トッペイのみんなちがってみんないい

透析しながら考えた事、感じた事。内部障害者として、色々な障害者,マイノリティの人とお互いに情報発信したい。

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宮沢賢治/復刻版を買ったこと

2009-07-01 13:17:04 | 文学
 宮沢賢治とはどんな人だったのだろう。伝記も変わった視点から書かれたものを読んだことがある。彼の信奉者は、それぞれに自分の賢治像を持っている。でも、神様にはして欲しくはない。勘違いをしている人もいるようだ。賢治は万能薬ではないのに。人間としての賢治を感じ取りたい。

 とはいえ、神格化とは違う所で、つながっていたい気持ちから、彼の本の復刻版を求めた。いずれもほるぷが復刻したものである。

 大学生の時に、生協に出版社から売りに来ていた日本の文学の復刻版のセット。全部で3つのセットに分かれていたのか。本当は、全部を求めたかったが、学生にとっては高い買い物であった。それぞれのセットの内容をじっくり考えながら、1つを選んだ。始めて、ローンを組んで買い物をした。その中に、「春と修羅」が含まれていた。

 その後、折を見ては古本屋で、そのセットの中の本が分売されているものを見つけた。


 
「注文の多い料理店」は、新宿に行く途中に、わざわざ、三鷹で下車して、古本屋で買った。当時はそんなに安くは買えなかった。でも、どうしても欲しかった。「春と修羅」は、2冊目をどこかの古本屋で買った。賢治がまだ生きていた時に、出版された本である。





 坪田譲治が昭和14年に、賢治の童話から子ども向けの作品を集めて、出版された「風の又三郎」が存在する。これも、古本屋で求めた。出版のいきさつや、坪田譲二の子どもに向けた賢治の作品についての説明をあとがきの「この本を読まれた方々に」で読むことができる。これも、ある意味、貴重な文章である。その中に触れられているが、賢治の本がたくさん読まれるようになったのは、昭和9年頃。横光利一の勧めで、文圃堂から4冊の宮沢賢治全集が出版されてからだという。しかし、子ども向けの本が出版されていなかったことから、書店などから坪田譲治に賢治の作品からの選出が依頼された。小沢隆一という人が、本の箱から、表紙、さし絵までを、東京から岩手県へ出かけてまで描いている事を、坪田は評価している。
「童話というものは、讀むと面白くつて、ためになるものでなければなりません。ホンタウの童話、よい童話といふものは、さういうものであります」

 坪田が選んだ作品は、「貝の火」「風の又三郎」「蟻ときのこ」「セロひきのゴーシュ」「やまなし」「オッペルと象」の7編である。あとがきでは、「風の又三郎」は、他と違った作風の作品であると述べている。現実の岩手の村を描き、その中に「風の又三郎」という超自然的な存在が、村の子どもたちの心の中の心象として登場している。現実の高田三郎は、そうした事情を知らないで、また、転校していく。

 「風の又三郎」といえば、1940年に日活で作られた映画があった。幼い頃、テレビで見た記憶があり、あの歌がずっと染みついていた。大学生になってからであろうか、小金井の公会堂で上映会があった。電車に乗って観に行った。俳優の故大泉滉氏が村の子どもの役で出ていたのも印象に残っている。これは、おまけの話。

 復刻版を持っているのは、一種のお守りのようなものなのかもしれない。

 


宮沢賢治 風の又三郎 ...ガラスのマント...


ますむら・ひろし宮沢賢治選集 3 (MFコミックス)
宮沢 賢治
メディアファクトリー

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川柳で闘った作家・鶴彬

2009-05-10 13:05:32 | 文学
 鶴彬(あきら)という人がいた。あの軍国主義の狂った時代に、川柳を武器に闘った。治安維持法違反で逮捕され、1938年、28歳の若さで獄死した。

 手と足をもいだ丸太にしてかへし
 銃剣で奪った美田の移民村
タマ除けを産めよ増やせよ勲章をやらう
 塹壕で読む妹を売る手紙
 万歳とあげて行った手を大陸へおいてきた
 軍神の像の真下の失業者

 彼のことを忘れてはならない。

 鶴彬を描いた映画も制作され、全国上映が始まる。

映画「鶴彬―こころの軌跡」 公式サイト

小説 鶴彬―暁を抱いて
吉橋 通夫
新日本出版社

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古浄瑠璃の復活/大英博物館に台本が

2009-03-09 22:04:06 | 文学

復活上演された古浄瑠璃「越後国 柏崎 弘知法印御伝記」。主人公の僧(右)の前に、美女の姿をした魔王が現れ、修行の邪魔をしようとする

古浄瑠璃300年ぶり復活、大英博物館で台本保存…新潟(読売新聞) - goo ニュース

 今は、OLなどを中心に文楽が盛んであるという。日本の伝統文化に触れる人が増えることは喜ばしいことだ。文楽には、義太夫節が使用されるが、それ以前には古浄瑠璃が盛んであった。※我が街八王子に残る伝統芸能「車人形」とともに残っている説教節は古浄瑠璃にさらに先行する。

 こうした昔の芸能においては、時とともに散逸してしまった台本が少なくない。能・狂言においてもである。
 
 芸能史において、そうした散逸した台本が見つかることはとても貴重なことである。
 1685年に発表された「越後国 柏崎 弘知法印御伝記」の台本が、ドイツ人医師により数年後に長崎・出島から海外に持ち運ばれ、イギリスの大英博物館で保管されていた。

 内容は、長岡市の西生寺に即身仏として安置される僧・弘智法印がモデルであり、主人公が厳しい修行を重ね、即身仏になるまでを描く。

 文楽の三味線弾き・越後角太夫(文楽の芸名・鶴沢浅造)さん(58)(新潟市)が2007年、知人の日本文学研究者ドナルド・キーンさんから台本の存在を知らされたことが復活のきっかけとなった。復曲は、古浄瑠璃の流れを継ぐとされる佐渡の文弥節の古いテープや、初期の義太夫節を参考にして越後角太夫さんによってなされた。

 『人形遣いの西橋八郎兵衛(本名・健)さん(61)(佐渡市)と共に、初心者の一般市民を含む約15人で練習を重ねた。』『復活公演が7日、作品ゆかりの新潟県柏崎市で行われ、約300年ぶりに舞台が再現された。この日は、作品の一部を上演し、6月7日、柏崎市産業文化会館で全編通した完全公演が行われる。』

 こうした形で、新たな命が吹き込まれることになった。

ラブクラフトの悪夢

2009-02-09 15:53:41 | 文学
 ラブクラフトには熱烈なファンがいる。彼の描いた世界は、人間の心の闇に迫ってくる。独自の怪奇な世界を構築している。H.P.Lことハワード・フィリップス・ラヴクラフト(Howard Phillips Lovecraft, 1890年8月20日 - 1937年3月15日)のアメリカでの生涯は短かった。彼の作り上げた神話は、クトゥルフ神話と呼ばれている。彼の死後もこの神話に基づく小説が他の作家によって書き続けられている。
 ラブクラフトの小説の中には、「ネクロノミコン」なる魔術書が登場し、断片を読み取ることができる。しかし、当然この魔術所は彼の創作であった。しかし、この「ネクロノミコン」を「再現」する試みがなされている。それほどまでに、ラブクラフトの仕掛けた罠は、愛読者の心の中に食い込んでしまったのだ。

 YouTubeに彼の悪夢に関するアニメーションと、彼の世界を描いたものを紹介するものがあった。

A Lovecraft Dream - short animation movie


The Ultimate Lovecraft Tribute


ラヴクラフト全集 (1) (創元推理文庫 (523‐1))
H・P・ラヴクラフト
東京創元社

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ク・リトル・リトル神話集 (ドラキュラ叢書 第 5巻)
H.P.ラヴクラフト,荒俣 宏
国書刊行会

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ネクロノミコン
ドナルド・タイスン
学習研究社

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寝る前に 「蟹工船」

2009-01-24 02:16:28 | 文学
 小林多喜二の「蟹工船」の映画の上映が今月2日から23日の予定で東京の新宿武蔵野館で行われていますが、連日の満席状態を受けて、急遽2週間の上映延長が決まったそうです。

kani-kou-sen(01/11)


kani-kou-sen(11/11)


 本の方も売れ行きは好調なんでしょうね。おいらが学生時代は、過激派が「新左翼」などと呼ばれて、一部の評論家や文学者がちやほやもてはやしていました。「朝日ジャーナル」なんて雑誌は、結局は今までの左翼運動を既成左翼なんて言って馬鹿にしていたのではないでしょうか。当時の風潮が、のちのマスコミや評論家に影響して、真面目に運動する団体は完全に無視される状態が続いてきました。いまでも、あの世代の評論家や記者にはそうした偏見がこびりついているようです。「既成左翼」を批判するのが格好いいと思い込んでいる傾向があるようです。その後、過激派は大物右翼からの資金提供の事実の発覚や、連合赤軍事件などがあり、日本の左翼運動に打撃を与える役割を演じて縮小していく訳です。当時、高校生の時に通っていた吉祥寺には、過激派の本や新聞が売られている「ウニタ書店」がありましたが、今はどうなっているのでしょうか。

「蟹工船」ブックトレイラー


 北海道にある小樽市立文学館では、去年の12月に蟹工船のペーパークラフトを100作って売り出したところ、好評のうちに売り切れたそうです。その後、100追加製作して販売しているとのことです。税込500円也だそうです。

 夜のテレビで、チェ・ゲバラが31歳の時に日本に使節団の一員として来て、予定外の広島を訪問したそうです。当時は、日本ではゲバラはほどんど知られていない存在だったそうです。原爆資料館を見学した後に、日本人が何故アメリカに怒りを覚えないのか不思議に思ったそうです。アメリカがイラクに侵攻して、占領政策がうまくいくと勘違いしたのは、日本のケースを念頭に置いたからなのでしょう。鬼畜米英を叫んでいた日本人が、すぐに米軍で働きだしたのですから。

銀河鉄道の夜 /プラネタリウムで

2009-01-18 02:16:11 | 文学
銀河鉄道の夜 one night

 
 透析の帰りに八王子サイエンスドームに寄った。プラネタリウムで投影される「銀河鉄道の夜」をまた観るためだ。予定では、1月18日が最終日であった。終わる前にもう一度観ておきたかった。本だけではイメージしにくい世界を美しく描いた作品である。国内最高の解像度を持つ4Kプロジェクターで映しだされる銀河鉄道の旅。この装置は、東日本では当館だけだという。最高の条件で、賢治の世界の一端に触れたくての再訪問であった。しかし、評判が良かったので、7月14日まで投影期間が延長されることになった。賢治の作品に心惹かれる人が多い。
 賢治の生き方はよく分からない。国柱会に属すも、右翼的国家主義者とはならなかった。法華経への信仰と父親の念仏への信仰との葛藤。変わり者と見られていた先生。石こ賢さん。夕御飯も忘れて屋根の上で星を眺めていた中学生。あなたは、いったい誰なのですか。結婚して子供を作る代わりに、トランクいっぱいの話を生み出した。妹への愛情。
 
 時々、「注文の多い料理店」と「春と修羅」の復刻版を手にとってみる。

 最近の社会情勢の変化で、近代経済学ではケインズが再評価されだした。対するようにマルクスも再び脚光を浴びようとしている。賢治の「生徒諸君に寄せる」と言う詩の草稿にコペルニクスやダーウィンとともにマルクスの名前が登場する。労農党の影響があったのか。草稿の一部を抜き出してみた。

    生徒諸君に寄せる
 
〔断章六〕
   新らしい時代のコペルニクスよ
   余りに重苦しい重力の法則から
   この銀河系統を解き放て

   新らしい時代のダーウヰンよ
   更に東洋風静観のキャレンヂャーに載って
   銀河系空間の外にも至って
   更にも透明に深く正しい地史と
   増訂された生物学をわれらに示せ

   衝動のやうにさへ行はれる
   すべての農業労働を
   冷く透明な解析によって
   その藍いろの影といっしょに
   舞踊の範囲に高めよ

   素質ある諸君はたゞにこれらを刻み出すべきである
   おほよそ統計に従はゞ
   諸君のなかには少くとも百人の天才がなければならぬ

 〔断章七〕
   新たな詩人よ
   嵐から雲から光から
   新たな透明なエネルギーを得て
   人と地球にとるべき形を暗示せよ

   新たな時代のマルクスよ
   これらの盲目な衝動から動く世界を
   素晴しく美しい構成に変へよ

   諸君はこの颯爽たる
   諸君の未来圏から吹いて来る
   透明な清潔な風を感じないのか

星めぐりの歌



マイノリティと文学「青頭巾・雨月物語」

2009-01-08 02:10:04 | 文学
 上田秋成の雨月物語は、本来は全編を通して読み進めていくものであるが、今回は「青頭巾」を抜き出してみる。各編はそれぞれに有機的につながっているはずなのだが。

 以前にふれた「稚児観音縁起絵巻」では、老僧のもとに現れた稚児は長谷観音の化身であった。稚児の持つ、あるいは持たされた聖性を表現したものなのだろう。童子から稚児潅頂という儀式を経て稚児というものに変化していく。女性蔑視の思考もはらんだものだったのだろう。

 「青頭巾」では、稚児ゆえに破戒する僧が描かれている。

 下野の国の富田という村里の山の上にある由緒のある寺には、代々高徳の僧が住んでおられた。現在の僧も学識も深く修行も積まれた徳の高い御方であった。越の国に潅頂の戒師として招かれた時に、12、3歳になる少年を伴って帰ってきた。身の回りの世話をさせるためにである。その少年の雅な容姿に魅了された高僧は寵愛するあまり、長年行ってきた仏事や修行も怠りがちになったようだ。しかし、今年の4月に少年は病気になり、日増しに悪くなるのを、国府の官位の中でも重だった名医に診てもらったものの治療の甲斐もなく死んでしまった。悲しみのあまり、少年の亡骸を火葬にも土葬にもすることなく、遺体を抱きしめ、顔に頬ずりをし、その手を握り締めて、やがて気が狂ってしまった。生前同様に少年を愛撫しながら、肉体が腐りただれてゆくのを惜しんで、肉をしゃぶり骨をなめ、結局は食べ尽くしてしまった。それからというものの、僧は山から村里へ下りてきては、新しい墓を暴いてはまだ新鮮な肉を食らう鬼と化してしまった。

 その村里に快庵禅師という高徳の上人が訪れた。当初は、村人たちは快庵禅師を件の僧と間違えて恐れていたが、やがて人違いとわかると事情を話し出した。

 話を聞いた禅師は翌日、荒れ果てた寺を訪れる。枯れ木のように痩せた僧が現れ、寺を去るように話す。禅師は一夜の宿を借りたいと言うと、僧は好きにすれば良いと答えた。その夜、僧は禅師を襲おうとするが、どこを探しても禅師の姿は見えなかった。翌朝、禅師が夜通しずっと同じ場所にいたことに気が付く。禅師は、僧に「愚僧の肉が食べたければ食べるがよい」と言う。僧は、禅師を見て生き仏ゆえに、鬼の濁った眼では昨晩、姿が見えなかったはずだと感心する。
 
 禅師は自身がかぶっていた青頭巾を僧の頭にかぶせ、「江月照松風吹 永夜清宵何所為 (こうげつてらししょうふうふく えいやせいしょうなんのしょいぞ)」という歌を授け、「おまえはこの場を動かずにこの句の真意を考え抜け。もし、真意が理解できたときは、本来の仏心にめぐり逢うことができる」といった去っていった。

 翌年の冬の十月の初旬に、再び快庵禅師はこの村里に立ち寄られた。里の長に僧のその後の消息を聞いたが、あれ以来里には姿を見せないと言う。禅師が寺を訪れると、うすぼんやりとした影のような人物が草の茂みの中で蚊の鳴くような声で、かの歌を唱えている。禅師は即座に持っている禅杖で「如何に、何の所為か」と喝を与えて僧の頭を打つと、僧の姿は一瞬のうちに消えて、青頭巾と白い骨だけが草葉の中にとどまっていた。

虚無への供物〈上〉 (講談社文庫)
中井 英夫
講談社

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中井英夫全集〈1〉虚無への供物 (創元ライブラリ)
中井 英夫
東京創元社

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凶鳥の黒影 中井英夫へ捧げるオマージュ
赤江 瀑,有栖川 有栖,嶽本 野ばら,恩田 陸,笠井 潔,菊地 秀行,北村 薫,北森 鴻,倉阪 鬼一郎,竹本 健治,津原 泰水,鶴見 俊輔,中井 英夫,長野 まゆみ,三浦 しをん,皆川 博子,森 真沙子,山田 正紀,本多 正一
河出書房新社

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マイノリティと文学 「謡曲・松虫」

2008-12-06 01:51:53 | 文学
 古今和歌集に「秋の野に人松蟲の聲すなりわれかと行きていざとむらはん」という読人知らずの歌がある。松虫の「まつ」は「待つ」の掛け言葉になっている。この和歌をベースに、男性の同性愛を描いたのが、謡曲「松虫」である。この和歌の「とむらはん」は、尋ね訪う意味の他に、本曲では「弔う」の意味も持っている。

 話は、大阪市の南の阿倍野の地が舞台となる。阿倍野の市で酒を売る店へ、いつも仲間を伴い飲みに来る男がいた。ある時、その男が酒屋の主人の前で「松虫の音に友をしのぶ」と語ったことから、主人は男にその次第を尋ねる。

 男が語った事、「昔、この阿倍野の松原を仲のよい二人の友が連れ立って通った。その折に、松虫の鳴く声が面白く聞こえるので、一人が秋の野にその声を慕って入っていった。もう一人は、暫く友を待っていたが、なかなか帰ってこなかったので、心配して野に探しに行った。すると、友は露の置いた草の上に倒れて死んでいた。『死なば一所とこそ思ひしに。こはそも何といひたる事ぞとて。泣き悲しめどかひぞなき』(死ぬ時は、必ず一緒に死のうと思っていたのに、これはもうどうしたら良いのだろうと泣き悲しんだが、今はどうする事もできない)。仕方なく、友の亡骸をそこに埋めたのです。実は、私は今でもその友の事が懐かしく思われて、松虫の声に誘われて、このように人の姿で現れてきた亡霊なのです。」

 間狂言の里人の語りで、男は友の後を追って、その場で自害したことが判明する。主人は、この男のために、阿倍野の原で一夜を過ごし、夜通し経を読み回向をした。そこへ男の亡霊が現れ、回向を感謝するとともに、虫の音に興じて舞を舞った後、姿を消した。その後は、ただ朝の野に鳴く虫の音だけが残っているばかりであった。

『面白や。千草にすだく。虫の音の機織る音の きりはたりちよう きりはたりちよう。つづりさせてふきりぎりすひぐらし。いろいろの色音のなかにわきてわが忍ぶ。松虫の声。りんりんりんりんとして。夜の声めいめいたり』

 この作品で松虫とは、現在の鈴虫の事であろう。なお、キリギリスはコオロギの事である。友情を超えた恋愛感情からの男の執念が阿倍野の野に留まっている。

 現在、この話にちなんだ「松虫塚」が阿倍野に残っている。

上町線 松虫駅・松虫塚


 参考文献 佐成謙太郎「謡曲大観第五巻」(明治書院)
      野上豊一郎編 解注 謡曲全集巻四 (中央公論新社)

五説教(水上勉訳・横山光子脚色)

2008-11-23 19:01:31 | 文学
 先日、第6回八王子車人形と民族芸能の公演に行った時、休憩中にロビーでは、伝統芸能の継承団体のワークショップが行われていた。説教節の会では、説教浄瑠璃の床本も売られていた。、買い求めたかったが予算の都合で断念した。その傍らに置いてあったのが、「五説教」(水上勉訳・横山光子脚色・若州一滴文庫)であった。訳というのは東洋文庫版の「説教節」の訳である。

 中世、ほとんどの人間が文盲であった。筵(むしろ)に座り、ささらを摺りながら説教節は語られた。人々は、水上氏が言うように説教節を聴くことにより「路傍で道徳を拾ったのである」。仏教の思想が根底にある語り物には、日本人の精神に影響を与えた人間ドラマがあった。もちろん、勧善懲悪にしろ、人としての生き方などは当時の人々の考え方を反映したものだったが、後の日本文化にも影響を与えた。昔の人だったら、小栗判官と照手姫、石童丸、信徳丸という名前を聞けば、脳裏に一つの物語を思い浮かべることが出来たのだろう。現在の日本人には、一部の人にしか、そうした名前からイメージを浮かべる人がいない。

 安寿と厨子王丸の話は、少し前の子供なら知っていただろう。東映動画でも「安寿と厨子王丸」が1961年に製作されている。(内容はかなり改編されているが)。森鴎外は小説「山椒大夫」を執筆した。しかし、その内容は、元の話にあった残酷さなどを切り捨てた合理的なものであった。おいらが観た、ふじだあさや作の「さんしょう大夫」は印象的な劇であった。前進座で上演された。客席を通って僧侶の一団が登場する。説教僧を思い起こす。舞台で笠と衣を脱ぐと、それぞれの役の衣装を付けた役者が現れる。説教の世界というイメージで劇が進行する。山椒大夫には金焼地蔵の霊験や、山椒大夫の首引きといった残酷なかたき討ちの場面が出てくる。こうした現代のリアリズムに合わない当時の人々の思いを伝えるための優れた演出方法に思えた。この劇を観て、自然と涙が出たことを思い出した。やはり、説教節の世界は、今の人間の精神の根底に流れているのかも知れない。

 小栗判官については、市川猿之助の歌舞伎や、横浜ボートシアターの上演作品でその名前は知っていた。信徳丸については、文楽・歌舞伎の「摂州合邦辻」に影響を与えている。また、寺山修司の「信毒丸」もその流れでとらえてもいいのかもしれない。「信太妻」も文楽・歌舞伎に素材を提供している。「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる信太の森の恨み葛の葉」の歌は有名であろう。最近、ブームとなった陰陽師「安倍清明」の両親に関する物語だと言った方が分かりやすい人がいるかも知れない。夢枕獏氏の作品にも、清明は狐の子供だという噂があったとの記述があったと記憶している。

 説教節の世界は、後の日本文化にも多くの影響を及ぼしたのと同時に、日本人の精神の源流の一つとなっていると言っていいのかも知れない。

 子供の教育問題が叫ばれてから久しい。水上勉氏は説教節を現代語に訳して、母から子に語って欲しいと願っていた。そうした道徳教育があってもいいと思っていた。現代に説教節を残すことを切望していた。一方、「語り」を続けられていた横山光子さんは、説教節の「語り」を大人のために上演したいと思っていた。この2人の思いが合わさった時に出来たのが本書である。※東洋文庫版の編者の思いも、説教節を現代人に残すことだった。


 本書では、東洋文庫版と違い、五説教に、愛護若の代わりに付録の信太妻が入れられている。なお、訳は原文の一部が省略されている。語りの台本として理解できる。東洋文庫で原文を読む他に、本書を声を出して読むこともいい試みかも知れない。内容を、機会があったらブログで紹介したいと思う。

 説教節は、八王子の車人形や佐渡の説教人形と共に地方の芸能として残った。
佐渡の文弥人形は、明治時代に説教人形を改良した人形劇である。説教節の代わりに古浄瑠璃としての文弥節が用いられている。説教節の流れを汲むものとして参考にすることができるあろう。演目の山椒大夫はかなり筋が変わっている。
 


佐渡の文弥人形「山椒大夫」



障害と文学 説教節「信徳丸」②

2008-08-21 00:24:30 | 文学
    あらすじ ~続き~

 和泉、河内、津の国の金持ちが集まって、何か豪勢な遊びをしようと、二月二十二日に四天王寺の蓮池の上に石の舞台を張って、稚児の舞の催しをすることを決めた。その年の責任者になった信吉長者は、さっそく信貴のの寺に信徳丸を迎えに行かせた。信徳丸に、四天王寺の稚児の舞を演じさせることにしたのだ。

 七日の舞の四日目に、信徳丸はこの舞楽を見にきた和泉の国の蔭山長者の娘の乙姫に一目惚れ。舞を途中で止めて、家来の仲光を伴って高安に帰ってしまった。恋の病に臥せってしまう。

 仲光の功により、信徳丸の手紙は乙姫の許に届き、乙姫から返事の手紙をもらうことが出来た。信徳丸は喜び、仲光はそのことを信吉夫婦に報告した。
 これを聞いた母親は、よせば良いのに「観音菩薩はこの子が三歳になった時に、両親のどちらかが命を落とすとおっしゃったのに、十三になっても何にも起こらないではないか。仏様も嘘を申したのだから、私達人間も上手に嘘をついて世渡りをしようではないか」と口を滑らしてしまう。結局は仏の知るところとなり、その日の夕に命を落としてしまう。
 
 長吉長者はすぐに公家の家から18になる後妻をもらうことになった。信徳丸は「母上様の百か日がたたないうちに、後妻をもらうとは何事ぞ」と泣くより他になかった。

 やがて継母は若君の乙の二郎をお産みになったが、自分の産んだ子供を世継ぎにしたいと願った。信徳丸は継母から憎まられることになる。継母は呪いの六寸釘を都の寺社をめぐって、合計136本も打ち付けたのであった。終には継母の呪いによって信徳丸は失明させられてしまった。そして癩(らい・ハンセン病)にも侵され、家から追い出されてしまった。長者は、仲光に命じて信徳丸を四天王寺に捨てさせたのだ。

目を覚ました信徳丸は、自分が四天王寺に捨てられたことに気が付く。手元には、蓑・笠・杖・器をいった物乞いをするための道具が置かれていた。不憫に思った清水の観音は、信徳丸の夢枕に立ち、今の状態は呪いによってもたらされた事、物乞いをしながら何とか食いつなげとお告げになった。町屋の人は、空腹からよろめくと思い、信徳丸を弱法師と呼んだ。人々は1、2日は恵んではくれるがそれ以上は恵んでくれなかった。清水の観音は、虚空から熊野の湯に入れば病が癒えると信徳丸に再び告げる。

 信徳丸は熊野を目指す。現在の貝塚市にある地蔵堂で休んでいると、清水の観音が旅の修行者に身を変えて、この先の金持ちから施行を受けるように告げる。その屋敷は乙姫の屋形だった。家人が信徳丸である事に気が付き、屋敷の者に告げるのを聞き、面目がないと信徳丸は門の外へと出たのである。これを恥じた信徳丸は、四天王寺に戻り、縁の下で飢え死にしようと決意する。

 三日経ってから、乙姫はこの話を女房たちから聞く。乙姫はすでに信徳丸が継母から呪いを受けて四天王寺に捨てられた事情も知っていた。きっと、自分に逢いにきたに違いないと思った乙姫は、両親を説得して信徳丸を探す旅に出た。巡礼の姿に身を変えて、信徳丸が引き返したことを知らずに熊野を目指す。苦労の旅も報われることなく、次は縁の四天王寺へと向かうのであった。
 四天王寺の石の舞台に上がり、過去の稚児の舞を回想する乙姫。この上は、袂に小石を入れて池に身を投げようとするが、引声堂(いせいどう)を訪ね残したことに思い至り、引声堂で鰐口ちょうどうち鳴らし、「願わくば夫の信徳丸に尋ね合わせてたまわれ」と深く祈請なさった。

 この時、後ろ堂より、弱った声で物乞いする声を聞いた。乙姫は縁から飛び降り、後ろ堂に回って、蓑と笠を奪い取ってみると信徳丸であった。乙姫は信徳丸に抱きつき、名乗るように促した。一度は拒否した信徳丸であったが、乙姫の心情に打たれ、今までの事情を話し、乙姫に実家に帰れと告げる。

 乙姫は、ハンセン病の信徳丸を肩に担いで、町屋に出て物乞いをするという。実家を出てくる時に母親から貰った黄金を食べ物に換えて、都の清水を目指すのであった。清水で観音の用意してくれた羽ぼうきで前の晩のお告げの通り、信徳丸の身体を上から下へ、下から上へ「善哉なり」と言いながら三度撫でると、信徳丸の身体から135本の針が抜け、元の体に戻った。この事を知った蔭山長者は、急ぎ二人に向かいの者を出すのであった。

 長吉長者は盲目となり、財産も失う身となり、流浪の人となった。後に、信徳丸と対面でき、例の観音から頂いた羽ぼうきで両眼も見えるようになった。継母と乙の二郎はお白洲に引き出され、首を切られて捨てられた。

障害と文学 説教節「信徳丸」①

2008-08-12 01:00:47 | 文学
 あらすじ
河内国高安軍に信吉(のぶよし)長者という金持ちがいた。財産はたくさんあるものの子供には恵まれていなかった。明け暮れこの事を悲しんでいたが、東山清水寺の観音に祈願することにした。寺の左の方向にある屋形に籠った夜に、枕元に観音がお立ちになった。信吉長者に子が生まれないのは、前世に犯した殺生のせいであるといわれる。夫は、前世で丹波の国、のせの郡の山人だった時に、春になったらゼンマイやワラビを採ろうと、山に火を放ったが、12の卵を巣で守っていた雉の母鳥を焼き殺してしまった。父鳥は、山人が人間に転生した時に、その子種を食べてしまうという一念を残して自らの命を絶った。妻の前世は、近江国、瀬田の唐橋に住む大蛇だった。橋桁に燕の夫婦が巣を作り12の卵を産んだが、燕の留守に巣ごと卵を飲み込んでしまった。嘆き悲しんだ燕の夫婦は自ら命を絶つが、大蛇はこれをも飲み込んでしまう。この時の燕夫婦の一念妄念が妻の子種を食べているのだった。前世での行い故、明日になったら高安に帰りなさいとの夢のお告げ。
 夢から覚めた長者夫婦はめげることなく、「もし、子供をお授けくださらないなら、御前で腹を十文字にかき切って内臓をつかんで出してから、ご神体目がけて投げつけて、荒人神になって、参詣の人を取って食ってやるほどに、七日とはいわず、3年以内に草木を生やし、鹿の住処にしてやろう」と仏を脅迫する始末であった。それを聞いた屋形に久しく住む翁が、さらに7日間籠って、観音にお願いするようにアドバイスした。長者夫婦は両人共に、願いがかなったら寺に多くの寄進をすることを記した願状を書いて重ねて7日間籠った。かたじけなくも寺の別当が、願状を読み上げて下さった。
 再び夢の中に現れた観音は「子供を授けるが、子が7歳になった時に両親のどちらかが死なねばならぬ。包み隠さずにどちらか選べ」とのお告げ。夫婦は、子供の誕生を選んだ。
 やがて玉のような男の子が生まれ、例の翁から「信徳丸」と命名された。長者夫婦は大切に育て、信徳丸9歳の折、信貴のの寺(信貴山朝護孫子寺)に預け学問を学ばせた。3年の後、寺一番の学者となった。
~  続く  ~

☆拘拏羅太子の話からも、継母の邪恋という内容で、「信徳丸」と親戚関係にある説教節「愛護若(あいごのわか)」参照のこと。後の浄瑠璃『摂州合邦辻』(せっしゅうがっぽうがつじ)につながっていく。文楽・歌舞伎で現在も上演されている。『愛護若』については、折口信夫『愛護若』をお読みください。青空文庫から閲読可能です。

障害と文学 説教節「信徳丸」 はじめに

2008-08-07 09:11:54 | 文学
 説教節は、時代とともにすたれていきました。地元の八王子車人形には、説教節の演目が残っていますが、最近では義太夫で演じられることが多くなっています。又、新内や落語などとの共演もされる様になっています。地元には、車人形の地語りとして、かろうじて説教節が残っていました。12代目の薩摩若大夫の時に、高齢で後継者がいないことから、薩摩派の説教浄瑠璃の流れが途絶えてしまう恐れもありましたが、伝承者が現れて薩摩若大夫の名跡も続いています。

 俊徳丸が住んでいたといわれる、大阪八尾市の山畑地区に「俊徳丸鏡塚」という遺跡が残っています。本当は、6世紀に造られた高安古墳群に属する横穴式石室墳墓ですが、いつの頃からら俊徳丸の伝説と結びついたようです。それだけ、俊徳丸の話は当時の人々にはよく知られた話だったのでしょう。


俊徳丸鏡塚古墳



障害と文学 「弱法師」追記②

2008-08-05 17:32:38 | 文学
  ―続き―

 夜になって、太子は琴をお弾きになった。大王が高楼におられたが、かすかにこの琴の音をお聞きになると、わが子の拘拏羅(くなら)太子のお弾きになる琴に似ていた。そこで使いの者を出して、「この琴を弾くのは、どこの誰か」とお尋ねになったが、使者が象小屋にたどりついてみると、一人の盲人がいて琴を弾いていた。妻を連れていた。使者が「そこにいるのは誰か」と聞くと、盲人が答えて、「私は阿育大王の子の拘拏羅太子だ。徳叉尸羅国にいる時に、父の大王の宣旨によって両眼を抉って捨て、国境を追放されたのでこのように放浪しているのだ」と言った。

 使者は驚いて急いで戻ると、この事を報告した。大王はこの事をお聞きになるとびっくり仰天され盲人を召して事情をお尋ねになった。太子はこれまでの経緯を申し上げた。大王はこれはすべて継母の仕業だと悟って、ただちに妃を罰しようとされたが、太子は懸命に制止して処罰を思いとどめらした。

 大王は泣き悲しんだ。菩提樹の寺に一人の羅漢がおられたが、名を窶沙大羅漢(くしゃだいらかん)と申し上げた。三明六通(さんみょうろくつう・神通力)に優れていて、人を利益(りやく)することは仏のようでった。大王はこの羅漢をお招きになって「どうか聖人、慈悲を以て我が子の拘拏羅太子の眼を元通りにして下さい」と泣く泣くお頼み申し上げたが、羅漢がおっしゃるには「私が仏の優れた教法を説いて差し上げましょう。国中の人は皆来て聞いて下さい。各人が一つの器を持って、説法を聞いて貴んで流す涙をその器に受けて、それで以て太子の眼を洗えば元通りになるでしょう」。大王は宣旨を出して、国中の人を集めた。遠くからも近くからも雲が湧くように人々が集まってきた。

 その時羅漢は、十二因縁の法を説いた。ここに集まった人々は皆この説法を聞いて貴んで泣かない者はいなかった。その涙を各人の器に受け、それを集めて黄金の器に置いて、羅漢は請願して言った。「およそ私の説く所の法は諸仏の至上の教理です。この教理がもし真実ではなく、説く所に過ちが有るならば、この願いは叶えられないだろう。もし真実であるならば、ここに集まった人々の涙でもって太子の見えない眼を洗えば、もとのようによく見えるようになるでしょう」。このような請願を立てて、涙で眼を洗うと、失われた眼が再生されて、もとのように見えるようになった。その時に、大王は頭を垂れて羅漢を礼拝して喜ぶことは限りがなかった。その後、大臣以下の役人を召して、あるいは官を取り上げ、あるいは罪のない者を許し、あるいは他国へ追放し、あるいは死刑にした。

 かの太子の眼を抉った所は、徳叉尸羅国のはずれの東南の山の北側だった。そこに仏塔を建てたが、高さは十丈余りであった。その後、国に盲人がいれば、この仏塔に願をかけて祈ると、皆もとのように目が見えるようになったと語り伝えているということだ。


 こうした話がインドから伝えられて、謡曲「弱法師」・説教節「信徳丸」などに影響を与えたとする説である。なお、「阿育王経」では、妃は罪の発覚後に焼殺され、徳叉尸羅国の人も殺されている。
 浄瑠璃「摂州合邦辻」は、「弱法師」「信徳丸」あるいは説教節「愛護若」の流れを合わせたものとされるが、遥かなる原話としてのインド経由の話の関連性も問題となる可能性あり。

参考文献:池上洵一編「今昔物語集 天竺・震旦部」(岩浪文庫)
      池上洵一訳注「今昔物語集 8 天竺部」(平凡社東洋文庫)