浜辺のコレクション (ふしぎコレクション)浜口 哲一,池田 等フレーベル館このアイテムの詳細を見る |
これから夏にかけて、海に出かける機会もあるかもしれません。
ビーチコーミングという楽しみ方があります。コームというのは、名詞では櫛(くし)、動詞では髪の毛をくしですくという意味ですね。そんな感じで、浜辺を、砂浜で宝探しをやってみることです。
浜辺には、海から漂着物が流れてきます。中には、プラスチック容器のように、分解しない困り物もやってきます。でも、その容器にも、ハングルなどの外国語が書かれていたりして、どこからやってきたのか推理してみる楽しみもあります。島崎藤村が柳田国男から話を聞いた南の島からのヤシの実の漂着。
この絵本では、貝から始まって、色々な漂着物が紹介されています。そう言えば、スカシカシパンの熱烈なマニアもいましたっけ。
ガラスのかけらも、海の波の力で角が取れて、丸みを帯びた色ガラスは、ちょっとした海の宝石のようです。
そうした漂着物をコレクションする楽しみの他にも、造形してみたり、遊びの道具にするなどのヒントもこの本に載っています。
どこからやってきたのか、空想しながら、浜辺を探検するのも楽しそうです。本当の宝物が見つかるかも知れません。
以前も紹介したことのある次の絵本『漂流物』は、思いっきり空想の翼を広げた不思議な世界へと連れていってくれる物語です。合わせて読むと、何か不思議な事が起こるかな。
漂流物デイヴィッド ウィーズナーBL出版このアイテムの詳細を見る |
共同声明に先立ち、鳩山総理とオバマ大統領電話会談(10/05/28)
名護市長「今後交渉には応じない」辺野古明記で(10/05/28)
訓練移転「徳之島活用」日米声明に島民「絶対反対」(10/05/28)
「辺野古」移設、日米が発表…工法は8月に決定(読売新聞) - goo ニュース
名護市長「今後交渉には応じない」辺野古明記で(10/05/28)
訓練移転「徳之島活用」日米声明に島民「絶対反対」(10/05/28)
「辺野古」移設、日米が発表…工法は8月に決定(読売新聞) - goo ニュース
最近は、しばらく遠ざかっていた劇場に再び足を運ぶことが多くなった。人生の秋を感じるようになったからだろう。
4月14日に、文学座の「わが町」の公演に行ってきた。ソーントン・ワイルダーの作品で、森本薫の訳によるものであった。この作品は、翻案されたり、一部が上演されることが、今までもあった。実際、同時期に、別の劇団が上演している。訳者も違うので、当然、演出方法も違うのだろう。僕も、高校生の時に、この作品の上演を演劇教室で見た記憶がある。特別な舞台装置のない上演で、その当時のアメリカの衣装をつけた女性が傘をさして登場した場面しか記憶にない。
初演は1923年だったのだろうか。演劇の古典といってもいいのかもしれない。ワイルダーの上演方法も、幕が無く、舞台装置がないという、当時としては、斬新な手法を用いたという。現代では、そうした上演方法も珍しくは無いのであるが。
物語は、ニューハンプシャー州にある小さな町グローヴァーズ・コーナーズという、ごく平凡などこにでもあるような町の、ごく普通の人々の生活を、時間を追って描いている。おそらくは、架空の町であろう。エミリとジョージは、お隣同士。両親も、町の人々も、身近な付き合いをしている。平凡な住人達といっていいのだろう。しかし、表面だけを見ても分からない深層部をそれぞれの人々は持って生きている。それも、今を生きる私たちも同様な事である。子どもだった二人も、高校卒業を間近に、愛し合い、若すぎるともいう年齢で結婚に至る。町に人々の祝福の結婚式の場面は、歌を踊りの入った明るい演出であった。小さな町の、大きなイベントであった。
狂言回しの作者の分身ともいえる男が、物語を進行させていく。彼は、過去を振り返るように、時の流れと共に、町の人々の様子を説明していく。彼には、未来が当然のように見えるが、登場する町の人々は、時間の流れに沿ってしか行動しないし、未来を知ることは当然出来ない。その時間、その空間を、他の人々との関係性を持って生きていく。
今回の上演では、第3部が重要な意味を持った。雨の墓場、そこには、使者たちがたたずんでいる。ジョージの母親も、エミリの弟もそこにはいた。アメリカ人の感覚として、そうした描き方は普通でないように思えた。キリスト教では、最後の審判の日まで眠りに就く訳だし、天国を信じている限り、墓場に思いが残っているというのも、不思議な感覚である。狂言回しの男によれば、時と共に、肉体が朽ち、記憶を浄化されて魂の存在と化すという。死者たちは、墓場で、静かに生きている町の人々を見つめ続けている。
そこへ、傘をさした葬儀の一団がやってくる。誰の死だったのだろうか。たたずむ死者たちの下に、エミリがやってきた。エミリは、過去に戻りたかった。もう一度、人生をやり直したかった。他の死者たちは、止めるように忠告した。しかし、エミリは過去へと旅立つ。そこでは、その時代のエミリを演じるしか他なかった。自分では、それから先に何が起こるのか分かっているのだが、その時に生きた姿と同じことをしなくてはならかなかった。
よく、もう一度人生をやり直せたら、あなたは何をするかという設問を立てることがある。確かに、自分の未来がわかるのならば、あらたに未来に作り替えることができるかもしれない。しかし、そうだとしても、果たして、変えることができるのであろうか。人生は、悲しいことと楽しいこと、不幸な事と幸いな事が連鎖している。その流れの一つでも変えれば、その後の楽しいこと、幸福な事も消え去ってしまう。
エミリの苦しみは、同じ体験を繰り返すことしか許されていなかったこと。だから、再び、丘の上の墓場の死者たちの中に帰ってきた。
彼らは、死して後、生きていることがどんなに素晴らしいことであったかを知ることになるのだ。生きている時に、普通の人が普通に暮らすことがどんなに意味のあることであるのかを。生きている我々は、生きている間、この世界がどんなに素晴らしく美しい所かということに気付いてないらしい。
絵本「百年の家」と演劇「わが町」は、どちらもアメリカ人が書いた作品であったが、我々日本人が見た場合、そこに無常観を感じざるを得ないのだ。そして、これらの作者も又、西洋文明に中に行きながら、無常観のようなものを感じていたのではないかと思うのである。
そう言えば、両方の作品の女性の葬儀の日は、どちらも雨が降っており、葬儀の参列者たちが傘をさしていたのは、偶然の一致なのだろうか。
死者たちが、肉体が朽ちても、その残された記憶からこの世を見る視点、また、すっかり破壊に向かった百年の家が、重いだけはその場に残って今の家の建った場所を見ているという視点が、無常観を感じさせるのである。
4月14日に、文学座の「わが町」の公演に行ってきた。ソーントン・ワイルダーの作品で、森本薫の訳によるものであった。この作品は、翻案されたり、一部が上演されることが、今までもあった。実際、同時期に、別の劇団が上演している。訳者も違うので、当然、演出方法も違うのだろう。僕も、高校生の時に、この作品の上演を演劇教室で見た記憶がある。特別な舞台装置のない上演で、その当時のアメリカの衣装をつけた女性が傘をさして登場した場面しか記憶にない。
初演は1923年だったのだろうか。演劇の古典といってもいいのかもしれない。ワイルダーの上演方法も、幕が無く、舞台装置がないという、当時としては、斬新な手法を用いたという。現代では、そうした上演方法も珍しくは無いのであるが。
物語は、ニューハンプシャー州にある小さな町グローヴァーズ・コーナーズという、ごく平凡などこにでもあるような町の、ごく普通の人々の生活を、時間を追って描いている。おそらくは、架空の町であろう。エミリとジョージは、お隣同士。両親も、町の人々も、身近な付き合いをしている。平凡な住人達といっていいのだろう。しかし、表面だけを見ても分からない深層部をそれぞれの人々は持って生きている。それも、今を生きる私たちも同様な事である。子どもだった二人も、高校卒業を間近に、愛し合い、若すぎるともいう年齢で結婚に至る。町に人々の祝福の結婚式の場面は、歌を踊りの入った明るい演出であった。小さな町の、大きなイベントであった。
狂言回しの作者の分身ともいえる男が、物語を進行させていく。彼は、過去を振り返るように、時の流れと共に、町の人々の様子を説明していく。彼には、未来が当然のように見えるが、登場する町の人々は、時間の流れに沿ってしか行動しないし、未来を知ることは当然出来ない。その時間、その空間を、他の人々との関係性を持って生きていく。
今回の上演では、第3部が重要な意味を持った。雨の墓場、そこには、使者たちがたたずんでいる。ジョージの母親も、エミリの弟もそこにはいた。アメリカ人の感覚として、そうした描き方は普通でないように思えた。キリスト教では、最後の審判の日まで眠りに就く訳だし、天国を信じている限り、墓場に思いが残っているというのも、不思議な感覚である。狂言回しの男によれば、時と共に、肉体が朽ち、記憶を浄化されて魂の存在と化すという。死者たちは、墓場で、静かに生きている町の人々を見つめ続けている。
そこへ、傘をさした葬儀の一団がやってくる。誰の死だったのだろうか。たたずむ死者たちの下に、エミリがやってきた。エミリは、過去に戻りたかった。もう一度、人生をやり直したかった。他の死者たちは、止めるように忠告した。しかし、エミリは過去へと旅立つ。そこでは、その時代のエミリを演じるしか他なかった。自分では、それから先に何が起こるのか分かっているのだが、その時に生きた姿と同じことをしなくてはならかなかった。
よく、もう一度人生をやり直せたら、あなたは何をするかという設問を立てることがある。確かに、自分の未来がわかるのならば、あらたに未来に作り替えることができるかもしれない。しかし、そうだとしても、果たして、変えることができるのであろうか。人生は、悲しいことと楽しいこと、不幸な事と幸いな事が連鎖している。その流れの一つでも変えれば、その後の楽しいこと、幸福な事も消え去ってしまう。
エミリの苦しみは、同じ体験を繰り返すことしか許されていなかったこと。だから、再び、丘の上の墓場の死者たちの中に帰ってきた。
彼らは、死して後、生きていることがどんなに素晴らしいことであったかを知ることになるのだ。生きている時に、普通の人が普通に暮らすことがどんなに意味のあることであるのかを。生きている我々は、生きている間、この世界がどんなに素晴らしく美しい所かということに気付いてないらしい。
絵本「百年の家」と演劇「わが町」は、どちらもアメリカ人が書いた作品であったが、我々日本人が見た場合、そこに無常観を感じざるを得ないのだ。そして、これらの作者も又、西洋文明に中に行きながら、無常観のようなものを感じていたのではないかと思うのである。
そう言えば、両方の作品の女性の葬儀の日は、どちらも雨が降っており、葬儀の参列者たちが傘をさしていたのは、偶然の一致なのだろうか。
死者たちが、肉体が朽ちても、その残された記憶からこの世を見る視点、また、すっかり破壊に向かった百年の家が、重いだけはその場に残って今の家の建った場所を見ているという視点が、無常観を感じさせるのである。
ドキュメンタリー映画「弁護士 布施辰治」(予告編第1弾)
ドキュメンタリー映画「弁護士 布施辰治」予告編第2弾 その1
ドキュメンタリー映画「弁護士 布施辰治」予告編第2弾 その2
ドキュメンタリー映画「弁護士 布施辰治」予告編第2弾 その3
完成記念有料試写会 高校生以上1000円
2010年5月28日(金)
場所:なかのZERO 小ホール
東京都中野区中野2-9-7 TEL 03-5340-5000
主催:「弁護士 布施辰治」製作委員会 TEL 03-5840-9361
1回目15:00~ (開場14: 30)
2回目18:30~ (開場18: 00)
各地の上映予定等の情報は、「弁護士 布施辰治」製作委員会HPへ。
ドキュメンタリー映画「弁護士 布施辰治」予告編第2弾 その1
ドキュメンタリー映画「弁護士 布施辰治」予告編第2弾 その2
ドキュメンタリー映画「弁護士 布施辰治」予告編第2弾 その3
完成記念有料試写会 高校生以上1000円
2010年5月28日(金)
場所:なかのZERO 小ホール
東京都中野区中野2-9-7 TEL 03-5340-5000
主催:「弁護士 布施辰治」製作委員会 TEL 03-5840-9361
1回目15:00~ (開場14: 30)
2回目18:30~ (開場18: 00)
各地の上映予定等の情報は、「弁護士 布施辰治」製作委員会HPへ。
弁護士布施辰治大石 進西田書店このアイテムの詳細を見る |
ある弁護士の生涯―布施辰治 (岩波新書)布施 柑治岩波書店このアイテムの詳細を見る |
百年の家 (講談社の翻訳絵本)J.パトリック・ルイス,ロベルト・インノチェンティ講談社このアイテムの詳細を見る |
日本の文化の底を流れていた「無常観」は、現代の日本人の心の中の記憶に刻み込まれているのであろうか。日本の古典文学を読むと、そこには、無常観がいつも潜んでいる。源氏物語も、方丈記も、作者とその時代に生きた人々の無常観を読み取ることができる。
この大事な感覚は、大事にしたいものである。生ばかり強調され、死を無視すること傾向に進む現代の日本の社会から忘れ去られるのは、残念なことである。是非、時間があったら、先祖たちが残した文化遺産を読むようにしてもらいたい。特に、若い人たちに。きっと、まだ、記憶の深層には、無常観が流れているかもしれない。
アメリカ人の書いた絵本「百年の家」は、古い家が語る物語である。家のたどってきた一生を描いた作品で、時代と共に変化していくものと、変化しないものが、定点観測のような絵も加わって描きだされている。
この古い家が、最初に建ったの1656年。世の中にペストが蔓延していた時代だ。最初は、石と木から作られて簡単な作りの家であったが、時代と共に、しっかりした作りの家に変わっていった。しかし、廃墟となってしまった。物語は、その廃墟となった古い家を、1900年に子ども達が発見して、彼らの家族がその家も修復して住むことから始まる。
ページをめくりながら、同じ場所ではあるが、家を含めて、その人間がいる風景が変化していくのだ。古い家の100年の歴史が、家自身の言葉で語られる。
その家に住んだ一家の歴史も、家の視点から語られる。娘が、煉瓦職人と結婚したのは、第1次世界大戦の年。花婿は兵士でもあった。人々の平和の願いに反して、若き夫は、戦死してしまう。結婚式の場面を見ることになった読者に対する気持ちは如何。やがて、彼らの子どもが生まれる。厳しい自然環境の中で、ブドウ栽培を続ける家族の姿。そして、1942年、第2次世界大戦の年。その家は、戦争を避けて逃げてきた人たちの居場所となった。家は問う、「千の太陽がきらめく戦争は、だれの戦争なのだろうか?」と。戦争中も、農民は、農作業を続けた。抵抗運動の兵士たちが、時たま、彼らの作業を手伝ってくれた。そして、終戦。彼女の息子は、街へ出ていった。1967年、母親である彼女のお葬式。雨が降っていた。1人、この家に残った未亡人の死。そして、古い家は無人の家となっていった。古い家は、感じる。やがて、自分の身体も壊れていくことを。しかし、古い家の意識だけは、残っていた。自分というものの存在を感じていた。古い家のあった場所には、100年目に新しい別の家が建った。しかし、「つねに、わたしは、わが身に感じている。なくなったものの本当の護り手は、日の光と、そして雨だ、と」
今は、外では雨も上がったようです。
昨日は、朝から、一日中雨が降り続いていました。
途中、小止みの時もありましたが、総雨量はまとまったものだったようです。
子どもの頃は、雨が好きでしたが、今は、雨の日は好きではありません。
地元のろう協の事務所のお手伝いに行ってきました。
その帰り道、お寿司屋さんの前に植えられているニオイバンマツリの大きく成長した木を見つけました。八王子も、冬の寒さが以前ほど、厳しくなくなったのでしょう。羽衣ジャスミンの地植えのものも、歩いていてよく見かけます。その香りで、存在に気がつく訳ですが。
ニオイバンマツリの木は、花が満開でした。この花も、ジャスミン同様、芳香植物として有名です。夕方以降の方が、香りが強く感じられるようです。面白い花で、初めは紫色をしていますが、時間の経過と共に、白色へと変化していきます。普通は、花屋では、小さな鉢植えのものを見かけるのですが、これほどまで成長した、温室栽培ではない地植えの木を見るのは、珍しいことだと思います。それに、花の多さがすごかったですね。紫と白の花が混在して、木にいっぱい咲いている姿と、その香りが、雨の中でも、とても際立った存在感を表現していました。
昨日は、朝から、一日中雨が降り続いていました。
途中、小止みの時もありましたが、総雨量はまとまったものだったようです。
子どもの頃は、雨が好きでしたが、今は、雨の日は好きではありません。
地元のろう協の事務所のお手伝いに行ってきました。
その帰り道、お寿司屋さんの前に植えられているニオイバンマツリの大きく成長した木を見つけました。八王子も、冬の寒さが以前ほど、厳しくなくなったのでしょう。羽衣ジャスミンの地植えのものも、歩いていてよく見かけます。その香りで、存在に気がつく訳ですが。
ニオイバンマツリの木は、花が満開でした。この花も、ジャスミン同様、芳香植物として有名です。夕方以降の方が、香りが強く感じられるようです。面白い花で、初めは紫色をしていますが、時間の経過と共に、白色へと変化していきます。普通は、花屋では、小さな鉢植えのものを見かけるのですが、これほどまで成長した、温室栽培ではない地植えの木を見るのは、珍しいことだと思います。それに、花の多さがすごかったですね。紫と白の花が混在して、木にいっぱい咲いている姿と、その香りが、雨の中でも、とても際立った存在感を表現していました。