四国遍路の旅記録  三巡目 第2回 その4

峠を越えて見た青い海   平成21年10月10日 (つづき)

牟岐駅前で、まだ12時前。
ここから、もう何度も歩いている道ですが、内妻荘の前や鯖大師を経て、国道55号を12.4k、海部へ。
海部駅の近くが今夜の宿ですが、まだ時間があります。愛宕山の遊歩道を歩いてみました。
この遊歩道は、「遊遊NASAふれあいの里」の矢鱈に広い敷地の傍を通ります。
立派な施設、もう浴衣姿で寛いでいる人の姿も見えます。
半島をぐるっと廻って、鞆浦まで1.5kほどですが、上り下りも多く意外に厳しい道。歩き疲れもあり、1時間30分かかりました。
でも、海と海岸の風景は見事です。那佐湾の波の煌めき、大里の浜の緩やかな弓なり、外洋の海の青さ・・。
那佐展望台から愛宕山へ。愛宕山の神社から下る長い石段の両側の小四国八十八石仏。その静かな表情に心うたれます。その殆どに手を合わせて下りました。

石段を下りきったところにある高野山真言宗萬照寺にお参り。
境内で掃除の手を休めておられる老夫婦。
「ようお参りなさいました。石段はどうでしたか・・まあ、お休みなさい・・」
「先の台風の所為でしょうか、木の枝がいっぱいあって歩き難うて・・でも、八十八石仏さんの表情が静かでようございましたよ・・」
「この境内もごらんのように、やっときれいになったところで・・ああ、あの石仏はん、ここにあるお大師はんを彫った先先代が納めたもんで・・大正5年ですよ・・」
ご夫妻、88歳と84歳におなりと聞く。品の良いお顔立ち、奥様は若々しく美しい方。話すうち、この寺のご住職夫妻とわかる。
冷たいお茶とお菓子まで戴き、縁に座って、お寺や教えや様々なお話を伺う。
納札をお納めし辞するとき名刺をいただく。それを見て驚く。
H師、大僧正、前徳島県佛教会会長、元海部町長・・・とぎっしり。とても偉い方にお会いさせていただいたものです。


愛宕山遊歩道から(那佐湾)


愛宕山遊歩道から(大里の浜)

愛宕山遊歩道から

愛宕山から

愛宕山の石仏


愛宕山の石仏

萬照寺

追記) 慶長地震・津波碑
ここから鞆浦の漁港に面した大岩に彫られた慶長地震・津波(慶長9年)の碑を訪ねました。
津波被害に直接言及した四国で最古の碑(寛文4年(1664)建立)であり、資料より写しその刻文を載せておきます。
上部に大きく「南無阿弥陀佛」と刻字。
「敬白右意趣者人王百拾代/御宇慶長九甲辰季拾二月/十六日未亥剋於常月白風/寒疑行歩時分大海三度鳴/人々巨驚拱手處逆浪頻起/其高十丈来七度名大塩也/剰男女沈千尋底百余人/為後代言傳奉興之各ヽ/平等利益者必也」/
(大意)「110代天皇の御代(実際は107代)慶長九甲辰季十二月十六日未亥の刻(1605年2月3日午後10時ごろ)月常より白く風寒く歩くと身が凍るような時間、海が三度鳴り響き人々は大いに驚き、手をこまねいていると逆巻く津波が起り其高十丈(30メートルほど)7度襲来し、これを大潮=大津波と呼んだ、あまつさえ男女千尋の底に沈むもの百余人、後代に言い伝える為碑を興す、必ずや皆の平等の利益となるものである」

また、同じ大岩の右側に100年後の宝永地震・津波(宝永4年)の碑が彫られています。
「宝永四年丁亥冬十 / 月四日未時地大震所海潮 / 湧出丈余蕩々襄陵反覆三次 / 而止然我浦無一人之死者可謂 / 幸矣後之遭大震者予慮海 / 潮之変而避焉則可」
(大意)「宝永四年丁亥冬十月四日未の時(1707年10月28日午後2時ころ)、地、大いに震ふ所、海潮(津波)の湧出すること丈余(3メートルほど)津波が広範囲で陸(おか)にのぼり3度繰り返して止んだ、しかれども我が浦一人の死者なきは幸であった、後に大震に遭う者、あらかじめ海潮の変を慮りて避けるべきである」



古道、旧土佐街道あちこち   平成21年 10月11日

この徳島県の最南端、海陽町には、旧土佐街道と言われる、いくつかの峠越えの古道があります。
今年の春は、そのうち古目峠を通りましたので、それ以外のいくつかの道を。
まず、馬路越(うまじごえ)の道に向います。


母川

海部の宿を出て、海部川の支流、母川の河畔の道を歩きます。
この川はオオウナギの生息地として有名な所。
それらしく、両岸の水生植物の繁茂も著しい美しい川です。鴨の親子も悠々と泳いでいました。
野江の手前で川を渡り南下。馬路越の道です。
「土佐街道、馬路越(遍路道)」の標示。所々にある「道案内の柿山伏にござる」のイラストも楽しく、癒されます。
峠自体が、標高120mほどですから緩やかな上りです。
名の如く、荷駄も楽々越えたことでしょう。一部を除いて幅1m余り、その昔、立派な石積みで造られたことが想像できる広い道です。石畳の跡も見られます。
川を渡ってから30分で峠に。
那佐の海、そして那佐湾の最奥部の入江が、青く美しく見渡せます。
残念ながら、峠の仏はありません。

馬路越の道

馬路越の峠から

峠からやや荒れた道を下り、25分ほどで鉄道橋の下を潜り国道55号に出ます。

次に、国道を1.8kほど南下、板取から北上する居敷越(いしきごえ)の道を探ります。
この辺りの道、左手にいつも見える海の輝きに心惹かれます。ついつい、海辺に佇みます。

那佐の海(海の輝き)

 
那佐の海(海の輝き)

那佐の海



那佐の海(岩)


那佐の海(サーファーの影)

居敷越の入口付近

居敷越の入口標示は見つかりません。
入口と思しき辺り、近くの家の人に聞きます。
「たまに聞かれますよ。・・山の中腹の高圧線の鉄塔が見えるでしょう。その下が道です。そこまでの道がねー・・あそこに車が見えるでしょう。そこを右に上って山に入るとね・・」と歯切れが悪い。
その辺り、強引に上れば道を発見できるかも・・。
少々チャレンジしてみましたが、私は諦めました。
居敷越のこちら側の入口は、宅地造成によって分かり難くなったようです。
居敷越の峠には石仏があり、道も確かなのは、諸報告で明らかですから、中山から南下するルートを辿れば、こちら側の出口を確認することは可能だと思われます。

居敷越の入口と国道を挟んで反対側、「古道旧土佐街道」の標示があります。
赤字で危険個所ありの書込みも。
この標示、今の遍路道である国道を歩いているとすぐ目に付くので、遍路記録などによく出てくる道です。
標示に従って入り道なりに進むと、すぐ海岸の砂浜に出てしまいます。右手に見える岩を越えた方もおられるようですが、潮の状態によってはかなり危険。
海岸に出る前を右折すると、標示と朽ちかけた丸太橋が。これが本来の道。
その先、鉄道の下を潜る個所で道が消えています。
砂が流れる急斜面を強引に越えても、またその先は崖の道。トラロープを伝って下ります。
すぐ、はるる亭の先の国道に合流となるのですが、どっちにしても危険の多い道。止めた方がいいでしょう。

宍喰の道の駅。
ここでゆっくり休憩します。多くの遍路が集まってきて昼食タイム。
ここから室戸岬までの40kを、どのように歩くか。情報交換の場でもあります。
私は、三巡目ダシー、軟弱遍路ダシー。高知県に入った最初の街、甲浦まで歩いて、あとはバスに乗ります。すいませんねー。

(追記) 飛石・はね石について
近年どういう訳か頓に有名になった甲浦の港街を過ぎてすぐ、白浜の街中の小さなお堂に地蔵があります。地蔵は別の標石のようなものの上に乗っています。急ぐ道中、刻文があるのを気にとめながらも去るのが常・・標石には次のように刻まれているらしいのです。
「是より野根浦迄七十五丁 野ね浦より二里半飛石ハ子石・・」「〇化二乙丑」 年号の一部と干支より文化二年(1805)の刻文と知れます。それと近い寛政12年(1800)の日記「四国遍礼名所図会」には「・・藤越坂、是より先ケ浜(佐喜浜)迄四里の間飛石・はね石と云四国第壱難所也。・・」江戸初期の澄禅「四国遍路日記」も同様の書き方。ところが、真念の「四国遍路道指南」では「ふしごえ坂、これより一里よハとびいしとて、なん所、海辺也。」とする。
なお、西寺(金剛頂寺)の先のかりようご浦の先の海辺を「はね石」とするのは「道指南」と「名所図会」に共通します。あるいは西寺の先の「はね浦」という地名に拠るのかもしれません。


甲浦の海(入江)


甲浦の海(浜)

甲浦の海(中央に二子島が見える)

(追記)「甲浦の熊野神社」
古くは熊野三所権現と呼ぶ。9世紀初め甲浦湾先の二子島へ鎮座と伝わる。千光寺を経て(別当とも、現廃寺)元亀3年、現地(甲浦湾頭)の甲の山に移る。清涼の地である。鳥居を有しない神社。


14時に甲浦を出たバスは50分で室戸岬へ。
バスのシートに身を任せ、海岸の道を懸命に歩く遍路の後姿を追って、只管頭を下げるのみです。

室戸岬の岩や波、それを眺める中岡慎太郎など、ゆっくり見てから上った、24番最御崎寺への標高差150mの石段、意外に楽でした。今日はあまり歩いていない所為でしょう。
最御崎寺の境内は、遍路ばかりでなく、観光客も多く、賑わっています。
叩くと金属の音がする鐘石は、相変わらずの人気ですが、本堂や鐘楼堂、多宝塔、その力のこもった堂宇に改めて感じ入ります。

(追記)「室戸崎と空海」
空海と室戸崎の係わりは深い。ここでも「三教指帰」のなかの室戸崎の件について繰り返し記します。(三教指帰の該当文については、より正確を期して「エンサイクロメディア空海」のなかの口語訳を引きます。)
「・・阿波の国の大瀧嶽(たいりゅうのたけ)によじ登り、土佐の国の室戸埼(むろとさき)で一心不乱にこの修行(虚空蔵求聞持の法)に励みました。山中で真言を唱えていると、そのこだまが谷に鳴り響き、岬の洞窟に座って、広がる空と海に対峙し、真言を唱えていると、虚空蔵菩薩の化身とされる夜明けの明星が私の体内に飛び込んできたのです。それが真言一百万回の成就の証であったのです。」
かくの如くで「三教指帰」は若き空海が著した自伝的戯曲の性格を帯びているのです。
これを、江戸時代初め高野山の僧寂本は次のように解しています。(「四国遍礼霊場意記」)
「此地は、むかし大師求聞持勤修あそばしける所なり。大師みづからかかせ給うに、土佐室生門の埼にをいて寝然として心に観ぜしかば、明星口に入、虚空蔵の光明照し来て菩薩の威を顕はし、仏法の無二を現ずと。」
明星が体内に飛び込むという奇蹟を心の内のこととし、また当時のの若き空海には思い寄らぬであろう仏法の世界に至らしめているのです。
ここで思い起こすのは、NHK取材班の記す「空海の風景を旅する」の記事(中公文庫)、室戸の遍路宿の方が話す円海とか名乗る修行者の事(昭和期のこと)。
円海は、いつも汚い身なりで、昼は遍路の世話、夜は「神明窟」に籠り懸命に座禅を続けたという。けれど、空海が取得したような奇蹟も能力も得ることが出来なかったと語ったいう・・
これらのことから、私どもはなにを感じ、なにを得ればよいのでしょうか。空海の得た奇蹟は空海の心の内のことと思うべきなのでしょうか・・思い惑います。



最御崎寺山門


最御崎寺鐘楼堂


最御崎寺本堂


寺の宿坊は、立派なホテルのよう。私としては初めての泊りです。
夕食の食堂では、私の前に77歳の車遍路さん。そして、少し遅れて横に外人さんが座ります。
Mr. John.・・・、62歳、ロンドンから来たという。
主に電車、バスを利用して88札所を廻っているようです。
携帯電話の写真画像で、自宅にあるという神棚の写真を見せられます。かなりの日本通らしい・・。
おまえの職業は?と聞くから、real estateと答えると、ウソだろう、professorだろうという。お世辞もナカナカ・・。
私の英語力では、話の半分も理解できないのは残念至極。
納経帳は持たず、自作の札所境内の絵に朱印だけが押されています。納経所ではOKなのですね・・、外国人向けのサービスなのでしょうかねー。
10番切幡寺は、あの大塔の絵。「このパゴダはワンダフル」という。
この塔については、ワシも一家言あり。なにやらノタモウたが、多分伝わっておらんであろう・・。
ロンドンで入手したという二冊のガイド本を持っています。
一つは歩き遍路の必携本、宮崎建樹(へんろみち保存協力会)のへんろ地図をDavid.C.Moretonが英訳したもの。もう一冊は、室達朗の88札所紹介をやはりMoretonが訳したもの。
こういうガイドブックの存在は知っていたし、著者、訳者の名も聞いたことはありましたが、中身を見るのは初めて。
特にへんろ地図の方は、原本の内容に加えて、四国のみちや主要な歩道などの情報も加えられ、充実したもので、なるほど、これがあれば廻れる・・と納得させられるもの。
サイズもポケット版で携行に便利、逆に日本語訳が望まれるほどのもの。

Johnさん。翌朝、白衣姿で食堂に現れた私を見て「ウオーキング、エライ・・」を連発。自作の日本国旗にサインまでさせられる。
ガッチリ握手して、お互いの健闘を約して、お別れしました。


室戸岬

さて、ここまで徳島県の南端から高知県に入る海の道を辿りながら、その見事な海岸を、昔からいかに多くの遍路が、その見事さ故に・・涙を流しながら歩いたことだろうかと・・そのことを想わずにはおれませんでした。
ちょっと気障かもしれないけれどね・・こんな言葉を頭に描いていました。
書き留めておきます。

              阿波の南の端から土佐に入る所。
          涙を誘う明るさで、海が待ち受けているのです。


          この千年を超える時の間。
          人はその辺路(へじ)に憧れてきました。

          ある時は、半島に囲まれた入江の、

          静かな浜辺で憩い、
          やがて室戸の岬の荒々しい海へと変わる、
          その輝く荒磯のほとりを、

          その白い衣の袖で、
          汗を拭くふりをしながら
          歩き去ってゆくのです。


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