地球に生きる生き物たちにも多様性は保証されなくてはならないだろう。
 地元の高尾山に、圏央道のトンネルが掘られようとしている。そうまでして、一体、何を人間にもたらそうとするのであろうか。

 今年は、政権交代が重大ニュースのトップであろう。しかし、民主党のマニュフェストも、以前の諫早湾開門の姿勢が、今回の選挙では、地元の声を聴くということに後退してしまった。ムツゴロウ達が望んでいたようにはいかない可能性も出てきた。また、地元の長崎県の知事選の出馬予定の民主党推薦の候補は、水門を絶対に開けないと言っている。政権交代にかけた希望が、少しずつ潰えていくようだ。

 この地球は、人間だけのものなのだろうか。

 憲法ミュージカルでは、実績のある大阪のPVが紹介されていた。

大阪・憲法ミュージカル2009 「Mutsugoro Rhapsody」 PV



今年を振り返って/第九回日本ろう者太鼓同好会 府中公演

2009-12-31 00:38:01 | 演劇・舞台
 今年は、例年と違って、文化に触れてみようと、色々が劇場に足を運びました。透析に入ってから、出不精になっていたのですが、人生限られた時間を、劇場という演技者と観客が創る1回限りの空間を出来るだけ共有して、楽しんでみたいという心境になったからです。
 国立能楽堂にも、やっと行くことが出来ました。ベネズエラの文化週間では、ハコメのアルパカの演奏を堪能出来ました。

 新型インフルエンザの感染のリスクも有りましたが、マスクをして出かけて行きました。

 今年は、三多摩地区の府中で第9回日本ろう者太鼓同好会の公演がありました。2年に1回、東日本と西日本で交互に開かれる大会が、府中で開催されるというのは、まさに好機でした。他の地区には、とても出かけることが出来ないからです。
第8回の時の様子は、YouTubeにアップしてあった動画で、少しだけ見ることが出来ましたが、実際の演奏を楽しめるなんて、最初は思ってもいませんでした。

 ろう者の太鼓奏者のソロの演奏家の人は、何年か前の地元の手話まつりの時に演奏を聴くことが出来ました。ギターベースの聴者との掛け合いもありました。その時は、ろう者が風船を持って、太鼓の響きを受け止めていました。

 ろう者と音楽といえば、地元には、東京で、ろう者のバンドを集めてライブを開催し、自らもパフォーマーとして活躍する原伸男さんがいます。彼のライブの様子は、YouTubeで見ることが出来ます。

 ろう者と音楽というと、不思議な取り合わせと思われる方もいるかと思いますが、このように、音楽に関わっているろう者も少なくありません。

 さて、今回の府中公演は素晴らしいものでした。早めに会場に行って、かぶりつきの席で観て、聴くことが出来ました。演奏者の息遣いも聞こえ、恰好よく決めている青年の耳に光るピアスまで見えました。

 各団体は、それぞれの特色を生かした熱演を繰り広げました。

 播州ろう者龍姫太鼓集団「鼓鼓呂」は、手話唄も演じ、その際には、小道具を使っての表現など、視覚的にも楽しむことが出来ました。

 伊丹ろう者太鼓同好会「楽鼓」は、結成10周年ですが、会員数の減少にもめげずに力演してくれました。

 甲州ろうあ太鼓は、結成28年目という驚くべき団体で、その技量は素晴らしいものでした。

 吹田市聴言障害者協会和太鼓クラブ 吹田ろうあ太鼓「和龍耳」は、聴者も交えての演奏で、大阪らしい「持車(だんじり)囃子」を聴くことが出来ました。当日は、だんじりの踊りも披露される予定でしたが、新型インフルエンザの影響で、縁者が休みとなってしまいましたが、お祭りの雰囲気は十分に楽しめました。

 釧路市聴力障害者協会「蝦夷太鼓」も、技量の素晴らしい団体でした。北海道らしく、アイヌの民族楽器ムックリで始まる「サルルンカムイ」は、アイヌの伝統文化とも融合した素晴らしいものでした。パフォーマンスも楽しかったです。

 ㈳東京都聴覚障害者連盟文化部 大江戸助六流東京ろう者太鼓同好会「鼓友会」の演奏は、東京らしい、洗練されたさっぱりした演奏でした。今年の「さよなら!障害者自立支援法 つくろう!私たちの新法を! 10.30全国大フォーラム」の時にも、ミニコンサートで演奏し、ヒップホップダンサーとも共演していました。

 大阪からは、豊中ろう和太鼓くらぶ「鼓響」も参加しました。少ない人数ながら、2曲を力演してくれました。

 今回は、地元の府中市から、ろう和太鼓同好会「龍和夢太鼓」が演奏を披露しました。今後は、三多摩で聴く機会があるかも知れません。

 フィナーレは、各団体が出演する三宅太鼓で締めます。第1回から続いている合同演奏だそうです。

 それぞれの団体の演奏の時には、会場の観客も手拍子で演奏に加わるという、楽しい体験を味わうことが出来ました。

 練習は厳しいものなのでしょう。体で、調子をとり、残存聴力で音を拾っていくなどの困難さを克服しての演奏は、ろう文化であり、一般の太鼓文化でもあります。

 一言でいえば「恰好いい」演奏でした。

 ただ、いつもは、最後に次の開催地へのバトンタッチが行われることになっているようでしたが、今回は、事情があって次の2年後の開催地がまだ決まっていない状態でした。この素晴らしい大会が今後も無事に続くことを祈りながら、感動の余韻の中、京王線に乗り込みました。

第八回日本ろう者太鼓同好会 姫路公演


2009年9月23日宝山寺(生駒聖天)『お彼岸万燈会』播州ろう者龍姫太鼓集団



大阪・憲法ミュージカル2009 「Mutsugoro Rhapsody」 PV

2009-10-06 21:47:48 | 演劇・舞台
 憲法の精神をミュージカルを通して広げていこうとする、市民による「憲法ミュージカル」が三多摩でも取り組まれるようになったのは、一昨年からでした。小泉政権誕生頃から、憲法の改悪が現実味を帯びてくるようになりました。引き続く、安倍政権も日本という国が大きく右にぶれていくような時代でした。

 歌や踊りで自分たちの気持ちを表現するというのは、平和な時でこそ意味があることでしょう。戦時中も、現代でも、芸術が独裁国家や戦争遂行のためのプロパガンダとなってきました。憲法ミュージカルは、そうして動きに対する市民たちの抵抗でもあります。

 初めて観た「キムジナー」は、身障者も参加しての素晴らしい作品でした。去年は前年ながら、都合が悪くて観ることができませんでした。今年の公演のチケットが昨日届きました。

 今年は、「ムツゴロウ・ラプソディ」です。諫早湾の干潟が239枚のギロチンで閉じられたのは、1997年4月14日でした。あの場面は、テレビで見ましたが、とてもショッキングなシーンでした。2008年に、佐賀地裁は開門を命じましたが、国はその判決を拒否し、今も裁判が続いています。
 今でも、漁師たちと干潟の生き物たちは苦しみ続けています。

 今回の公演は、埼玉県の飯能市でも行われます。100人に及ぶ市民による演技を今から楽しみにしています。憲法を守ろうという気持ちでまとまった市民たちの思いを、会場でじかに触れてみたいと思います。また、一人でも多くの方に観ていただきたいですね。

LIVE!憲法ミュージカル2009 公式サイト

 なお、大阪の市民による公演は、5月に行われました。その時のPVがYouTubeにありました。

大阪・憲法ミュージカル2009 「Mutsugoro Rhapsody」 PV



第32回納涼能②『大江山』

2009-07-30 00:39:35 | 演劇・舞台
 能『大江山』(金剛流)
  前シテ(酒吞童子)後シテ(鬼) 金剛永謹
  ワキ(源頼光)         森 常好
  ワキツレ(独武者・保昌・貞光・季武・綱・金時等 登場は5人)
  間(強力)           善竹十郎
  間(童子の捕らわれた都女)   善竹富太郎

 一昔前までは、酒吞童子といえば、子どもでも知っている話であった。しかし、他の多くの伝承とともに、人々から忘れ去られていく運命なのだろう。
 酒吞童子に関する伝承で最も古いものは、「大江山絵詞」であるが、作者には吉田兼好をする説もある。平安時代に、大江山に住んでいた山賊を、源頼光らが退治したのが、鬼退治の話に転化したのであろう。なお、漫画の中には、当時、日本に住み着いた異国の人間を鬼と解釈した話をあった。

 話は、源頼光一行が、勅命を受けて、丹波の国大江山に住む酒吞童子を退治に向かうところから始まる。彼らは、山伏の姿に身を変えて、酒吞童子に近づく計略であった。

 この能は、ワキと間の狂言方も活躍する作品である。頼光の家来の強力と、鬼にとらえられた都の女との狂言方のやり取りが面白い。この女の手引きで、頼光ら一行は、酒吞童子のもとで宿を借りることができる。

 酒吞童子は、前シテでは、童子の姿で現れる。この鬼は、かなり人間臭いというか、弱みを頼光らの前で見せる。もともとは、比叡山に住んでいたのだが、最長が延暦寺を構えるに際して追い出され、諸国をさまよった結果、大江山に暮らすようになた。「一稚児二山王」という諺があった。山王とは、延暦寺の鎮守する日枝神社である。諺の意味は、延暦寺の僧侶、つまりは山法師は、山王よりも、美しい稚児を大切にしたことを諷したものである。いわゆる当時の稚児潅頂を経た稚児に対する僧侶の同性愛の関係を反映したものである。明治維新により、西洋文明が入り込むまでは、我が国では、同性愛に寛容であったという指摘もある。
 能の中でも、山伏姿の頼光らに、童子の姿の酒吞童子が可愛がってくれと言っている。隠れ家が露見したことを山伏に内緒にして欲しいと頼む気持ちの上の言及であろう。酒吞童子は、酒宴の果てに酔いつぶれてしまう。

 この後に、酒吞童子の寝所の鍵を女に差し出させた頼光らが、鬼と化した酒吞童子と立ち回りをする。

 その前に、強力が女と共に、先に都へと急ぎ帰っていく。女は、強力から都の亭主が女のいない間に再婚をして子どもをないがしろにしていると聞いて、怒り出す。強力は自分と結婚すれば、子どもの面倒も見ることを約して、2人は夫婦となることに決めて去っていく。このやり取りが、また楽しいものであった。

 「夕顔」のような幽玄な能と違い、大江山のようにスペクタクルの作品も能にはある。シテ方が、前転をするなど、立ち回りを含めてそうしたハードな動きもするのである。

 後半の鬼と化した酒吞童子との戦いの様子も興があるものであるが、本作では、前半の鬼らしからぬ酒吞童子の振る舞いが、面白い作品である。弱気の鬼が童子の形をして、人間臭いところがである。

第32回納涼能①『夕顔』

2009-07-27 22:03:57 | 演劇・舞台


 7月17日㈮、国立能楽堂の納涼能に行く。能楽堂で、能を鑑賞するのはずいぶんと久しぶりであった。また、国立能楽堂は初めてである。

 ① 『半蔀(はじとみ)』(観世流)
    前シテ(里女)、後シテ(夕顔の精) 梅若玄祥
    ワキ  (旅僧)          村瀬 純
    間   (所の者)         大蔵吉次郎

 夕顔は、夏にふさわしい花である。源氏物語夕顔巻による能である。源氏物語では、光源氏が17歳の時に、六条の貴婦人のもとに忍び通っている頃、ある夏の夕方に、その邸への道すがらに、五条に住む源氏の乳母であった大弐の乳母を見舞いに行ったときに、隣家の家に気を留めた。そこは、桧垣を新しく作って、上の方は半蔀を四、五間ばかり上げて、簾なども白く涼しげである。そこの切懸には、夕顔の花が咲いていた。源氏がその花を折らせようとすると、その家から童女が現れ、扇を持って、この上に夕顔の花を乗せてお渡しになったら良いと言う。源氏が扇を見ると、歌が書かれており、乳母子の惟光にこの家の女の素性を調べさせる。その後、しばらくは女のことを忘れていた源氏だが、夕顔の宿の女が頭中将のゆかりの者らしいと聞くと、女に近づいた。身分を隠し、顔も見せずに夕顔のもとに深夜通いつめた。夕顔は、内気で頼りなげな風情であった。ある時、源氏は夕顔とともに廃院に行く。初めて源氏の顔を見る夕顔。しかし、その屋敷で、美しい女人の姿をした物の怪におびえた夕顔はやがて息絶えてしまう。この女人の姿には、正妻六条御息所の姿がオーバーラップしている。はかない夕顔の命であった。

 ※半蔀とは、上半分に日よけを付け、下半分に格子などを打った戸で、上半分だけ戸を外側へ上げるようにしたものである。

 さて、能「半蔀」は、夢幻能の形をとる。雲林院の僧の夢の中に現われた夕顔の霊、ないしは夕顔の精の物語となる。

 京都北山の雲林院の僧が、立花供養を行っている。一夏の修業を終えるにあったって、その期間中に仏に備えた花の供養である。そこへ、夕顔の花を手にした里の女が現れ、花をささげる。いぶかしく思った僧は、女に素性を明かすように問うが、女は「五条あたり」の夕顔の花とだけ答えて、立花の陰に隠れるように姿を消して去って行った。ここで、「五条あたり」という言葉から、源氏物語の夕顔であることが観客にはわかるようになっている。
 雲林院の僧は、その昔、光源氏が夕顔をみそめて連れ出した五条あたりのとある家を訪れた。夕顔の菩提を弔うためである。すると、その家の半蔀を押し上げて夕顔の精ないしは霊が現れる。僧は、その美しさに涙する。ここで、夕顔は源氏との馴れ初めから契に至るまでを語って見せる。もとになった源氏物語とは違い、楽しかった昔をしのぶという形をとり、夕顔は悲壮感に満たされるようなことは語らない。源氏と関係を持った喜びを素直に語っている。夢幻能の形式には、この世に執着心を残した霊が、僧に成仏のための供養を頼むものがあるが、この能には、そうした要素がない。東雲が近づくと、夕顔はまた半蔀の中に入っていく。朝になり、僧は夢から覚める。

 後シテは、緋大口二兆県の姿で現れるが、これは品位のある女性の表現である。当日の装束は、前シテも白を基調とした装束で、いかにも夕顔の風情であった。この演目だけで使われる半蔀に作り物には、夕顔の花と実が巻きついている。当日は、一の松あたりに置かれていたが、常座の他に、流派によっては、大小前に置かれる。

 源氏物語を踏まえた清々しい一番であった。

市民による憲法ミュージカル

2009-05-03 01:00:17 | 演劇・舞台
 全国各地で、何年も前から市民による憲法ミュージカルの公演が行われています。三多摩でも、第1回の「キムジナー」から第2回「ロラマシン物語」と、たくさんの人が作品を鑑賞しました。山梨、大阪でも「ロラマシン物語」が上演されました。

 今年は、三多摩では、11月に第3回の公演があります。大阪で行われた「ロラマシン物語」上演のダイジェスト版と、新しいムツゴロウに関するミュージカルの地元での記者会見の動画がありましたので、アップさせてもらいました。

大阪憲法ミュージカル2008 「ロラマシン物語」前半


大阪憲法ミュージカル2008「ロラマシン物語」後半


LIVE!憲法ミュージカル2009記者会見〈前半〉


LIVE!憲法ミュージカル2009記者会見〈後半〉