四国遍路の旅記録  三巡目 第2回 その1

あっちこっちの後始末

前回、今年の春遍路は、札所の番順に依らず阿波の国をあっちこっち、自在過ぎる旅になってしまいました。おわりは、別格3番慈眼寺から、遍路はまず通らない(いやいや、地元の人も滅多に通らないですよ・・)大川原高原を越えて、12番焼山寺近くの寄居まで来てしまいました。
あとの始末をどうつけるか・・今回の打ち継ぎは悩ましいところですが、ままよ!と徳島駅から始めて、前回お参りしていない16番観音寺を最初に、逆打ちで3番金泉寺まで行くことにしましたですよ。
これが基本線でしてね、例によって、飛ばし、道草、寄り道が頻発するでしょうけど・・ね。
そしてその後は、前回歩き残した牟岐、海陽付近の山道を歩き(これは執念ですなー)、電車、バスも利用して室戸岬へ、高知へ・・と考えておったのです。
・・が、(日記なのに先に結果書いちゃまずいですけど)体調不良で、リタイア。
ということで、この三巡目、第2回は、中断を挟んでの展開となったのでございますよ。(平成21年9月~10月)





建治寺の行場にうろたえる  (平成21年9月26日)

徳島駅から16番観音寺までは街中の道。軟弱遍路の仲間では、こういうところはバスに乗る決まりになっております。
バスを待っていると、ベンチの隣に若い女性。派手目の半ズボン姿。金剛杖と飾りのような小さな菅笠を持っていなければ、ちょっと遍路には見えないでしょうね。
昨日は徳島市内に泊まったようですが、その前は何処かの善根宿。そしてこれから20番鶴林寺登山口までバスに乗ると言っています。どうもどういうルートで歩き、泊まっているのか理解できないのです。
話してみると、素直な性格の娘さんのようなのですが、おじさん(おじーさんかな)は、ついつい
「できるだけ女性の連れを見付けて一緒に歩く方がいいよ。善根宿も注意しないとねー・・」
などと教訓を垂れてしまうのです。とっても心配になるのですよ。
・・手を振ってバスに乗って行っちゃいました。

私の乗ったバスは、徳島の街中を過ぎ瞬く間に観音寺近くのバス停に。
ここから1~3kの間隔で4つの札所が続きます。観音寺、15番国分寺、14番常楽寺、13番大日寺です。
16番観音寺。
立派な山門です。3度目ですからよく覚えています。本堂に向かって右側、赤子を抱いた新しい石像があります。水子地蔵です。とても気になりました。
お寺の境内や路傍の何処にでもある石仏であってもその中のひとつにどういう訳か心惹かれることってありますよね。遍路として歩いているとき特有のことなのでしょうか。
新しくできた広い道を通って国分寺に向かいます。

観音寺山門

観音寺の水子地蔵

15番国分寺、14番常楽寺。
低い山の裾に沿った人家の中の道。道で立ち話中の奥様方に会えます。そういうときは、見当は付いていても必ず道を聞きます。
葦に囲まれた溜め池、そういうところにはきっとアオサギがいます。
鮎喰川を一の宮橋で渡り、大日寺の近く。あー、あの分かれ道のお地蔵さん。野の花と水のお供え。以前通ったときから忘れられぬ道の仏です。

国分寺本堂

溜池とアオサギ

分かれ道の地蔵

13番大日寺。
納経所の女の方。優しい言葉をかけていただく。寺を出て道を歩きながら、「あっ、あの方がこの7月に住職になられた韓国出身の舞踊家・・」と気付く。
鮎喰川の畔を歩きます。この川、その広い川幅の殆どが白い石で埋められているのですが、歩く人に大らかさと安らぎを感じさせてくれる、そんな風な川に思えます。

大日寺本堂

鮎喰川

入田から建治寺への道、2.4kに入ります。
この道は、建治の瀧を経て寺に至る古くからの参道であるようですが、建治寺に参る順打ちの多くの遍路は、その後大日寺に向かうのですから、寺から下る道として歩くことになるでしょう。
しかし、上り道として辿れば、四国88ケ所石仏を1番から拝して、境内の88番に続く素晴らしい参道なのです。心打つ仏の表情に思わず合掌させられます。
途中までは、1車線ぎりぎりながら車も通れる道。車道を右に分けて、山道を1.2k、素朴な鳥居を潜ると建治の瀧の行場に至ります。
瀧の水は涸れていますが、辺りの岩から水が滴る幽玄な雰囲気です。
不動さんのお堂の脇、崖に接して15mはあろうかという梯子が見えます。私はこういうのが特に苦手。これを上るのかー・・と思った途端、心が萎えてしまいましたよ。
冷静なら、その横に寺に至る鎖場が発見できたはずですが・・。
エスケープルートを探して廃道のような山道を行ったり来たり。悪戦苦闘の末、車道に出ました。ここからやっと建治寺にお参りです。

建治寺参道の石仏

建治寺参道の石仏

建治寺行場の入口

建治寺から12番焼山寺下の鍋岩の宿まで、広野、玉ケ峠経由で15kの道を歩く予定でした。建治寺上りでの時間ロス、それに体調もどうも良くありません。広野までの5kの道を下った後、ついに寄居までのバスに乗ってしまいました。
玉ケ峠の手前には、新しいヘンロ小屋(36号)も出来たという情報も得ています。それも見ることはできませんでした。残念なことです。



焼山寺道逆打ちでの出会い  (平成21年9月27日)

今日は、焼山寺山登り口近くの鍋岩の宿から、12番焼山寺に参り、「へんろころがし」の厳しい山道を越えて11番藤井寺へ。そして寺近くの宿まで16.8kの道。
さらに、焼山寺から焼山寺山頂(930m)にある奥の院まで(往復2.8k)参りたいと思っていたのですが、昨日来の体調を慮り中止に。そのため時間的には余裕ができました。「さーて、ゆっくり参ろうか・・」

私の焼山寺から藤井寺への行程は、遍路の巡りとしてはやはり逆打ち。多くの順打ち遍路とすれ違うことになると思われるのです。結果を先に言っちゃうと、遍路11人、途中にある柳水庵を整備する地元の人、それに山道を飛ぶように往復する少年2人。ああ、同方向に進行したハイキングの男女20人ほど、これは別にしても多くの人と会うことができたのです。
その多くは、二言三言言葉を交わすすれ違いでしたが、3人の方とは20分から30分以上いろいろなお話をすることができましたよ。
多くの人との出会いは、ひょっとしたら逆打ちのもっとも大きな功徳、いや楽しみであるのではないかと感じているのです。

鍋岩の宿を7時に発って、最初にお参りするのは杖杉庵。
四国遍路の始めとも伝説される伊予の衛門三郎が長い巡礼の後、ここで大師と出合い息を引きとったと言われる地。衛門三郎の墓標となった杖が芽をふき大杉になったという庵の名の由来。
目の前の大師と衛門三郎の像は、私にとって三度目の出合いですけれど、衛門三郎の心が素直に表れたその表情に打たれます。とても真摯でシリアスな像のように私には思えるのです。
杖杉庵から車道とそれを短絡する急な山道を登ります。道の両側の杉林の中には、所々朝の光が差し込んで、いくつかの墓を浮かびあがらせていました。
一人の女性遍路が道を下ってきます。「えー、どちらから・・」 昨夜は柳水庵の小屋に泊まって朝4時半に出てきたという。まだ薄暗い山道であったろう。驚きです。こういう人を修行遍路の鑑というのかなと思いながら、後ろ姿を見送りましたよ。

大師と衛門三郎

焼山寺参道

焼山寺

8時30分、焼山寺に着きます。
朝早くから車遍路でけっこうな賑わい。何度来ても、その度に杉の巨木に圧倒される境内ではあります。
9時過ぎ、焼山寺を出て急坂を下る直前、一人の男性遍路に出会います。
5時に藤井寺を発ったとのこと。
「4時間はちょっと切れなかったなー・・」「いやいや、十分に早いですよ・・」

(追記)焼山寺の変遷について
江戸期初期の焼山寺については、澄禅の「四国遍路日記」に次のように記されます。

「本堂五間四面東向、本尊虚空蔵菩薩也。イカニモ昔シ立也。古ハ瓦ニテフキケルガ緣ノ下ニ古キ瓦在。棟札文字消テ何代ニ修造シタリトモ不知。堂ノ右ノ傍ニ御影堂在。鎮守ハ熊野権現也。鐘モ鐘楼モ退転シタリシヲ、先師法印慶安三年ニ再興セラレタル由鐘ノ銘ニ見ヘタリ。当院主ハ廿二三成僧ナリ。扨、当山ニ奥ノ院禅定トテ山上ニ秘所在リ。・・・寺ヨリ山上エハ十八町、先半フクニ大師御作ノ三面六脾ノ大黒ノ像在リ。毒蛇ヲ封ジ籠玉フ
岩屋在。求聞持ヲ御修行ナサレタル所モ在。前ニ赤井トテ清水在リ。山頭ニハ蔵王権現立玉ヘリ。護摩ヲ修玉ヒシ檀場在リ。如此秘所皆巡礼シテ下ルニ、又昔毒蛇ノ住シ池トテ恐シキ池在リ。夫ヨリ下リ下リテ寺ニ帰ル也。・・」
と奥の院を含め極めて詳細な記述。また、中世の寺の様子を知る要素も漏れなく含まれているようです。
近くの鶴林寺や大龍寺と同様、寺の前身は山岳信仰を奉ずる古代山岳寺院であったと云われます。その後、蔵王権現を祀る修験道の寺、弘法大師が虚空蔵求聞持を修し、虚空蔵菩薩を祀る寺となります。これらの要素は上記の澄禅の言葉の如く、奥ノ院を含む焼山寺の各所に残されているという訳です。
鎌倉期から室町期にかけて、焼山寺南の鮎喰川に沿った神領地域の上一宮大栗神社、神宮寺、長福寺を中心に阿野・鬼籠野地区の諸坊に来た熊野信仰を奉じた熊野行者が焼山寺に大きな影響を及ぼしたと云われます。(澄禅が「鎮守は熊野権現也」と記すのもこのこと)神領(大栗山)、鮎喰川、吉野川、紀伊水道を通じて紀伊に至る道程は熊野信仰の道となっていたようです。
焼山寺の近く、同様に古代山岳寺院にその始原を持つち云われる鶴林寺、大龍寺についてここで少々触れておきましょう。
鶴林寺、大龍寺の縁起には多くの説話が語られ、寺の歴史の真実を想像するには困難があるようです。しかし、その地理的条件からして、熊野行者あるいは熊野水軍との関わり、室戸へと続く空海修行の道としての弘法大師との関わりの深さにおいて、両寺は焼山寺と同様の変遷を辿ったものと思われます。(特に禅定として大龍寺の南の舎心、北の舎心、大龍の岩屋は重要なものと云われます。これらと弘法大師との触れ合いについては別の日の日記で触れることもありましょう。)
それでは、澄禅の日記にも明白に見られるように、焼山寺の衰退と鶴林寺、大龍寺の繁栄・・その差を生じた原因はどこにあるのでしょうか。それに対して、寺周囲の森林資源の差異と那賀川を通じて行う紀伊との海上交易路の差を挙げる研究者もあると言います。
                              (令和5年8月追記)



この先、左右内(そうち)の集落まで標高差300mを下る2.5kの道は、順打ちでは「へんろころがし」中最大の難所と言われます。急坂であるだけでなく大石、小石の多い道で大変歩き難いのです。
下り坂の私にとっては大いに助かるのですが、膝にとっては重い負担であったかもしれません。
春には桃源郷であった懐かしい左右内の農家の屋根が点々。
ここより1.6k、標高差350mを上り返す道。逆打ちでは、特にこの道の前半が最大の上り急坂でしょう。
7分目上った辺りで、下りてくる女性遍路に会います。元気そうな若い女性。この人が藤井寺近くの宿を7時に揃って発った数人の遍路の最速者であることが後で判明することに。

浄蓮庵(一本杉庵)。
巨大な杉とその前の大師像。今回は大師の背中への接近でしたが、順打ちで上りの最後の石段の上のこの像を拝するとき、やはり感慨を覚えるものです。
近づいてその力強い足の表情を見ると、大師の心の強靭さを感ぜずにはおれません。
二組の外国人夫婦にお会いします。英語でオランダから来たことを聞き出すのがやっと。あとは何を聞いても「ワカリマシェーン」英語が不得意なのか・・いやいや、ワシのは自分じゃそのつもりジャガ、実は英語じゃないケーノー。
この辺にあるもの、何事も興味の的のよう。壊れかけたトイレの中から小便器が覗いているのを、何だ、かんだと言い合ってカメラに。

一本杉庵の大師

大師の足

一本杉庵を後に

浄蓮庵からの急坂の下りで、荷物も持たずヒョコヒョコと登ってくる老人。
87歳だという。それにしては大変な元気。唯恐れ入るばかり。
「ところで、あなたはおいくつで・・」と顔を覗き込まれる。 私も近い年齢と思われたのでは・・まさか。
そのすぐ下の道傍に腰掛けて、悠々とタバコを吸っている50歳前後と思われる男性。
「ワタシは早く歩くことを競うへんろはきらいでねー・・」 「ワシもそーでがんす・・」と合点した手前、30分近くも話をすることになってしまう。
この人、独特の遍路観を持っており、おもしろい話も・・。差し支えないところだけ。
「遍路道を歩かせてもらうだけじゃなく、遍路道のために何か貢献せにゃー・・」 「高野槇、この辺じゃみないでしょう。いい木ですよ。これを植えていこうかと思っとりましてなー・・」
高野槇の遍路道。いいもんでしょうなー。心の中で「サンセイ、サンセイ、大サンセイ」と叫んでおりましたですよ・・。

林道のような広い道を通って柳水庵へ。12時30分頃。
豊かな水が溢れています。たっぷりと喉を潤します。焼山寺から藤井寺への道の水場は3ヶ所と言われています。焼山寺を出たすぐの所、ここ柳水庵、そして長戸庵先の道傍。でも柳水庵を除いて水量は僅かです。
4年前に建てられた休憩小屋。小屋の壁には、泊まった遍路が貼ったへんろ札がいっぱい。焼山寺と藤井寺のちょうど中間に当るこの地は野宿遍路にとって貴重な宿泊地となっているのです。
小屋より坂を上って50mほど。柳水庵のお堂。雨戸が開けられ、電灯も灯され、きれいな内装の室内が覗えます。
庵前のベンチで、おにぎりと缶ビールを広げて昼食中の作業服姿の人、隣の60代と思われる遍路姿の男性と話しをしています。私も話に割り込みます。
「この庵はまた泊めていただけるようになるんですか・・」 作業服姿の男。「いえ、そういうことではないんですがの・・」
周りの木を切り、崩れた道を直して、傷んだ建物も普請してきたと言う。
「すぐ下の休憩小屋もわたしが建てましてのー」
この庵、7年ほど前まで、1日数人の遍路に宿を提供してきた老庵主夫妻が住んでおられた。奥様の優しい眼差し、夫妻の暖かい言葉に心の安らぎを得た遍路も多くあったと聞く。今は老健施設に入られてお過ごしの様子。
聞いた話ですが・・とそんな話を少しすると、
「ああ、ご存知ですか。私は老庵主夫妻の親戚の者で・・」とうれしそう。
何ともありがたい、頭の下がる行動。ただただ「ありがたいことです。これからもよろしく・・」と繰り返すほか言葉を持ちません。
先ほどから話を続けていた真黒に日焼けした60代遍路。
「退職しましてのー。野宿でゆっくり、ゆっくり回っとるんですよ。60日かけて1周するつもりで・・。女房からもゆっくり行っといでと許しもろうて・・。」といかにも幸せそうな表情。
これから神山温泉に行ってテント張るつもりという。
「焼山寺まで3時間、そこから神山温泉まで2時間。ちょっと急がないと暗くなりますよ・・お気をつけて」
それが、長い話の潮時。30~40分経ったろうか。庵の整備をしてきた男性に、再度の礼を言って歩き始めたのです。
そこから暫くは緩やかな上りと下りの尾根道。
13時30分頃、向かいから一人の遍路。これから焼山寺まで行くという。5時までの納経時間には、ちょっと無理なペース。いろいろなケースについてアドバイスさせていただきました。

(追記)柳の水について
真念の「四国遍礼功徳紀」(1690)には、柳の水(柳水庵)の謂れとして次のような話が載せられています。(「道指南」にも同様の記述あり。)
「阿州藤井寺より焼山寺まで三里の坂路山中にて水を見ず。夏の此一人の遍礼人二里ほどのぼりてつかれしかども、口をうるほすべきやうもなく打ふしゐけるに、一僧来りて楊枝にて加持し玉ふと見えしが、忽かたハらより清水わき出、ふせる人にそゝぎたすかれり、大師様とおがミ奉りける。その楊枝を其所にさし玉へバ木となれり、其根より水湧て、長く往還の人利を得、是を柳の水といひ、楊枝の水ともいふ。しるしの石あり。」
おわりに記される「しるしの石」は今も庵前にある標石であるとされます。「(梵字)柳水 為ニ親立之 早渕屋弥一兵衛寄進 延宝八龍集 庚申七月廿八日」(1680)
その年代からみて、この標石の建立に真念も関わっていたと思われています。その当時は庵は無くただ水呑み場のみがあったようです。始めて庵が建ち人が住み着いたのは安永8年(1779)没の良清法師と言われます。
それからは・・この厳しい山の遍路道の途中で、遍路を扶けるために何人もの庵主が住まわれたことか。ときには、あの平成の「クマさん」のような変わり者とともに。


柳水庵前の標石(延宝8)と丁石地蔵(山より六十丁)         江戸後期の柳の水(四国遍礼名所図会)

                                        (令和5年9月追記)

                                        (9月27日 つづく)

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