長州大工の心と技 その3 永徳寺大師堂、総森三島神社、高森三島神社

                                                 
十夜ヶ橋永徳寺大師堂

十夜ヶ橋永徳寺は四国霊場番外札所、別格二十霊場の内です。とかくの説明は省略しましょう。
愛媛県内の社寺建築で長州大工門井家が最初に携わったのはこの永徳寺大師堂であったとされています。明治19年のこと。向拝の蟇股に門井宗吉の銘が残されているといいます。
このお堂は昭和18年、20年の2度の肱川の氾濫により流された部材を集め修復されたものと言われます。
正面から見ると右の向拝柱の木鼻には獏がありますが、本来は左の向拝柱の巨大な龍と睨みあう形で龍があったとされています。水害により失われたものです。
それにしても左向拝柱の巨大な龍、水引虹梁の根肘木に用いられた獅子、虹梁上の喰合獅子の群れ、この迫力は尋常のものとは思えません。さらに堂の周囲を回れば、そこは龍や獅子や水鳥や様々な動物が躍動する世界。神社という様式を離れた大師堂という舞台で、作者はより自由に振舞った・・とさえ思わせられます。
門井宗吉の作とされていますが、特に喰合獅子や水鳥など、これより後、門井友祐の作とされるものと極めて類似した彫刻もあり、あるいは門井家に共通したフォルムであるのかもしれません。
この大師堂より後、門井宗吉は専ら棟梁として、そして門井友祐はしだいに彫刻師としての道を歩んだとされています。

大師堂全体


水引虹梁周囲の彫刻


虹梁上の獅子群


虹梁上の獅子群


左向拝柱木鼻の巨大な龍


右向拝柱木鼻の獏、根肘木の獅子


向拝柱背面の獅子


向拝右部


右側面


後背面


左側面


尾垂木の上の邪鬼(見えるかな?)




総森三島神社

四国霊場43番明石寺から44番大宝寺に向かう遍路道、内子の先を上田渡で分かれ国道379号をそのまま進めば、砥部町総津の街に入ります。現在の国道379号、33号の道は、近世に砥部焼が興り、最近は砥部陶街道と呼ばれているようです。
総津の街を一望する高みにあるのが総森三島神社です。社殿に並んで境内末社の金毘羅神社が建ち、最近の地図には金毘羅社の記名のみがされているようです。
大化6年(650)斉明天皇が朝鮮出兵に備え伊予に兵を動かした際、大三島大明神の神霊を勧請したのがこの神社の始まりであると伝えます。その後大宝2年(702)浮穴の総鎮守として浮穴神社と称し、天慶2年(940)現地に移り惣社三嶋大明神と改称、明治3年三島神社に改められたとされます。
社殿は明治19年の台風により損壊したものを明治21年に再建したとされます。棟梁の名を示すものは何も残されていませんが、「長州から来た大工が、総津の三島神社の猿を彫った」「・・まるで大根を切るように欅の木を削っていった。籠彫りもいとも簡単に仕上げた・・」という言い伝えとその彫刻の出来栄えから、門井宗吉と門井友祐であろうと推定されています。(籠彫り云々の伝えはありますが、籠彫りが見られるのは次に記す高森三島神社の方でこの神社にはみられません。伝えの混乱があるようです。)
拝殿の向拝の唐破風を飾る鳳凰、水引虹梁上の龍、木鼻の獏、獅子。これより後に見る門井友祐の彫刻に比しやや躍動感に欠けるのでは・・と指摘される向きもあるようですが、この不満は本殿を飾る多くの彫刻によって払拭されます。
作者は村人が喜ぶ神社の形式を熟知していたと言えるかもしれません。本殿の木鼻を飾る龍、根肘木に用いられた獅子はまさに永徳寺大師堂で見たあの門井家のものと思えます。本殿側面も彫刻に満ちています。龍、鳥、馬、人物そして三猿など。脇障子の「素戔嗚尊の八岐大蛇退治」と武将図も素晴らしいものと思わせられます。
ちょうど秋の祭りの頃。拝殿には神輿が出されていました。この地域の人々の自慢の神社であることに納得させられます。

石段を上がる


拝殿


拝殿向拝


拝殿木鼻の獏と獅子


拝殿内部


本殿覆屋


本殿


本殿木鼻の龍、根肘木の獅子


本殿側面


本殿側面


三猿


脇障子の素戔嗚尊の八岐大蛇退治


脇障子の武将図


神社境内から見た総津の集落




高森三島神社

四国霊場44番札所大宝寺への遍路道である国道379号の上田渡から県道42号に外れ、4.5kほど、砥部町字高森の高森三島神社です。地図ではここも三島神社ではなく境内社である郡羅栖神社が表記されているようです。
この神社は武者所高盛という人が天正15年(1587)に大三島よりこの地に勧請し、高盛の二字を採って高森三島神社と称したと伝えられます。総森三島神社と類似した立地で、高市本村を見下ろす小高い丘にあります。
三間社流れ造の本殿の棟札に「明治三十三年御神殿再建、山口県大島郡家室西方村大字西方大工棟梁門井友祐同門井宗吉・・」とあるといいます。門井友祐の名が兄の宗吉より先に書かれているのは注目されることで、この時期友祐が実質的な棟梁を任されていたと見られているようです。そのことがどういう結果を齎したか・・
結果的には彫物は比較的地味となり、建築本体の組物に多くの工夫が見られるものとなっているのです。具体的には木鼻は龍や獅子ではなく、菊花葉の籠彫りが採用されていること、水引虹梁上の斗拱と桁の下部に巻斗を並べること、廻り縁を支える組物に挿肘木の手法を用い通肘木の上に巻斗を並べること、など。巻斗を多用する組物は住吉神社でも見られたように長州大工の特徴とも言われます。
本殿の彫物も地味ですがその中で脇障子の彫物には目を見張らされるもの。(片方の脇障子は折からの祭りで幔幕が掛けられみることができませんでした。)
拝殿については棟札は見つかっておらず、作者不明ですが、門井友祐のものと見てよいのではないかと思われています。唐破風の鳳凰、水引虹梁上の龍、木鼻の獏、獅子ともに躍動感溢れた優れたものと思わせられました。
神社の長い石段を下りた所に砥部町山村留学センターがあります。子供たちの黄色い声が響いています。その前で話を聞きました。留学生は1年間親元を離れ集団生活をして自然体験や勤労体験を積むのだそうです。明るい将来を感じる成果を期待せざるにはおれません。

鳥居と石段


石段を上る


拝殿


拝殿の向拝、唐破風


拝殿、木鼻の獏と獅子


本殿と覆堂


本殿


本殿の木鼻、籠彫り


本殿側面


廻り縁の組物


廻り縁の組物


脇障子の彫刻


石段を下りる、高市本村の集落





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