路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

今朝秋のその懐旧の捨てどころ

2013年09月07日 | Weblog


 六月尽のまま二ヶ月以上ブログにはご無沙汰ではありましたが。
 まあ、ツイッター覗いてるほうが面白くて、ブログへの興味ほとんど無くしていたわけでありますが。
 というか、この夏のクソ暑さに茫然自失というか腹をたててというか、どうなってんだホントウに。暑すぎるにもホドがある。


                   


 でまあ、ようやくちょっと涼しくなったので、なんか書くかなあ、ということだけれど。
 この間何をしたかといえば、タイシタことはしてないのだけれど、というか暑くてほとんど何もしてないのだけれど。
 映画「舟を編む」見たのはいつだったかな。けっこう好きな映画だった。
 それから、時流にのって「風たちぬ」なんかも見たぞ。

 まあ、宮崎アニメ近作、千と千尋とかハウルとかポニョとか、どうなんだというか、何がしたいんだハヤオ、みたいな作品だったから、それが今度は堀辰雄だというからイソイソと見に行ったわけだけれど。


                   


 ウーム、どう書いたらいいのか。
 えーと、細かいこと言うとこから入れば、理乙の学生らしき人物がヴァレリー読めたってそりゃ別にかまわないわけで、ゾルゲらしき人物の名前が魔の山のハンス・カストルプだってもちろんいいわけで、そもそも、飛行機設計家の妻が結核だってかまわないし、金持ちのお嬢様の亭主がヘビースモーカーの技師だっていっこうにいいよ。だいたいが、戦闘機オタクの戦争嫌いを自称するひとが作ってるんだから。
 というわけで、何が言いたいかといえば、ずいぶん乱暴、もしくは相当に強引な映画だった、ということで。
 ということで、モロモロ端折って言ってしまえば、挽歌として傑作だったと思いました。
 なんやかんや、すったもんだ、どんなもんだすべて背負って一気に背負い投げ、みたいな映画で、結局、美しい飛行機を作りたい、みたいなことで乾坤一擲ともかく決まった、けれどもサテどうすんだよこれから、これでは巨大な穴ぼこ入っちまったまま、ニッチもサッチもどこへも抜け出せんぜ、と思っていたら、ミヤザキさん辞めちゃうんだってね。まあ、しょうがないか、ということであります。
 ほんとの挽歌だったわけだ。


                    


 でもって、われながらその陳腐さにあきれるけれど、この映画見ながら思い浮かべていたのは、立原道造だよなあ、という安直なハナシ。
 たぶん、百人中八十七人くらいはそう思って、それは口にしないでおこうぜ、恥ずかしいから、ってことになってるような気がする。



  逝いた私の時たちが
  私の心を金にした 傷つかぬやう傷は早く復るやうにと
  昨日と明日との間には
  ふかい紺青の溝がひかれて過ぎてゐる

  投げて捨てたのは
  涙のしみの目立つ小さい紙のきれはしだった
  泡立つ白い波のなかに 或る夕べ
  何もがすべて消えてしまった! 筋書どほりに

  それから 私は旅人になり いくつも過ぎた
  月の光にてらされた岬々の村々を
  暑い かわいた野を

  おぼえてゐたら! 私はもう一度かへりたい
  どこか? あの場所へ (あの記憶がある
  私が待ち それを しづかに諦めた――)

                   立原道造「夏の弔い」


 なあんか、物語後半、この詩の最終連三行がしきりと反復されるばかりでありました。

 というわけで、夏も逝くのでありました。



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