路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

枯木星青春散ってのちの瑣事

2014年03月15日 | Weblog


 たまには何かブログにでも、と思って・・・。
 でも特に書くこともないなあア。
 ていうかブログの投稿の仕方忘れちまったゼ。


                      


 『放送大学日本史学論叢』創刊号を御恵投いただく。
 多謝、であります。


                      


 「放送大学大学院歴史研究会」という団体が何年も前から存在していて、活発に研究活動継続中であるらしい。
 全然知らなかった。

 「論叢」の目次で見れば、論文三篇に研究ノート二篇。
 研究ノートの一篇が、五味文彦「『中尊寺供養願文』の成立」だから、その意味では贅沢な雑誌である。

 内容はこれから読んでみますが、在野の志たちの船出を寿ぎ、今後の航海の永い安寧を祈願する所存。


                      


 て、ブログって、こんなもんでよかったのかなあ。

 春待つこころに少しだけ日のさす頃か。



秋冷や税吏眼鏡を拭いおり

2013年11月03日 | Weblog


 ブログ更新やめたらなぜか閲覧数増える、というね。
 それも昔の記事ばかり人気がある、という現実。


                          


 どうも古本まつりやら古書市やら、(地元を含めて)いろいろあって、なあ。
 地元の分は、ワシの予期に反してけっこう盛況らしい。この街にそんなに本読むやついるとも思えんのだが。

 実際出かけてみると、だいぶいいラインナップだったりする。


                          


 大江健三郎『夜よゆるやかに歩め』(中央公論 昭和34年)初版であります。
 そんな古書イベントの某所で拾ったのであります。
 当時の定価240円、3,500円で出ておりました。普通買わないんですが、つい気が大きくなって、というか、検索してみるとたいがい1万円前後つけております。2万円とか3万円とかいうのもある。だからなんとか御海容願う所存であります。


                          


 装幀が佐野繁次郎、口絵の筆者近影は土門拳で、発行者栗本和夫。このころ大江はすでに「芽むしり仔撃ち」を出していて、まさに時代の寵児であったのでありましょう。中央公論もそれなりに力入ってますぜ、というところでしょうが、でもご存じのとおり今や絶版、というか筆者本人により「封印」されたとされる小説であります。
 封印本としては「政治少年死す」というのが、そもそも出版されてないわけですが、コッチは政治的理由からなのに対して、「夜よ・・・」の方は、婦人公論連載、筆者唯一の通俗小説がゆえにその後なかったことにされた、という認識が正しいのかどうか、大江の読者というわけでもないので正確にはわからんのですけど、ともかく今やほぼ手に取ることは不可能、というわけであります。

                        
                          


 で、さっそく読んでみました。
 スラスラ読めました。その後のこの人の難解な文体に比べればぜんぜん問題なし、というか見事といっていい文章だと思いました。特に比喩の使い方の卓抜さは(ことに前半では)見事、と言っていいと思いました。

 大学生の主人公と年上の従兄の妻との恋とその破局の物語、と書いてしまって、まさにそのまんま、フツウこのノーベル賞作家ならもっとグネグネ捻ってるでしょう、というところがしごく素直にお話が進んで、特に後半あたりは確かに通俗といえば通俗、というか作者だんだんドーでもよくなってきたんじゃなかろうか、という感じはいたしますが。
 ただ一貫して文体、構成緩みなく、この辺はサスガ、というか作者の若さの充溢を感じさせます。
 例えばこれが中村真一郎とか辻邦生とかだったら充分に準代表作で通ったんじゃなかろうか、という程度にはタイしたもんだとは思いましたがねえ。なんで封印したんだろう。
 どうやら、何書いても「文学」になってしまう、って人はいるんですなあ。

 やっぱりその才能において傑出してる、というか、戦後日本文学てのは結局大江健三郎ひとりでいいんじゃないの、といったら文学好きの皆様からは呆れられる、というか相手にされないんでしょうが。


                          


 素直に読めたのは、名詞がちゃんとした名前(康男とか節子とか)なのもありましょうな。ただ一部なぜかSというイニシャルだったり、《香港生れ》という人物名だったりするのは後年の萌芽か。この辺は専門家が解釈済みではありましょう。

 それから、「個人的な体険」とか「万延元年のフットボール」とかでの最終段階での唐突な命の救済に対して、この小説では誕生すべき命が最後にきてあっさり殺され、さらにはその母体までもが最後、ある種都合よく亡き者になる、という展開が印象的でした。
 このへんにこの作品が「封印」された遠因のひとつがあるのでは、というのはたぶん誤読なんでしょうね。

 てか、なぜか「です、ます」調でお送りいたしましたですが。



焦慮なり月の光に身を入れぬ

2013年09月19日 | Weblog


 もうブログなんか書くことない、つもりでいたんだけど。
 パソコン新しいの買っちまって。
 今までのは10年くらい使って、たえず危険にさらされてるみたいだし、ネットの途中で時々画面が黒くなって横文字一面出てきたり、なにより反応がすごく遅くて、というようなわけで遂に禁断の新しいのに、というわけ。
 要するに、新しくなったらキーボード打ってみたい、みたいな的なハナシ。


                              


 ようやく秋めいて、どうにか息つける季節になったけれど。
 この夏は本当に暑かったから、ほとんど読書らしいことしなかったが。

 なに読んだかといえば、なぜか木山捷平。
 木山捷平は、地元の図書館にも無いに等しく、読めるとしたらかつての旺文社文庫か、今なら講談社文芸文庫しかない、といっていいんだろうが文芸文庫なんかこのへんの本屋にはほぼ絶対売ってないし、というわけで架蔵のもの出してきて、それらを再読三読して酷暑を凌いだというわけ。
 
 それにしても、文芸文庫、高いよなあ。


                              


 歳とるにつれ(なのだろうが)私小説ばかりに惹かれるのはなぜだろう。
 もっとも木山捷平、ほんとに私小説か?そうみせかけて実は巧妙に虚構に人生をまぶしている感がないでもないが。

 飄逸というのか、韜晦というのか、雑駁なようで巧緻、曖昧なようで適格、悲惨が滑稽だったり、安穏が晦渋だったりして、ほんとこの人は油断ならない。
 その油断なさにすっかりマイってしまったわけだが。

 そもそも昭和19年の12月、40歳を過ぎて家族と離れノコノコ満州に就職しに行くというのは、間抜けなんだかヤケクソなんだか。
 翌年(昭和20年)の8月12日に召集されるというのは、神様におちょくられてるのか。
 ともかく、そこで乳母車にボール投げつける訓練、(ソ連軍の戦車に爆弾投げつける擬似訓練)させられたりなんかして、そのまま敗戦後も内地に戻れなくなり一年以上満州に留まらざるを得なくなる。
 その過酷な満州体験が『大陸の細道』や『長春五馬路』その他の作品となって結実するわけだが、読者からみればやっぱりそれがよかったよな。それがなければ唯の飄逸な私小説作家として本当に忘れ去られていただろう。


                              


 長春(かつての満州国の首都新京)には約10万人の日本人がいて、敗戦後避難してきたのが約15万人、計25万人の日本人のうち戦後一年で8万から10万人が死亡したらしい。

 その中の一人として筆者も白酒の行商やボロ屋をしながら糊口をしのいでいたわけだけれど、日中軽々に出歩くこともできない。下手に外出してソ連兵にでもみつかれば日本人は誰彼かまわず拉致されてシベリヤへ送られる、という嘘のような史実があって、しかし外出せざるをえない場合も当然あって、そういう場合はどうするかというと同じ避難所にいる「半後家」の幼い娘を金を払って借りる。幼児を背負っていれば、ソ連兵も子供を引きはがしてまで拉致するのは面倒だから安全なのだ。
 避難所には夫が拉致されたり殺されたりした女たちが、体を売ったり子供を貸したりしながらなんとか生きていたわけだ。

 というのが短編「苦いお茶」の導入であるが。

 この「苦いお茶」、とんでもない名作だな。なんとなく読んでしまうと名作であることなど簡単に見落としてしまうほどしたたかな名作だな。


                               


 で、それから十数年後、主人公(正介)は都内の図書館で、かつて賃借して長春を背負って歩いた娘(ナー公)に再会する。
 彼女は二十歳の短大生になっていた。彼女の父親はシベリアから帰って来なかった。母親は復員後三年目に死んだ。その後伯父に引き取られ短大に入り来年からは幼稚園の先生になるという。
 偶然の再会に喜んだふたりは久闊を叙して居酒屋で飲む。どちらもホロ酔いになって、顔をあかくしたナー公が不意に言う。
 「ねえ、小父さん、十何年ぶりで逢えた記念に、あたしを負んぶしてくれない」
 
 かくして主人公は、かつて満州でそうしたように、すっかり大人になったナー公を背負って狭い居酒屋のなかをよろよろと歩き回るのであったが。
 すると、客の中から一人の学生が立ち上がって叫んだ。
 「すけべえ爺、もういいかげんにしないか。ここの、この、大衆酒場を何だと心得ているのか」


  正介がしまったと思った時、ナー公が正介の背中からとびおりて叫んだ。
  「誰がすけべえ爺か。もっとはっきり言うてみ。人間にはそれぞれ個人の事情というものがあるんだ。人の事情も知らないくせに、勝手なことをほざくな」
  数十人の飲み客が総立ちになった。
  その中でナー公は、きりっとした顔を学生の方にむけて睨みつけ、微動もしなかった。



 何度か読んで、ここに差し掛かるたびに泣きそうになる。

 木山捷平、どれを読んでも、泣きそうになる。
 なにがなんだかわからないままに、下世話で粗忽で、それで結局泣きたくなる。
 タイシタ芸だぜ。

 というわけで、やっぱり泣きそうになる短詩をひとつ。


  濡縁におき忘れた下駄に雨がふってゐるやうな
  どうせ濡れだしたものならもっと濡らしておいてやれと言ふやうな
  そんな具合にして僕の五十年も暮れようとしてゐた

                           木山捷平「五十年」






  

今朝秋のその懐旧の捨てどころ

2013年09月07日 | Weblog


 六月尽のまま二ヶ月以上ブログにはご無沙汰ではありましたが。
 まあ、ツイッター覗いてるほうが面白くて、ブログへの興味ほとんど無くしていたわけでありますが。
 というか、この夏のクソ暑さに茫然自失というか腹をたててというか、どうなってんだホントウに。暑すぎるにもホドがある。


                   


 でまあ、ようやくちょっと涼しくなったので、なんか書くかなあ、ということだけれど。
 この間何をしたかといえば、タイシタことはしてないのだけれど、というか暑くてほとんど何もしてないのだけれど。
 映画「舟を編む」見たのはいつだったかな。けっこう好きな映画だった。
 それから、時流にのって「風たちぬ」なんかも見たぞ。

 まあ、宮崎アニメ近作、千と千尋とかハウルとかポニョとか、どうなんだというか、何がしたいんだハヤオ、みたいな作品だったから、それが今度は堀辰雄だというからイソイソと見に行ったわけだけれど。


                   


 ウーム、どう書いたらいいのか。
 えーと、細かいこと言うとこから入れば、理乙の学生らしき人物がヴァレリー読めたってそりゃ別にかまわないわけで、ゾルゲらしき人物の名前が魔の山のハンス・カストルプだってもちろんいいわけで、そもそも、飛行機設計家の妻が結核だってかまわないし、金持ちのお嬢様の亭主がヘビースモーカーの技師だっていっこうにいいよ。だいたいが、戦闘機オタクの戦争嫌いを自称するひとが作ってるんだから。
 というわけで、何が言いたいかといえば、ずいぶん乱暴、もしくは相当に強引な映画だった、ということで。
 ということで、モロモロ端折って言ってしまえば、挽歌として傑作だったと思いました。
 なんやかんや、すったもんだ、どんなもんだすべて背負って一気に背負い投げ、みたいな映画で、結局、美しい飛行機を作りたい、みたいなことで乾坤一擲ともかく決まった、けれどもサテどうすんだよこれから、これでは巨大な穴ぼこ入っちまったまま、ニッチもサッチもどこへも抜け出せんぜ、と思っていたら、ミヤザキさん辞めちゃうんだってね。まあ、しょうがないか、ということであります。
 ほんとの挽歌だったわけだ。


                    


 でもって、われながらその陳腐さにあきれるけれど、この映画見ながら思い浮かべていたのは、立原道造だよなあ、という安直なハナシ。
 たぶん、百人中八十七人くらいはそう思って、それは口にしないでおこうぜ、恥ずかしいから、ってことになってるような気がする。



  逝いた私の時たちが
  私の心を金にした 傷つかぬやう傷は早く復るやうにと
  昨日と明日との間には
  ふかい紺青の溝がひかれて過ぎてゐる

  投げて捨てたのは
  涙のしみの目立つ小さい紙のきれはしだった
  泡立つ白い波のなかに 或る夕べ
  何もがすべて消えてしまった! 筋書どほりに

  それから 私は旅人になり いくつも過ぎた
  月の光にてらされた岬々の村々を
  暑い かわいた野を

  おぼえてゐたら! 私はもう一度かへりたい
  どこか? あの場所へ (あの記憶がある
  私が待ち それを しづかに諦めた――)

                   立原道造「夏の弔い」


 なあんか、物語後半、この詩の最終連三行がしきりと反復されるばかりでありました。

 というわけで、夏も逝くのでありました。



ひととあわねばひとさわがしき六月尽

2013年06月30日 | Weblog


 三十数年ぶりに上木敏郎先生の書籍小包開けてみた、という続き。
 入っていたのは、「土田杏村とその時代」の十二・十三合併号と、抜刷論文4冊。1970年から81年にかけてのもので、「精神的中国大使土田杏村」「土田杏村と山村暮鳥 -往復書簡を中心にー」「土田杏村伝記資料蒐集の十四年」「土田杏村と吉野作造 -吉野書簡を中心にー」

 「土田杏村伝記資料蒐集の十四年」(1979 成蹊論叢)によれば、上木先生が杏村に興味をいだいたのは少年期。(先生は大正11年の生まれ)杏村没後まだ10年もたたずに杏村がすっかり忘れ去られていることに衝撃を受け、杏村の本格的評伝を志す。けれども、兵役にとられ思うに任せず、戦後、彼を黙殺しあるいは誤解し続ける学界やジャーナリズムに激しく不満をかかえながら、実際に評伝の資料収集にとりかかったのは昭和40年すぎ、自身四十代半ばをすぎてからであった。


                     


 まず佐渡の新穂村の杏村生家を訪ね、関係資料の探索からはじめ、以後杏村生前に関わりが少しでもあったと思われる人物等に片端から手紙を出し、やがてそのうちの何人かと文通をかわすようになる。最初はすべて手書きで書いていたが、それではとても間に合わなくなり、ガリ版刷りで「故土田杏村伝記資料蒐集についてのお願い」をつくって発送するが、そもそも住所がわからない人物が多く、まずはそこからの探索であったという。
 かくして、乏しい糸を辿るようにして集めた資料を、これまたガリ版刷りの個人誌「土田杏村とその時代」を発行して世に問い続け、いつの日か本格的な「杏村伝」を上梓するために絶えざる営為を続けられたのだ。


                      


 今後土田杏村という人物の名前がどの程度残るものなのかわからないが、少なくともそのことのために人生を賭けたたった一人の人間がいたことを誰かが記憶しておくべきだろうと思う。

 上木敏郎先生は、敬虔なキリスト者でもあったらしい。




                       

玉葱の離れ易げに断ち難く

2013年06月29日 | Weblog


 清水真木『忘れられた哲学者 土田杏村と文化への問い』(中公新書 2013)
 土田杏村が新書になるとは思わなかった。もっとも、本書は彼の哲学の解析であるみたいだから(まだ半分くらいしか読んでないけど)、杏村の本格的な評伝はまだないわけだ。
 かつてそれを夢見た人はいたわけだけど。


                     


 もう40年近く昔、卒論(のようなもの)に土田杏村やることになって、全集読もうとしたけどさっぱり歯がたたず、とりあえず参考文献あさるしかないから図書館行ったりして史料集めをボチボチと、ということになったのだけれど。
 今とちがってネットなんてないから、杏村出てきそうな時代の研究書なんかから適当に参考できそうな論文を見つけて、とやりだしてすぐに途方に暮れた。
 土田杏村って、先行研究全くないのである。(本書によれば今もほぼ同じらしい。)
 彼に関する書籍は皆無。彼に関しての論文等もほぼ見つけられない。
 全15巻の全集があり、大正から昭和にかけて当時の論壇の花形といってもいい存在だった人物のはずなのに、昭和9年に死んだあとは誰一人顧りみる者がいない。死後半世紀も経たない時点で、評価される以前に完璧に忘れられている、そんな人物がいるというのが驚きであった。

 それでもいくつかの関連書というものを遠巻きに眺めているうちに、そんな一面荒野のなかでたった一人だけ、上木敏郎という東京の私立高校の先生が杏村研究をしているらしいということがわかってきた。本当にたった一人だけ。
 自由大学等の傍証からさがしていると、杏村そのひとに関しての参考文献はほぼ無いけれど、ときどきその上木という人が「自由大学と土田杏村」みたいな論文を書いてるのにぶつかる。どうやらその人はまったく独力で「土田杏村とその時代」という個人誌を編集もしているらしい。


                     


 ということで、国会図書館で「土田杏村とその時代」を閲覧し、奥付にあったその上木敏郎というひとの都営住宅の住所に手紙を出した。卒論(のようなもの)に土田杏村を書くにあたりどうかご教示を、ということだけど今から考えると冷汗ものである。

 上木先生からはしばらくして葉書をいただいた。お会いしたいが現在体調を崩して入院中なので、ということであった。
 結局、卒業までにはお会いすることはできなかった。

 上木先生と一度だけお会いしたのは、卒業した年の秋ぐらいだったか。
 恩師のG先生といっしょに面会した。その経緯も場所もすっかり忘れてしまったけれど、そのときのことは覚えている。
 G先生がワシの卒論(のようなもの)を上木先生に渡すと、先生はいきなりその場でその卒論(のようなもの)を黙読し始めた。
 先生が読まれているあいだの数十分ほど、あのときほどイタタマレない、というか穴があったら入りたい、というか舌噛んで死ンジャイタイ、思いをしたことはない。
 なぜなら、今目の前で読まれているワシの卒論(のようなもの)は、まさに今読まれている上木先生の「土田杏村とその時代」のなかの御当人の論文を切り貼りしてデッチ上げたシロモノ、あきらかな剽窃論文なのだから。


                      


 その後数日して、上木先生から書籍小包が届いた。中には「土田杏村とその時代」の十二・十三合併号と、何冊かの抜刷論文が入っていた。今久しぶりに取り出してみると短い手紙があって、そこに「先日の写真ができたから・・・」という文面があるけれど、写真はどこかになくしてしまったらしくみつからない。ちゃんと取っとくべきだったよなあと思うけれど、というかちゃんと礼状出した記憶も無いけれど。

 それからまたしばらくして、上木敏郎著『土田杏村と自由大学運動』が出版されて、一応買ったけれど、そのときにはワシの興味も杏村から離れてしまっていてパラパラ読んだだけであった。
 なんだか本の紙質も薄いような、杏村の完全な評伝を目指していた上木先生だけれど自由大学限定の著作で、想いを遂げられる、というのとは少し違うのではないだろうか、と思った記憶がある。


丘までの木漏れ日通り昼さがり

2013年06月16日 | Weblog


 神保町へ行ってきたけど、暑かったなア。
 都会の人は汗かかないらしい。当方汗だらけだけどな。


                     


 まあ、スーパー源氏神保町店見てきたわけだけど。数十分ほどの滞在ではワカランな。
 レジ近くの棚見てたら、関係者らしき人入って来て、レジにいた若い人と売上表みたいなの見ながら、安い文庫しか売れない(?)的なこと言ったようで、そしたらその若い人が「でも、善行堂さんでは千円くらいの単行本よく出ますよ。今朝もおじいさんがゼンコウドウ、ゼンコウドウ、って呟きながら入って来て、何冊か買ってきましたよ。」と言ってた。
 というわけで、ワシも善行堂で千円一冊買わせていただきました。

 一階上がってかんたんむの方がやっぱり古本屋感あっていいなあ。
 つん堂はみんなグラシン紙きれいにかけてあってタイシタもんだなあ。岡谷古本祭りでもそうだったけど。


                      


 というわけで暑くてタマラン。
 帰りに駿河台の坂上っていると明大前の並木の陰はちょっと涼しかった。
 そしたらそこを上のほうから、若いオニイサンがトロッコみたいなの押しながら、大声で「ビミョ―だなあ、ビミョーだよなあ。」と言いながらひとりゲラゲラ笑いながらおりてきた。

 ビミョー、なんだろうな、たぶん。



たそがれてつゆのみどりのなつかしさ

2013年06月02日 | Weblog


 五月ぜんぜんブログ更新する気がおきなかった。
 まだ一言も呟いてないけど、ツイッター見てるだけで充分に面白く、というか興味のありようがすっかりそちらになびいてしまって、ブログへの興味激減である。
 おそらくは今後わが生涯に好転的変転なにごとかないかぎり、ブログはサヨナラそのまんま、ということになりそうである。


                      


 ツイッターはいまひとつまだよくワカランので、なかなか呟けないのだが・・・。

 でもって、この間に読んだのが、大野更紗『困ってるひと』(ポプラ文庫)
 迂闊にも知らずにきて文庫化されてようやく読んだけれど、もっとはやく知っておくべきだった。
 健全で強靭な知性のありようが描かれて、近年の読書では出色だった。(というようなことをツイートすればいいんだろうな。)
 読み終わったところで、ツグミに何か面白いものないかと聞かれたので、禁を破って薦めてしまった。


                       


 その交換、というわけでもないが、増田こうすけ『ギリシャ神話劇場 Ⅰ』というのを貸してくれたので、ツレズレなるままに読んだりした。
 ヒザカックンがうまく入ると笑えます、みたいな日常にちょうどいい。


                        


 というわけで、GK川島がはじきそこねたゆれ球のような、キャプテン長谷部の足元に当たったコロコロオウンゴールみたいな五月もあっという間に過ぎて、いきなり梅雨に入ったわけです。


                         


 そういえば、六月になってからだけど、映画館で「舟を編む」観てきた。
 正直に言えば、とっても好きなカンジの映画だった。
 主役の○○(うー、名前思い出せん)がよかった。そのほか全体のトーンがちょうどいいカンジだった。
 最近ではベストかもしれない。(もっとも、映画ほとんど観てないけど。)


立夏なる柱時計の正午かな

2013年05月07日 | Weblog


 結局このゴールデンウイークは古本市で終始してしまった。
 もう行かないでいいだろうと思っていたが、子供たちといそいそと出かけたりする。
 出かけると新しいものが目に入る。というか見過ごしていたものが目に付いて、やっぱり買ってしまう。

 二冊ほど拾ってもう帰ろうと思ったら、島尾敏雄『私の文学遍歴』(未来社 1966)が眼に入って、それは初日からずっとあったことは知っていたのだけれど特に島尾敏雄のファンでもないからホッといたわけだけれど、モシヤと思い箱から出して目次見たらヤッパリだったので買ってしまった。

 集中にある「一冊の本」は朝日新聞の学芸欄のシリーズの一つに島尾が書いたもので、昭和40年9月5日のこの記事で彼が小川国男「アポロンの島」を激賞したことにより、それまで地方同人誌作家に過ぎなかった小川が、(そのとき取り上げられた『アポロンの島』も私家版である。)一躍中央文壇に認知されることとなった文学史的事件の、その一文。
 (もっともこの文章は以前どこかで読んだ記憶があるので、けっこういろんな本に収載されているものかもしれない。)

 「形容を抑制し、場景と登場人物の外面的な動きを即物的に写生し、透明な使い方によることばを、竹をたてかけるぐあいにならべただけなのに、その字と行の白い空間からかたりかけてくるなにかに、ひきつけられた。
 その「なにか」の内容を、すっかり承知しているとは言えないとしても、ヨーロッパ風の掟のにおいがかんじられた。」


 小川国男の文学を評して、すでに間然としない。
 「アポロンの島」は何年かに一度くらいどうしても読みたくなるときがある。


                           


 この本の中にも、熊本で二ヶ月間司書講習を受ける記述があるけれど、島尾敏雄は図書館司書としてもそれなりに名を残す人物であったらしい。
 昭和三十年代半ばに図書館のなかった奄美に図書館誘致の運動を起こし、鹿児島県立図書館の初代奄美分館長として、立ち上げからその後の運営、殊に離島での移動図書館運動などでの業績は今も評価されている由。
 で、その彼をバックアップしたのが、鹿児島県立図書館長だった久保田彦穂。またの名を椋鳩十。
 人に歴史あり、ということであります。

 ということで連休最後は、内堀弘『石神井書林日録』(晶文社 2001)を読んでゆっくり過ごす。

 『ボン書店の幻』の感動がまたよみがえる。


そのかみの水辺のひとの夏帽子

2013年05月04日 | Weblog


 二人で昨日今日と町歩き。ゴールデンウイークだな。
 やや寒いが晴天。聖五月。
 それでやっぱり古本市に入ってしまう。


                    


 レジのところで、今回の主宰者のかたに「毎日来ていただいて・・・」と声をかけられる。
 昔、「忍者部隊月光」というのがあって、まあ今の戦隊モノの原型みたいなやつかな。その隊員の中にいたんじゃないかな、という名前の古書店さんが今回の主宰者のオジサンらしいのだけれど、ワシはその方がかつて、高くて遠い村でお店を出されていたときに二回ほど行ったことがある。なかなかシブい品揃えのお店だったけれど。
 で今回、いくつか出店されている棚の中で、その方の棚がどうも圧倒的にシブい。というか求心力抜群の並び。ウウ、吸い込まれるゥ、みたいな並び。実のところ毎日眺めてシブすぎて手が出ない。なんというか、ちょっとこちらが試されているというか、そこに手を入れると魔界の結界が崩れますぜ、みたいな。(あいかわらずよくワカランな、われながら。)
 というわけで、その結界に手を入れられるか、明日も行くのではあるまいか。


                     


 昔、「安曇野」は本来「安曇平」で、安曇野とフツウに言われるようになったのは、臼井吉見「安曇野」以降だという話を聞いたか読んだかした記憶があって、はたしてホントかウソか知らないが、ともかく、岡茂雄『炉辺山話』(実業之日本社 昭和五十年)では専ら「安曇平」であった。
 岡茂雄については以前このブログで書いたな。
 
 松本駅を降りて正面にまっすぐ続く道の突き当りが県の森で、その背後に地元では東山とも呼ばれる魁偉な山が聳えている。その山は戦前は「王ヶ鼻」と呼ばれていた、と『炉辺山話』にある。確かに松本で戦前を過ごしたワシの親父も王ヶ鼻(オウガァナ)と言っていた。それがいつのまにか戦後の地理院の地図からは「王ヶ頭」(オウガトウ)になってしまっている、と岡茂雄は書いている。
 へえ、そうなんだ。
 でもそんなのはまだいいほうで、今や「王ヶ鼻」でも「王ヶ頭」でもなく、「美ヶ原」だもんなあ。おそらく高度経済成長期に誰かがシャレたつもりでこんな薄っぺらな書割みたいな名前をつけたんだろう。同じ頃農業用人造溜池に白樺湖とか女神湖とか名づけたみたいに。
 とワシはずっと思っていた。
 ところが、前述に続いて岡茂雄の「詮索」によれば、すでに元禄期から「美ヶ原」の呼称はあり、むしろ幕末以降「美ヶ原」がすたれて「王ヶ鼻」になり、大正中期に再度「美ヶ原」が復活してくるのだという。
 ね、世の中知らないことがいっぱいだね。

 というような話を謙虚な文章で惜しむように読んだ。
 ゴールデンウイークに岡茂雄の文徳。

 で、ついでにもう一冊、古本市で買ってきた池内紀『街が消えた!』(新潮社 1992)こちらも街歩き小説の連作。
 だけどなあ。
 スンマセン。ウンチクがカチすぎて、どうも・・・。