感動との出会いをもとめて・・、白いあごひげおじさん(もう、完全なじじいだな・・)の四国遍路の写真日記です・・
枯雑草の巡礼日記
奈良葛城、當麻寺三重塔
奈良県葛城市当麻にある二上山當麻寺(たいまでら)、山号は後に付けられた
ものですが・・、真言宗と浄土宗の並立という、ちょっと変ったお寺です。
この地は、奈良盆地の西端に位置し、河内と大和を結ぶ主要な交通路でもあり
ました。寺を懐に抱く国境の山、二上山(にじょうざん、「ふたかみやま」と呼んだ
方が親しみ易いですね・・)は、字の通り二つの峰よりなり、明日香の都より眺め
れば、夕日が峰の間に沈むことから、西方極楽浄土の霊山と崇められていました。
寺の創建は、明らかではありませんが、681年、この地の豪族當麻氏が氏寺とし
て、招致したという記録を持つわが国でも屈指の古刹なのです。
當麻曼荼羅と呼ばれる、阿弥陀浄土を視覚化したもの、それに中将姫伝説が、
特に有名のようです。中将姫伝説は、後に物語や能、歌舞伎などに採り上げられ
てきたそうです。
広い境内に多くの伽藍があります。本堂(曼荼羅堂:1161年建立、国宝)、金堂、
講堂(いずれも重文)、そして、最も古くからある東西の二つの三重塔などです。
東塔は、奈良時代8世紀後半、西塔はやや遅れ、平安時代の最初期の建立と
言われ、わが国に現存する三重塔では、夫々3、4番目の古さなのです。(いず
れも国宝)西塔は、通常の塔のように各重とも方3間(柱が一辺に4本立つ)です
が、東塔は初重のみ3間、二重、三重は2間(中央に柱がくる)と、日本の社寺建
築としては異例の様式なのです。
上から、本堂、本堂裏の閼伽棚(あかだな:道具入れ、特徴ある蟇股が見える。)、
西塔、東塔(4枚)。
(古い国宝の建物を訪ねて、ついに奈良県に入りました。
独特の表情を持った仁王さんのおられる、東の大門を潜り、広い境内に入ると
講堂などの伽藍の古材の黒い柱と白壁のコントラストが、目に沁みます。
そして、二上山に連なる鬱蒼とした樹林の中に少し足を踏み入れれば、二つの
三重塔に出会うことができます。それは、竹林に囲まれた、素朴で重厚な三重塔
でした。多くを語らなくても古の心の何かを伝えられた・・そんな気にさせられるの
です。二上山に、もう日が沈む頃。雲の向こうの夕日でした。)
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熊野の神々の地に
熊野三山とは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、そして熊野那智大社の三つの
神社の総称である。山深いこの熊野は、古来修験道の修行の地であり、夫々の
神を祀っていたが、それはやがて三社共通の祭神とされた。仏教の伝来以来、
他の神社と同様、神仏習合が行われ、夫々の神の本地佛が定められるとともに、
熊野の神は、熊野三所権現(または十二所権現)と呼ばれるようになる。
平安時代の後期、阿弥陀信仰の拡がりにより、熊野の地は浄土と見なされ、都
より上皇の参詣が頻繁となり、参詣道としての熊野街道が発展する。やがて、
念仏聖や比丘尼などが民衆に熊野信仰を広めるとともに、修験者によって組織
された日本全国からの参拝が、「蟻の熊野詣で」と呼ばれるほどに盛んとなる。
そして、この熊野信仰は、江戸時代後期の紀州藩による神仏分離政策、それに
続く明治の神仏分離令により衰退をむかえるこになるのである。
2004年に、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、高野山などとともにユネスコの
世界遺産(文化遺産)に登録された。日本国内、近隣のアジア諸国の人々を含め、
多くの観光客が訪れる地となった。熊野の山深く鎮座した神々は、いかに思し召す
かと・・ふと思う。
(関西に所用があり、ついでにちょっと足を伸ばして、熊野本宮大社、熊野那智
大社、そして那智大社近くの那智の瀧を、駆け足で訪れました。
熊野本宮大社は、鬱蒼とした杉の囲まれ、日本の神社特有の清清しさをもって
います。那智の瀧、それ自体ご神体です。水は少なめでしたが、さすがに雄大。
写真は、下手な絵ハガキの領域を出ないのは、致し方ないでしょうか・・。)
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島と船の影、遠い水平線
瀬戸内海の海には、
多くの島が浮かんでいて、
それより、もっと多くの数の、
船が浮いているのでしょうね。
近くの海が、輝いているときが
あります。
もっと、もっと遠くの海が、
一面に輝いているときも、
あります。
雲は巧みな料理人かも
しれませんね。
海や島や、船や、
そんなものを纏めて、
驚くような味付けを
するのですから。
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