吉野川の高地蔵を巡る(その2)

                                                    


高地蔵地図(2)吉野川南辺(クリックすると大きくなります)

吉野川の南の高地蔵

吉野川を南へ越え、車の通行が多い堤防の道から外れると畑の畔を広げたような細い道に入ります。
思いがけず「鑓場古戦場跡」の石碑と案内板。
「勝瑞城主細川持隆は家臣三好義賢に討たれる。同じ持隆の家臣久米義弘(芝原城主)は主君の仇はたそうと天文22年(1553)兵をあげ義賢と戦った。これを「鑓場(やりば)の義戦」と呼ぶ。」ちょっとややこしいが言わば城主間の勢力争いといった様相。戦国時代はこの地にも・・

やがて、遠くからでも笠をかぶった特徴あるシルエットが見えてきます。

東黒田の地蔵(建立:文化8年 1811) 徳島市国府町東黒田宮ノ北
 4段の墓石状台石、六角柱台座、蓮台上に石笠を被った地蔵半跏像。台座高2.98m、全高4.19m いずれも吉野川流域の地蔵中第1位。
 台座の銘刻は「法界萬霊」。東黒田村講中と県内屈指の豪農、豪商長篠孫太郎の資力で建立されました。
 おまいりして振り仰げば、そのうつむいた姿勢と微笑みを含んだような清々しい表情に心深く慰められる思いです。
 「東黒田のうつむき地蔵さん」の愛称で地元の人々に親しまれているとともに吉野川流域の高地蔵中最も著名な地蔵と言えるでしょう。
 祀った人の願いは水没者の供養ですが、洪水で分りにくくなった土地境界の目印ともなったといいます。


東黒田の地蔵

 東黒田の地蔵

 東黒田の地蔵

 東黒田の地蔵

 東黒田の地蔵

吉野川の堤防の道に戻り、暫く右手に第十堰(第十は地名)を見ます。
第十堰設置の経緯はおよそ次のようであったと思われます。
「寛文12(1672)藩が実施した別宮川(後の新吉野川の旧名)の開削により、吉野川の水量が減り米が不作となります。それを解決するため、吉野川沿川の農家が主体となって別宮川の流頭第十に堰を建設する。これが第十堰の始まりですが、その後の増築・修築、管理も基本的に農家主体で行われます。藩は用水開発よりは藍作を重視したと言われます。(吉野川は阿波藩という一地方藩が管理するにはあまりの大河であったという評価も。)その後明治以降、「はじめに」でも触れたように洪水対策として、樋門を設置するなどして吉野川の付替えが行われ、第十堰も形と役割を変えて行くことになります。」

見渡すと、堰の前後で大きな水位差を生じており堰が有効に機能したであろうことが見て取れます。それが農民のみの手で為されたことは驚くべきことと言えましょう。


第十堰


第十堰付近(向いの河岸が樋門が設けられた辺り)

第十を過ぎると石井町の藍畑・高原地区、県道34号、県道30号の周囲の道に点在する多くの高地蔵を巡ります。そこはかつて洪水の頻発地域でもあります。

東覚円南の地蔵(建立:文政10年 1827) 名西郡石井町藍畑東覚円
 三段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上の地蔵半跏像。台座高1.99m、全高2.81m。
 台座の銘刻は「三界萬霊」。かつて、洪水の常襲地域だった石井町藍畑に建ちます。後に雨除け屋根が設けられたためか長い歳月を経た今も、美しい石肌を保っています。しかし、六角石の下の台座には染みや痛みが目立ち、(そこが水位線であったのか)洪水の記憶を想わせているようです。

 東覚円南の地蔵


東覚円南の地蔵

 東覚円南の地蔵

近くの産神社境内に石井町有形文化財の「印石」があります。これは江戸時代末期に地域で水除け争い(堤を勝手に高くすること)が起こったとき、堤の高さの基準を定めるために建てられたものと言われます。洪水が当時の人々にとって死活問題であったことがうかがえる一事でもあります。

高畑の地蔵(初建:天保14年 1843 平成17年12月に再建) 名西郡石井町藍畑高畑
 石基壇、三段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上の地蔵半跏像。台座高2.24m、全高3.09m。
 台座の銘刻は「延命尊」。交通量の多い県道34号沿いに置かれます。
 かつては両手が破損した痛ましい姿であったそうですが、平成17年地元小川家の人の発願と熱心な支援者の協力により再建されたと聞きました。(高畑の小川家はこの地の有力な藍商の一人で、藩政期、藍の品種・製法改良を行ったことで知られます。)
 上記の寸法は初建時のものですが、再建時にも形式等を含め、それを踏襲しているものと思われます。


県道34号に沿って

 高畑の地蔵

東高原南の地蔵(建立:慶応元年 1865) 名西郡石井町高原東高原
道に迷いに迷った末、この地蔵には行き着くことができませんでした。立派な地蔵だと聞いていました。残念です。

しかし、この辺りを動き廻っていての発見や出会いもありました。この石井町高原という田園、北を流れる吉野川(昔の江川)と飯尾川に囲まれた地で、それが洪水の頻発地域であったということが信じ難いほどの美しい地でした。低湿地のなかに微高地が形成されているようです。地名もそれを反映したものかもしれません。特に高原中島の新宮本宮両神社、三宝院の辺り。もし、その機会があり私の足が許してくれればもう一度歩いてみたいと思わせる所です。

(追記)「愛宕地蔵」(石井町藍畑西覚円734付近)について
石井町のこの付近で私が参ることができなかったもう一つの重要な地蔵(建立年代は下りますが)「愛宕地蔵」について追記しておきましょう。
「その1 はじめに (洪水のこと)」でも少々触れたことですが、明治21年7月の洪水により堤防が決壊、26名の死者を出す災害が発生します。それが(国の吉野川治水対策に対する住民の不満として)覚円騒動へと発展します。その後、死者供養のため建てられた高地蔵が「愛宕地蔵」です。
吉野川に架かる高瀬橋の南西200mほど、堤防を背に建つ地蔵。訪ねる機会のあることを切望するものです。(R1.8追記)


迷った末、少し南に道をとり思いもかけず出会ったのがこの地蔵でした。

高原池北の地蔵(仮称)  名西郡石井町高原池北
 二段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上に石笠をかぶった地蔵半跏像。
 この地蔵、何度も水を被ったのでしょう。顔の表情も不明瞭なほどに。
 台座正面に彫られた銘文は「二世安楽」でしょうか。側面の建立年月なども読み取ることはできません。
 しかし、鮮やかな供花と台座に置かれた一つの蜜柑が近在の人の心を表すようでした。


高原池北の地蔵

 高原池北の地蔵

南島西の地蔵(建立:天保14年 1843) 名西郡石井町高川原南島
 コンクリート基壇、二段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上の地蔵半跏像。台座高2.46m、全高4.11m。全高は2番目の高さ。
 台座に「三界萬霊/天下泰平/五穀成就」と刻します。
 二ツ森神社を背に立っています。最下の基盤は、道路改修工事の際に壊れてしまったため、新しく作り直されたものといいます。
 毎年旧9月23日、近くの住職によって般若心経が唱えられます。近くの東禅寺に奉られている不動明王の縁日は28日。地元では、地蔵と不動明王は不仲で、どちらかの縁日には必ず雨が降ると伝えられていると言います。
 二ツ森神社は広い境内、開かれた感じの素晴らしい神社です。桜が二つ三つ・・地蔵の向かいに庚申塔形式の不動明王石像。


南島西の地蔵

 南島西の地蔵


南島西の地蔵


二ツ森神社

高川原の地蔵(建立:万延元年 1860)コンクリート造鞘堂  名西郡石井町高川原南島
 新設の石基壇、二段の墓石状台石、角柱台座・蓮台の上の地蔵半跏像。台座高2.43m、全高3.26m。
 この地蔵は飯尾川に架かる南島橋の北のたもとにあります。川船による輸送と主要道にも近いこの地は水陸交通の拠点でしたが、洪水の常襲地帯でもありました。安政4年(1857)7月29日、「八朔水」と呼ばれた大洪水がこの地を襲い、飯尾川の氾濫によって 田畑は冠水子供は溺れ死ぬという大惨事、その3年後万延元年にこの地蔵が建立されます。その後も洪水は続きますが、この地蔵が建てられてから犠牲者を見ることは無くなったと言い伝えられています。
 平成5年に行われた飯尾川の改修によって増水の危険も減少し、橋の新設によって露座だった地蔵もコンクリート鞘堂に安置されました。旧暦正月24日と夏の7月24日の縁日には、講中の人々によって熱心に祀られるといいます。

 高川原の地蔵

 高川原の地蔵



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