路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

玉葱の離れ易げに断ち難く

2013年06月29日 | Weblog


 清水真木『忘れられた哲学者 土田杏村と文化への問い』(中公新書 2013)
 土田杏村が新書になるとは思わなかった。もっとも、本書は彼の哲学の解析であるみたいだから(まだ半分くらいしか読んでないけど)、杏村の本格的な評伝はまだないわけだ。
 かつてそれを夢見た人はいたわけだけど。


                     


 もう40年近く昔、卒論(のようなもの)に土田杏村やることになって、全集読もうとしたけどさっぱり歯がたたず、とりあえず参考文献あさるしかないから図書館行ったりして史料集めをボチボチと、ということになったのだけれど。
 今とちがってネットなんてないから、杏村出てきそうな時代の研究書なんかから適当に参考できそうな論文を見つけて、とやりだしてすぐに途方に暮れた。
 土田杏村って、先行研究全くないのである。(本書によれば今もほぼ同じらしい。)
 彼に関する書籍は皆無。彼に関しての論文等もほぼ見つけられない。
 全15巻の全集があり、大正から昭和にかけて当時の論壇の花形といってもいい存在だった人物のはずなのに、昭和9年に死んだあとは誰一人顧りみる者がいない。死後半世紀も経たない時点で、評価される以前に完璧に忘れられている、そんな人物がいるというのが驚きであった。

 それでもいくつかの関連書というものを遠巻きに眺めているうちに、そんな一面荒野のなかでたった一人だけ、上木敏郎という東京の私立高校の先生が杏村研究をしているらしいということがわかってきた。本当にたった一人だけ。
 自由大学等の傍証からさがしていると、杏村そのひとに関しての参考文献はほぼ無いけれど、ときどきその上木という人が「自由大学と土田杏村」みたいな論文を書いてるのにぶつかる。どうやらその人はまったく独力で「土田杏村とその時代」という個人誌を編集もしているらしい。


                     


 ということで、国会図書館で「土田杏村とその時代」を閲覧し、奥付にあったその上木敏郎というひとの都営住宅の住所に手紙を出した。卒論(のようなもの)に土田杏村を書くにあたりどうかご教示を、ということだけど今から考えると冷汗ものである。

 上木先生からはしばらくして葉書をいただいた。お会いしたいが現在体調を崩して入院中なので、ということであった。
 結局、卒業までにはお会いすることはできなかった。

 上木先生と一度だけお会いしたのは、卒業した年の秋ぐらいだったか。
 恩師のG先生といっしょに面会した。その経緯も場所もすっかり忘れてしまったけれど、そのときのことは覚えている。
 G先生がワシの卒論(のようなもの)を上木先生に渡すと、先生はいきなりその場でその卒論(のようなもの)を黙読し始めた。
 先生が読まれているあいだの数十分ほど、あのときほどイタタマレない、というか穴があったら入りたい、というか舌噛んで死ンジャイタイ、思いをしたことはない。
 なぜなら、今目の前で読まれているワシの卒論(のようなもの)は、まさに今読まれている上木先生の「土田杏村とその時代」のなかの御当人の論文を切り貼りしてデッチ上げたシロモノ、あきらかな剽窃論文なのだから。


                      


 その後数日して、上木先生から書籍小包が届いた。中には「土田杏村とその時代」の十二・十三合併号と、何冊かの抜刷論文が入っていた。今久しぶりに取り出してみると短い手紙があって、そこに「先日の写真ができたから・・・」という文面があるけれど、写真はどこかになくしてしまったらしくみつからない。ちゃんと取っとくべきだったよなあと思うけれど、というかちゃんと礼状出した記憶も無いけれど。

 それからまたしばらくして、上木敏郎著『土田杏村と自由大学運動』が出版されて、一応買ったけれど、そのときにはワシの興味も杏村から離れてしまっていてパラパラ読んだだけであった。
 なんだか本の紙質も薄いような、杏村の完全な評伝を目指していた上木先生だけれど自由大学限定の著作で、想いを遂げられる、というのとは少し違うのではないだろうか、と思った記憶がある。


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