四国遍路の旅記録  三巡目 第5回 その5

六部堂越えに挑戦  (平成22年10月7日)

今日の宿を予約する際、宿の主人に、通れるかどうかわからないが旧遍路道の六部堂越えを探り、うまく行けば樅ノ木か宿の前の道に降りれるかもしれないと伝えておりました。
その時はそんな道は聞いたことがないと言っていましたが、その後地図を調べて、確かに地図には存在して宿の前の道に下りれるかも・・と電話をしてこられた。
私は通れなければ上畑野川あたりまで戻り、タクシーで宿に行くか、あるいは早い時刻であれば、河之内から北に道をとり皿ケ嶺に登り宿のあたりまで下りることまで考えていました。皿ケ嶺の登山道が通れることは多くの登山レポートで確認済みでした。

霧の遍路道で

県道12号から遍路道へ


八丁坂への道

八丁坂上

八丁坂の仏

岩屋寺への道

岩屋寺への道

岩屋寺への道

久万の宿から県道12号を基本に、遍路道は総て通り岩屋寺に参ります。旅行村の前を過ぎ右の山に入る遍路道は、以前通った時より階段が増えよく整備されていました。
八丁坂もそんなにきついとは思いませんでした。むしろ、岩屋寺の近くの下りの道、セリ割禅定の辺りの方が気を遣う道です。でも、八丁坂からそこまでの山道には1丁毎に舟形の石仏丁石が並んだとてもいい道です。石仏の数は数えた訳ではありませんが、二十以上はあったでしょうか。
セリ割禅定を過ぎると仁王門があるものの、すぐ大師堂、本堂(不動堂)となり、参道としてはちょっと不自然な感じも。古岩屋を経て直瀬川沿いに行き下から長い坂を上る参道(多くの車遍路が辿る道)とどちらが正しいのか戸惑います。
昔はどうか・・八丁坂の下に立って真念は「左右に道有、右よし・・」とし、澄禅も右道を行っています。どちらでもいいけれど、八丁坂の道が好まれたようです。

岩壁の仏

セリ割禅定

 岩屋寺

45番岩屋寺。巨大な岩壁を見上げ、その雄大さにも、参道の多くの石仏にも感動する寺です。本堂(不動堂)の上の岩窟には昔、仏像あるいは空也像が祀られていたといいます。この辺りには多くの岩窟があり、それらを繋ぐ道の形跡があるといいます。岩窟を巡って祀られている仏を拝む行動があったのだと五来重博士は言っています。


岩屋寺の千体地蔵


岩屋寺の千体地蔵

岩屋寺の千体地蔵

岩屋寺からは直瀬川沿いの遍路道を通って、古岩屋荘の所に出て、来た道を逆に辿り上畑野川河合の住吉神社の前にでます。そこを右折、六部堂越えの道に向います。
出合う人、車ごとに声を戴きます。始めは例によって「道まちごーとるよー」からですが、六部堂越えと聞くと、通れない7分、ひょっとしたら通れる3分というところ。
明杖の最後の商店の前では、しっかりお接待までいただき、行くしかないという気分に・・
河之内から皿ケ嶺キャンプ場を経て東温市に向う道を右に分け最後の民家の前。ご主人と話をします。
「昔は皆んなこの峠を越えて、東神や三坂へ行ったもんや。何せぐるっと回るよりづっと近いからなー・・昔の遍路道だよ。ちょっと下がった所にへんろ石も残っていると思ったが・・」
「今は峠道に竹が密生しとって通れん。猪の罠を仕掛けに入ったことがあるが、斜面をづっと遠回りすれば行けないこともないが・・」と明らかに通って欲しくないといった表情。
でもまだ林道風の道がかなり続いている気配。行けるとこまで行ってみる覚悟。
「無理なら戻ってきますよ・・」
更に進んだ作業小屋の前で軽トラが追い越して止まります。
降りてきたのは何と今日の宿の主人。「いやいや、どうも、どうも・・」声もしどろもどろ・・
折角車で来ていただいたのだからと行ける所まで進みます。
木材の伐採小屋で林道は終り。途中左に分ける山道がありましたが・・
もう目の前に峠は見えています。3、400mというところでしょうか。
峠には皿ケ嶺の登山道が通じていることは分かっています。そこまで行けば、宿の前の道に下りるのは容易でしょう。ひょっとすると登山道からこの伐採小屋が見えるかも知れません。
いつの日か反対側から挑戦してみたい気持ちに駆られます。
今日はもうこれ以上危険を冒す気にはなれません。後事を宿のご主人に任せ、宿まで車で帰ります。

河之内の集落

木材伐採小屋、ここまで・・

無念な結果の六部堂越え道探索でした。
宿の主人、最近結婚されたと聞いていました。宿には若く可愛い奥さまが、きっと・・でもプライバシー、これ以上は書くことは控えておきますね。

宿のご主人夫妻のお見送り



三坂を下って松山まで (平成22年10月8日)

もう峠にほど近い宿を出て、松山まで続く郊外の寺に参るため三坂峠に向います。宿の裏山に主人が開いた遍路道を上りながら振り返ると手を振る二人の姿がありました。


三坂峠より


もう雨が忍び寄っています。峠からの眺望は茫として霞んでいますが、その昔から久万の厳しい山を越えてきた遍路にとって、此の峠からの眺めがいかに感動的なものであったか・・真念の「道指南」では松山を望む挿絵とともに、珍しく感傷的な記述のある部分です。少々の意訳を加えて記せば・・
「西明神村行きて坂有り、見坂と名ずく。この峠より眺望すれば、千歳寿く松山の城堂々とし、願いは三津の浜に広々たり。青い波立つ遥かな海、間に丹生川、伊予の小富士、駿河の富士のごとし。興居島、島山、山島、数々の出船釣り船。やれやれ、さてまず、たばこ一服。・・・」

山道も深い霧でした。やがて刈り入れの終わった田圃やまだ黄金を残した田圃や・・
土手の斜面にはまだ彼岸花が咲いていましたよ。

 田圃

土手の彼岸花

黄金の田圃

坂本屋の前の道

坂本屋

道は昭和の始めまで休憩、宿泊の場として賑わったという坂本屋の前に。
最近修復されたこの建物は、今は時に接待の場ともなるようですが、今日は閉められたまま。
「旅人のうた のぼりゆく 若葉かな」
旅した子規がこの辺りを詠んだ句碑が近くにあります。句のなかの「うた」は遍路の詠う御詠歌であったとも。
三坂峠から大師の網掛石のあたりまで、江戸時代末の遍路墓が多くあります。中には昭和30年代の遍路墓もあるということですが。
やがて46番浄瑠璃寺。
ここでも門前の子規の句碑「永き日や衛門三郎浄るり寺」に迎えられます。
ここから1~3kごとに47番八坂寺、別格9番文殊院、札始大師堂、48番西林寺と札所、霊場が続きます。雨が激しくなってきました。詳細は略して余談のみ記しておきましょうか。

 お祭り

八坂寺を出て池(土用部池)を回り込むように進み田圃の中の道に右折しますが、その土手下に愛媛県最古の道標があります。「(手印)右遍ん路道、貞享二乙丑三月吉日法房」高さ1m少々のもの。江戸時代初期1685年のものです。
札始大師堂の近くで聞いた話ですが、昔(昭和の初め頃か・・)は大師堂に納められた納札を竹に挟んで田圃に差し豊作を祈願したとか、もらった納札を軒先に張った縄に吊るして魔除けにしたとか・・遍路に対する信心の篤い地であるのです。

 西林寺

浄土寺前のGさん

 浄土寺

西林寺の先で高知のAさんに会います。話していると後ろからアメリカ人女性Gさんが来ます。
Gさんとは三日間連続の出会いです。昨夜は二人とも八坂寺の通夜堂に泊まったとのこと。
Aさんはこれから自宅に帰るとか。
Gさんに「それにしても遅いじゃない・・」と言うと「ここゆっくりね・・さっきまで1ジカンそこの食堂でおばさんと大笑いしてた・・」 
次の49番浄土寺から石手寺まで、私が先行して寺で待つという形でご一緒しました。
「浄土寺の本堂は素晴らしいですよ」と言えば、実物を見て「この屋根のセンがすばらしい・・」というし「境内では左側を歩くのがルール」というと「ありがとう・・」と素直。
足に気を使っているのもさすが。札所ごとに靴下まで脱いで足を乾かしています。
「ワタシぬれるとマメできるたちで・・」「皆んなそうですよ・・」 
広い境内の50番繁多寺を過ぎ、いつも賑わう51番石手寺へ。雨は強い。
「私はここで終り、気をつけて。これで何かうまいものでも」とお接待させていただいてGさんとお別れしました。

 繁多寺

 石手寺

三巡目第5回の区切り打ちの終わりです。
雨の中、バスを待って松山観光港へ。船で広島へ帰ります。



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