四国遍路の旅記録  三巡目 第5回 その3

雨の中、古き卯之町へ  (平成22年10月3日)

夜は雨音が相当強かった。朝になってもまだ降り続いています。予報は一日雨と・・
宇和島から41番、42番、43番の札所を経て卯之町(宇和町)まで行くつもり。歯長峠からは、高森山、法華津峠を通って宇和に降りることも考えていますが、どうなりますことやら。
宇和島の別格6番龍光院にお参りして石段を下りますとそこに中務茂兵衛の道標があります。
それには「(手印)奥の院和霊社/右いなり」とあります。
昔は和霊神社やその少し先にあるイブキの大木で有名な八幡神社に参る遍路が多かったようです。寛政12年(1801)の「四国遍礼名所図会」には41番稲荷の前に和霊大明神社に参ったことが記され、立派な神社の絵が記されています。
遍路道沿いの泉町にある明治26年の道標には「左遍路道/奈良等妙寺」とあります。この等妙寺という寺は聞いたことがありません。ちょっと調べてみました。
宇和島から10kも離れた鬼北町芝にある奈良山等妙寺のこと。元弘1年(1331)後醍醐天皇の勅願寺となり、遠国の四ケ戒場の一つともなったという由緒ある寺です。1588年焼失、1590年元地より3k離れた現在の地に再興されたといいます。今の遍路は88の札所を限りにお参りすることが多いのですが、昔の遍路はこういう寺や神社にも足をはこんでいたのだということに気付かされるのです。
龍光寺に向う遍路道の途中、中組の先の少し高い所に清水大師があります。この近くの常に枯れることのない湧水地を地元では大師水と呼び大切に守り祀っているといいます。
三間の平野に入る前の窓峠(まどのとう)の左手上に「七度栗」の伝説とともに大師堂があります。このような古くからの謂れを掘り起こしてその地を訪ねる楽しみは尽きせぬものです。(この辺りまで雨が強く写真はありません。)

三間の平野

41番龍光寺

龍光寺から三間の街を

41番龍光寺は明治の神仏分離以前は稲荷神社でした。明治以前の道標はすべて「いなり」となっている所以です。
龍光寺の高みから三間盆地の家並とその間に拡がる、三間米として知られる稲田を眺めると「稲荷」の神が如何に相応しいか、納得させられます。
龍光寺の石段の途中から墓地の間を上がり仏木寺に向います。2,6kほど。

42番仏木寺

42番仏木寺では珍しい茅葺の鐘楼にちょっと驚きますが、何といっても家畜堂があるところが独特です、ミニチュアの牛や馬を奉納し家畜の安全を祈願する寺。ご詠歌も「草も木も仏になれる仏木寺 なお頼もしき鬼畜人天」というもの。
寺の山門を入った途端、すごい勢いで雨が降ってきました。法事の準備らしく、忙しそうな人から「雨だー、たいへんだねー・・」と飴をもらったりして、暫くねばっておりましたが、雨の勢いは弱まりそうにありません。出発です。
でも、予定していた高森山、法華津峠の道どころか歯長峠も諦めて車道とトンネルを通ることにします。楽ですけど何と長いこと・・歩く距離は倍以上にはなっていたでしょう。
下川(これは「しとうがわ」と読むらしい)に下る頃には雨は止んでいました。車道の斜面はゴミの投棄場となっています。嫌な匂いもします。
ここから明石寺への道はかなり複雑。高速自動車道の下を2、3度潜ります。
山の裾にとり付いた細道を行くと、奥の院白王権現の標石があり石と小さな社があります。この石を明石(あげいし)と呼びます。何やら、観音の仏力を持った若い女性が大石を抱えて歩いて行って石を捨てた所が「しらおう」という所だったとか・・
真念の道指南には 「此間明石という大石、これを白王権現といふ、此石には色々しさいあり・・」と勿体つけてありますが。
43番札所は一般には「めいせきじ」と呼びますが、地元では「あげいしさん」「あげしさん」などと呼ぶのはこの由来によっているのでしょう。

43番明石寺

明石寺山門

明石寺は88ヶ所札所の中では珍しい天台宗寺門派の寺。昔は熊野修験の道場として栄えたといいます。森に囲まれた立派な堂宇があり、幽玄な雰囲気を持っています。
寺のお参りの後は、宇和在住のHさんが推奨される松葉城跡の遊歩道を歩いてみようと思っていました。納経所で聞いても全く要領を得ません。仕方なく見当付けて入って行きますが、道は縦横で迷います。結局元に戻って通常の遍路道を宇和の街へ下ることになってしまいました。
卯之町の中町通りの古い街並。何やら着物を着たご婦人連が数人・・
通り一の古い立派な建物末光家住宅の月一度の公開日とかでイベントもある様子。
ベテラン遍路風には下にも置かぬもてなし、是非寄って行けと。当家のご主人と思しき人から丁寧な案内をいただく。江戸中期(1770)の建物だが、その後に相当手は入っている様子。でも外面は、当地では「ひじ」と呼ばれる軒下の持送りや格子戸の蔀など特徴ある造作がよく残っています。昔、酒造業だったという家の内部もなかなかの風格・・よいものを見せていただいた。
近くの開明学校も見学。明治15年に建てられた四国最古の小学校で国重文指定。分厚い白大壁に西洋風のアーチ形窓、それに唐破風の玄関といった和洋折衷の建物。この宇和島の地にいち早く文明開化の風を送り込んだと言われます。
内部は当時の教室や教材が展示されています。司馬遼太郎の「花神」でお馴染み、卯之町ゆかりの二宮敬作に医術を学んだシーボルトの娘おイネさんの展示も興味深いもの。
この卯之町、江戸時代の中頃には既に相当栄えていたと思われます。澄禅の日記には特に記述はありませんが、真念は「・・うの町。調物よし。大師堂有。・・」と書き添えています。

(追記)「卯之町中町通り」
江戸後期の「四国遍礼名所圖会」は「鵜の町よき町なり、・・此所にて支度・・」と記します。
昭和の終りに卯之町中町を訪れた司馬遼太郎は 「百年、二百年といった町家が文字どおり櫛比(しっぴ)して、二百メートルほどの道路の両側にならんでいる。こういう街並は日本にないのではないか。・・拙作「花神」に出てくるおイネさんが蘭学を学ぶために卯之町の二宮敬作のもとにやってくるのは安政元年ですから、おイネさんが見た卯之町といまのこの街並とはさほど変わらないのではないでしょうか・・」と記しています。(司馬遼太郎「街道をゆく」より)

卯之町中町通り

軒下の「ひじ」

末光家住宅

末光家住宅

卯之町夕暮れ

開明学校の通り

開明学校

開明学校

開明学校

その夜は、古い街の並びの由緒ある宿に泊ります。
品のよい女将。同宿は長崎からの車遍路の夫婦、それに何と岩本寺宿坊で一緒だった神戸の自転車さん。「よーお・・」 「どっかでお会いしましたなー・・先輩・・」 
岩本寺からは3日目。自転車としては早くはないけれど、歩きではちょっと早過ぎ、不審な顔。
「いやー、途中汽車に乗ってますから・・」 
乾燥器が混んでいて宿の若い女性が入れて取り込んでくれるという。取り込まれて室に置かれた洗濯もの、そのたたみ方が尋常ではない・・そんなものに痛く感動した宿でもありました。



大洲、内子の街へ  (平成22年10月4日)

久しぶりに晴れた朝。今日は内子の辺りまで行く予定。
宇和町の中心部を出て北へ7kほど、東多田に西園寺公高の墓という標示があります。西園寺家は戦国時代の大名で公高は東多田にあった飛鳥城に来襲した宇都宮氏と戦って19歳で戦死したといいます。この地では、その若い死を悼み命日の供養が長く行われてきたそうです。
この近くは、宇和島藩の東多田番所があった場所で、旧道の三差路に道標があります。「菅生山へ十八里二十丁、明石寺へ二里十丁/大洲町四里 宇和町二里 山田薬師二里 八幡神社二丁、大くぼ観音半里 左八幡浜へ三里 きん高公七丁」などの表示。交通の要衝であった証しです。
なお、昔はここよりやや宇和町に寄った下松葉や大江から笠置峠や鳥越峠を越え八幡浜近くを経由して金山出石寺に参る遍路も多かったといいます。


左八幡浜」大江にある中務茂兵衛の道標(明治31年

西園寺公高卿墓所の標石

鳥坂峠への道

鳥坂峠

峠の石仏

やがて国道を左折し、大洲藩の鳥坂(とさか)番所跡に至ります。
鳥坂峠への道は、静かないい山道です。番所跡から中間に林道を横断して約1k。
峠には3体の石仏があります。中央の石仏には「天下泰平国土安全 普賢延命地蔵」と刻まれています。峠に残された石仏は遍路にとって殊の外ありがたいものです。
峠を下ると林の中に粗末な拝殿があり、石と木の小さな社に日天月天が祀られています。陽も届かぬような杉林の中、不思議な幽玄な空間ではあります。
右に三本松への道を分けてすぐ、道の右側に一本の石柱道標と二体の舟形石仏があります。いずれも天明四年(1785)に立てられたもので「是より菅生まで拾七里」、石仏には不明瞭ながら「是ヨリ十丁下り常せったい所」と読めます。この先、札掛大師堂の先あたり(現在食堂や店がある広場あたりでしょうか)に接待所があったようです。
昔の遍路道は右側、尾根の上を通っていたようですが、今は通れるかどうか・・

三本松分岐直後の道標と石仏 

札掛大師堂の屋根が見える

札掛大師堂は四国遍礼名所図会にも大師加持水の場所とともに札掛庵として記述のある由緒ある寺ですが、近年人が住みついたという報もあるものの現在は無住の様子。堂内はゴミの山です。このお堂の管理は金山出石寺と聞いており、問い合わせてみると、そうとも言えないと曖昧な返事。一体どうなっているのでしょうか。
山門には立派な鐘があります。その鐘がどうかなったって・・さてさてここで起こったハプニング、今の時点ではここに書くことはできません。お許しください。

大洲の街に入ります。この街も卯之町と同様、古くからよい街であったようです。真念の「道指南」にも「・・○大ず城下。諸事調物よき所なり。町はづれに大川有、舟わたし・・」とあります。昔の遍路はここでいろいろな物資を調達したり泊ったりしたようです。
大正2年に肱川を渡る肱川橋が完成するまでは渡し舟や、明治なってから川舟を横に並べて浮き橋として渡ったりしていたそうです。大洲藩時代の街の中心は肱川を渡った北側にあったと思われます。
これは遍路とは全く関係ないことですが、肱川の南側、現在遍路道に指定されている街路で昭和41年テレビドラマ「おはなはん」のロケが行われたことから「おはなはん通り」として親しまれるようになり、近くの明治の赤煉瓦館、ポコペン横丁などとともにノスタルジックな楽しい空間ができあがっています。私は遍路以外でも以前に一度訪れたことがあります。

大洲の赤煉瓦館

大洲の赤煉瓦館

大洲のポコペン横丁

大洲のポコペン横丁

車の往来の頻繁な国道56号に沿って十夜ケ橋へ、そして五十崎(いかざき)からは私の好きなタイムスリップしたような山村の道を通って内子に入ります。
内子での大師の足跡は、街中よりもその前後に集中しているように思われます。山村の道から運動公園を過ぎると駄馬池という池があり、その前に大師が泊るかどうか思案したと伝える思案橋があります。その前には金比羅道標や「右へんろ道」の道標。近くには遍路の供養塔や古い墓なども残っています。
内子の街は、大正5年に建てられた芝居小屋、内子座、本町通りや八日市護国の見事に整備された古い街並に驚かされます。町が保存と整備に並々ならぬ力を注いでいることの証しでしょう。
真念の道指南では、「○内の子村、町・・」と記すのみで卯之町や大洲のような注釈は何もありません。それはこの内子の街の繁栄は江戸時代末期から明治にかけての木蝋や生糸の生産に負うものであるからです。
商いと暮らしの博物館(大正期の薬屋の展示)、大村家住宅、本芳我家住宅、上芳我邸(現在改修工事中)など、じっくり見学して回りました。

内子の街

内子の薬屋

本芳我家住宅

大村家住宅

内子の街並

今回の遍路は、どうも観光に傾き勝ちですなー。お許しいただけるでしょうか・・
ここで思いたって、内子から松山に電車移動。とんでもない道草の始まりです。

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