四国遍路の旅記録  三巡目 第5回 その4

ほうじが峠を越えて  (平成22年10月5日)

内子から久万の44番大宝寺または45番岩屋寺に行く昔の遍路道は三筋あったそうです。
一つは最も北側、下坂場峠、鴇田峠越えの道です。昔から現在まできっと最も多くの遍路が辿った道でしょう。
二つ目はその南側、小田町突合(現内子町)から分かれる真弓峠、農祖峠越えの道。
真念「道指南」では「・・○川のぼり(川登)村、阿ミだ堂有、○梅津村(現突合の近く)薬師堂○下たど村○地蔵堂○なかたど(中田渡)村。八幡宮。(新田八幡)○上たど(上田渡)村、過て三島明神宮。○うすぎ村、大師堂。○二明(二名)村、爰にかつらき(葛城)明神、行てはしわたり大師堂。過てひわた(鴇田)坂此峠より久万の町、すがう山見ゆ。・・」とあり、一つ目の道です。
また澄禅「遍路日記」も同様の記述がありますが、ただ下田戸(下田渡、現在の突合と思われる)で「・・爰ニテ川ヲ渡リテ東北ノ地ヲイキ、是辺路道也。西ノ地ヲ直ニ往ケバカマカラト云山道ニ往也。・・」とあります。カマカラへの道は西方に山に入って行く道と思われますが、要は真念も澄禅も現在国道380号を通る、二つ目の道については触れていません。当時は道は通じていなかったのでしょうか。
さて、内子から久万への三つ目の遍路道は、二つ目の真弓峠への道を小田町船戸で右折し上川のクボノを経てほうじが峠を越え久万の河口、そして槇谷を上がり45番岩屋寺に至る道です。このほうじが峠越えの遍路道が今に残っているとは思えません。通る遍路も皆無と言っていいでしょう。
ただ、インターネットの遍路サイトでお馴染みのGTさんが地元の人の話を聞きながら、その一部を通られたと聞いています。とにかく、その遍路道だった辺りを歩いてみたいと思い立ったのです。
確実に峠までは行けるルートとして、逆打ち、即ち久万から小田町へ向う道を選ぶことにします。

内子から電車で松山へ。ビジネスホテルに泊り、早朝のバスで久万町へ。ほうじが峠に向う県道211号は久万川に沿った梨の下(なしのさがり)から始まります。
この道、峠までは狭い所もありますが舗装道。一部に県道をバイパスする山道もありますが、県道のルートが昔からの遍路道をほぼ踏襲しているようです。
久万川の支流大川に沿った集落は静かな佇まい。
ふと見ると森陰に五輪塔の墓が並んでいます。墓石が普及したのは、江戸時代の初期、寛永年間と言われますが、その初期に多かったのがこの五輪塔形式の墓であったそうです。
中年の人たちは畑に山に出ていて、道で出会うのは老人ばかり。どの村も多くそうですけれど、この村も長い長い時間、多くの人の思いを刻んできたのだということ気付かされます。

 五輪塔の墓

大川上組の集落

県道をバイパスする山道

ほうじが峠

4kほどで最奥の上組の部落を過ぎ、林間の道を右に左に梨の下から9.5kで至ったほうじが峠。峠は高原風ですが展望はありません。峠標式もなくただ、内子町と書かれた道路標識のみ。
ここより左へ行く舗装道は県道340号となり、国道440号を経て、あの高知県最奥の梼原(ゆすはら)に繋がっています。あの・・ってなんじゃ。そう宮本常一の「忘れられた日本人」の中で特に名高い伝承、「土佐源氏」のふるさとですよ・・ 
脱線ついでにちょっと書いておきますと、「土佐源氏」は昭和16年宮本が梼原のある橋の下で盲目の元馬喰から聞いた話ということなのですね。この橋は竜王橋といって、国道440号が通る梼原の中心部の一つ西側の谷を四万川川に沿って上った本も谷という所にあり、通称竜王宮と呼ばれる海津見(わたつみ)神社の参道にもなっているのです。この神社には、宮本の故郷、周防大島の出身者が多かったという長州大工が刻んだ見事な彫刻が今も残ると言われます。何やら因縁を感じさせる話ですね・・いつの日か訪ねてみたい地です。
更に継ぎ足せば、本も谷のもう一つ西側の谷を上がると、坂本龍馬も通ったという韮ケ峠を経て内子に通ずる脱藩の道なのです・・

さて脱線はこれまで・・私の行く道は右、未舗装の林道。左手の森の中を下る道跡に注意します。峠から大きく左カーブして20mほどに下って行く道らしい地形。笹と草木に覆われていて、入って行く気にはなりませんけど、きっとこれがクボノから峠に上ってくる昔の遍路道の名残りでしょう。他の場所は急坂で崖のような地形ですが、さらに200mほど先、ジグザグに下りてゆく道らしい地形があります。
1k足らずで左に下る林道の分岐に出会います。少し下った所に土木会社の飯場小屋。ここに居た若い人に一応道を聞きます。こういう若い社員は、大抵他地方の人で、自分が通ってきた道以外は全く知らないのが常。この人もそうでした。
ヘアピンカーブを繰り返す林道を下ります。途中左に新しい林道面谷線が開設工事中です。ここも1kほど入って、左手峠の方へ上る道の痕跡を探しましたが無駄でした。
結局、クボノの隣、中畦の集落まで林道を下りました。
ほうじが峠とその下の斜面が見渡せる場所があります。(写真)中央の白い岩は林道面谷線開設で崩した跡、この辺りから左上のほうじが峠に至る谷筋が直登の旧へんろ道ルートではないかと想像します。クボノの集落は白岩の右下です。

ほうじが峠と谷筋

へんろ石と石仏

久保成の集落

ここから小田川に沿って、上川、中川の点々と続く集落中を通って小田の町まで。
上川の久保成に入る所にへんろ石と舟形石仏が数体集められている場所があります。へんろ石には「岩屋寺 三里」と。遍路道であった証しです。
上川の道を歩いていると車体に「内子町」と書いた車が止まります。
「お四国さーん。道間違っとるんじゃー・・」 久万からほうじが峠を越えてきたと言うと、よく通れたものだと驚かれます。「いやいや、林道を下りてきましたから・・」
その先で今度は小型パトカーが止まります。恰幅のいい巡査が降りてきて 「ごくろうさん・・何、ほうじが峠を越えて林道を下りてきたって・・」「クボノの一番上の家には寄ってきたか・・」その家の近くにはへんろ石や石仏が残っているそうだ。久保成にもあったけど知っていれば寄ってきたのに・・とちょっと残念。
いろいろ話をする。「遍路道を復旧しようとする動きもあるんだけれど、いろいろ難しいこともあってなー・・おーそうそう、去年だったかなー、大阪の方の遍路が来てクボノの○○さんの案内でほうじが峠を越えたことがあってなー・・」 
あっGTさんのことだ気付いたけれど黙って聞いていましたよ。この道を通る遍路はほんとに少ないから、知らぬうちに村中の評判になっていることってありそうなことなのだ・・。
逆方向に去ったパトカーは、小田に近づいた所で、私を追い抜いて行きました。
運転席から手を振って・・杖を上げて応えます。

小田川の河畔

 三島神社

中川に県指定の天然記念物「乳出の大いちょう」のある三島神社があります。
三島神社と言えば、下坂場峠の前にも、真弓峠の前にもありますね。内子から久万に至る三つの遍路道、そのいずれにも峠越えの前にこの神社があるのです。興味深いことです。
それから小田川沿いの県道211号を更にあるいて小田の旅館に着いたのでした。


真弓峠を探る  (平成22年10月6日)

小田の宿の同宿は、東京と埼玉の二人連れ(60代、50代男性)、大坂のTさん(70代)。相前後して宿を発ち国道380号を進みます。

国道380を行く

彼岸花の咲く道

日野川のバス停

三島神社の横から上る遍路道でアメリカ人女性(仮にGさん)に会います。学生時代、京都に1年居たとかで日本語もけっこううまい。大きな荷物。通夜堂や善根宿を主体に回っているという。大したものだ・・
大きなフィルムカメラを持っていて写真を撮らしてくれという。その後も油断しているとこっそり狙われた。日本の老遍路は恰好な写材なのかも・・
これから畑峠を越えて下坂場峠、鴇田峠のルートで久万に行くという。
私は真弓トンネルの上の峠道を探ります。新旧二つのトンネルが開通するまで、昔の遍路は当然に通った道ですから・・25000地形図にもその道筋は記されています。わりに最近までは通れた道なのです。
内子側の入口は、トンネル入口を右に戻る道をもう一度カーブした所。少し高いところに作業小屋のようなものがあり、おそらくここが入口。しかし、草木繁茂でとても通行できそうにはありません。
トンネルを通り久万側へ。こちらはトンネル出口を左に戻るように上る林道があり、その途中を右に入った所が峠への入口。こちらの方が道跡らしい状態ですがやはり草木繁茂。峠までの高低差は130m、鎌でもあれば通れないこともない気もするのですが・・
残念ながら峠越えの道は廃道状態と判断しました。

真弓トンネル
真弓峠への道跡(久万側)

父野川の辺りで高知のAさん(50代か)に会います。この人は通夜堂や野宿主体。
今夜は宿に泊ろうか・・と言っているので古岩屋荘の電話をお教えしました。(後で聞くと結局古岩屋荘前の休憩所で野宿したとか。寒かった・・そう)
(追記茶堂について
真弓トンネルからここまで道沿いに立派な茶堂を二つも見ています。Aさんは「地蔵堂に泊まった・・」と言っていますが、私は茶堂だな・・と勝手に思っています。

一間四方の方形のお堂で、三方を吹き抜けとし正面奥の一面に石仏(地蔵、大師、庚申など)を祀る。旧暦の7月、地域の人々が茶を沸かし通行人を接待したことから「茶堂」と呼ばれる。この呼び名は昭和50年代以降のことで、元々「辻堂」とか単に「お堂」とか呼ばれ、江戸時代中期以降地域のコミュニティセンターとしての役割も担ってきたものと言われます。
茶堂は日本各地の山間地に残りますが、愛媛県では遍路道とは外れますが、歯長峠の東方、西予市城川町が特に有名です。

父二峰の三差路で大坂のTさん、高知のAさん、後から東京、埼玉の二人連れもやってきます。軽トラのおじさんが降りてきて、皆にみかんのお接待。

農祖峠の道

三人は農祖峠に向けて出発。
この区切り打ちも8日目ともなれば、足も慣れてきて私はこの3人の中では山道最速です。峠で二人を待ちます。
峠を下って久万高原町の街へ。今日は大宝寺に参り、それから近くの宿に入るのみです。
峠の前の何個所かで見た張り紙のこと、あとで触れます。

菅生山大宝寺のこと

44番大宝寺。樹木に囲まれ山深い、これまた幽玄な雰囲気の寺です。
特にその堂々とした山門には圧倒されます。
四国札所の寺の縁起は、元禄元年(1688)寂本が纏めた「四国偏礼霊場記」に拠っている所が多いと言われますが、それには大宝寺について
「大宝年間、猟師が山中に入り菅草の中に光り輝く十一面観音を見付け草庵を結んで尊像を祀った」のが寺の最初であるとあります。さらにこの像は、百済から来朝した聖僧が携えてきたものとも伝えます。
さらに、大宝寺とその近くにある高殿(こうどの)神社には、様々な不思議な説話が伝わると言われます。
この猟師は高殿神社に祀られていた高殿明神即ち鉱山師明神右京のことであるとも・・さらに空海を高野山に導いたのもこの鉱山師明神右京であったとも・・ (空海と朱(水銀)と高野山、四国各地の朱(水銀)産地と関わりは半ば自明のこと)
霊場記の絵図には本堂を中心に、赤山権現、天神社、三島大明神、耳戸明神、阿弥陀堂、文殊堂、百々尾権現社などが並びまさに神仏習合の様です。

明治7年の大火により多くの堂塔を失い、その後再建され今の姿になったものといいます。(令和5年8月 追改記)


四国遍礼霊場記 菅生山大宝寺図


お参りして納経所の前を見ると、曲がれるだけ曲がった自然木の杖を持った超ベテラン風遍路が、Gさんと話をしています。さっき本堂の前で立派なお経を唱えていた人だ・・Gさんが手を上げる。私も話に入る。大阪の人、「先達さんで・・」「いや、ワシは群れるのが嫌いでのー・・」話してみるとなかなか柔軟なお考えの方。
門前のお店でお茶の接待。「お遍路さんいい笠をしとられる・・」「これはねー29番門前の・・・」と自慢をひとくさり・・

大宝寺山門

大宝寺山門

大宝寺

大宝寺の観音菩薩

ちょっと余談。(この記事全体が余談かもしれんが、まー堅いこと云わず・・)
実は翌日は槇谷の道を通って45番岩屋寺に行くつもりでした。ところが真弓トンネルから久万への道の途中に、槇谷の道は通行不能であるとの張り紙を二ヶ所で見ました。それで八丁坂を通る道に変更したのですが、後で地元の人から飛んでも無い話を聞きました。
内子町のある宿の主人(女将かも)が、国道380号を経て農祖峠、槇谷を経由、岩屋寺への道を通行させず、自らの宿に遍路を泊らせるために仕組んだ細工だというのです。槇谷は実際には通行できると・・。これが本当だとするとちょっと驚くべきことです。
最近のへんろ地図(9版)では、通行可能な千本峠の道も遍路道から消えてしまったとか・・遍路の周囲にも何やら商売のキナくささが匂ってきますね。いやなことです。



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