吉野川の高地蔵を巡る(その1)

                                          

はじめに

(洪水のこと)
 江戸時代(藩制期)、万治2年(1659)から慶応2年(1866)の二百年の間、吉野川流域の阿波国内で約100回もの洪水が発生したと言われます。
江戸中後期までの大洪水として記録に見られるのは享保7年(1722)と享和元年(1801)です。享保年間の記録には「農民の家屋は殆どが掘立小屋で地盤に石を敷いた家は僅かしかない。大きさも二間四方あるいは二間×三間であった。厳しい年貢の取り立てと水害によって借家住いや流浪人になり下がる者が出た・・」などと記されます。
幕末になっても洪水は続き、天保14年(1843)7月の「七夕水」、嘉永2年(1849)の「酉の水」(阿呆水とも)、安政元年(1854)の大地震、安政4年(1857)の「八朔水」、慶応2年(1866)の「寅の水」などが記録に残ります。
これら洪水の原因は、阿波地域の集中豪雨によるもの、吉野川上流の土佐の豪雨が加わったもの(「土佐水」とか「阿房(呆)水」とかと呼ばれた)、地震による「液状化現象」など様々です。「酉の水」では「板東村では百間が破提、水位七尺・・」、「徳島川内町で破提33箇所、海水の侵入・・」「山川町で死者250名・・」、「八朔水」では「川内町で350戸が倒壊・・」などが記録の上。また中喜来の春日神社の敬諭碑には洪水時の生々しい記録が石上に残ります。
明治以降も洪水は頻発、3年、6年、9年、17年8月石井町で破提、79戸流失、18年、20年、21年西覚円で破提。21年には国、県による改修工事の失敗によるものとして住民が土木事務所を襲撃する事件が発生。明治44年「土佐水」と言われる洪水、死者21名、不明6、住宅全壊164戸など記録に見えます。大正元年の大洪水、「板野郡誌」は「水嵩田の面上一丈(3m)、湖水の浸水5尺(1.5m)、三日三晩屋根の上で水の引くのを待った・・」などと記します。
このように、拾ってきた吉野川洪水の記録は悲惨を極めるものですが、当然ながら藩、県、国による洪水対策も行われてきました。
しかし、藩制期においては各所に部分的で小規模な堤防が築かれただけで、極めて不十分なものであったと言われます。(それは、後にも触れますが、洪水によって運ばれてくる土が藍作に適したものであったということにも因があったとされています。)
明治に入り、オランダの技師デ・レーケの指導などもあり本格的な改修工事が開始されるのは明治40年にまで待つことになります。その工事の概要は①藩制期に造られた第十堰に樋門を設置することによる旧吉野川の付替え、②別宮川を改修して吉野川本流とする、③市場と川島に跨る善入寺を全島買収し遊水地化する、④江川の締め切り、というものでした。この第1期改修工事が完成するのは昭和2年。その後は、支川や派川流域や遊水地帯での内水被害として形を変えた水害と向き合うこととなり、その対策との競合が続いていると言われます。

(高地蔵のこと)
吉野川の下流域には多くの高地蔵が建てられています。(特に定めはありませんが、台座高1m以上または全高1.5m以上の地蔵を高地蔵と呼ぶことが多いようです。)その数は200基ほどと言われます。
高地蔵が建てられた時期は、寛保から明和に至る江戸中期(1740~1770)、享和から天保に至る江戸後期(1800~1840)、安政から慶応に至る幕末期(1850~1870)に集中しています。
洪水の頻発地域と高地蔵分布は正確に重なっています。それは、脆弱な堤防で防げない洪水から逃れたいという願い、洪水被害者の慰霊、そしてそれを叶える地蔵が洪水につかることがないという願い、と言えましょう。また、それは今後も起こるかもしれない水害に対する警鐘にもなりましょう。


旧吉野川

(阿波藍のこと)
かように吉野川は周辺の人々に対し多くの災害を引き起こしてきましたが、当然のことながらまた多くの恵みを齎してきました。むしろ、阿波北部は「吉野川の賜物」というほどの地でしょう。その恵みの一つとして、高地蔵を巡る旅の中できっと出会うであろう「阿波藍にかかわる様々なもの」があるでしょう。阿波藍について簡単に触れておきましょう。
タデ科の植物である藍の乾燥葉を発酵させて作られる天然藍染料が「すくも」と呼ばれます。その製造には1年近い時間を要します。藍は吉野川流域で栽培されてきました。稲刈り前の台風の時期に大洪水を起こすことの多い流域は稲作に適さず、台風の前に刈り取りが終わる藍作はこの地に適したものでした。そして洪水は肥沃な土を流入させ、藍の連作を可能にしたのです。(前にもちょっと触れたように、藩の洪水対策としての堤防構築が不十分なものとなった原因の一つはこのことにあり、事を複雑化しかつ悲劇的にしているのです。)
  (追記)この地の高地蔵を巡って気づくことですが、高地蔵の建立において藍商の貢献は大きなものがあるのです。やはり、事は単純ではなさそうです。

阿波藍の製造はすでに室町時代には行われていたと言われますが、その品質の良さに藩の保護政策も加わり、藩政期から明治にかけて飛躍的に増加し、1700年代には全国市場を支配するようになります。(宝暦13年(1763)細田周英「四国遍礼絵図」には下流で分岐した吉野川に挟まれた地に「アワノ中嶋縦三リヨコ一リ 玉アイ名物ナリ」と書き込まれています。(「玉アイ」とは当時の製法である「藍玉」のことか))
その繁栄は1800年代の終わりまで続きます。その後は合成藍の輸入により、阿波藍の生産量激減、現在は「その色の良さ」を貴ぶ「藍師」や関係者の努力により、その伝統が受け継がれているという状況と言われます。
また、藍繁栄時の藍商人の全国的な展開は阿波に様々なものを齎すことになったと言われます。そんなことの一つ、阿波踊りの改良に全国の踊りの要素が取り入れられたことは最近のNHKTV「ブラタモリ」でも紹介されたことですね。

(小さな旅)
私は吉野川流域に多くの高地蔵があることは以前から知ってはいましたが、八十八か所遍路の道すがら寄ることはありませんでした。高地蔵に出合える、一番霊山寺付近から直接徳島に行く道(遍路日記、平成28年春その1の追記参照)あるいは11番藤井寺から16番観音寺に向かう吉野川の南の道は古くから遍路道と呼ばれてはいましたが多くの遍路が通る主道となることはありませんでした。それはこの地が洪水の頻発地域と重なっていることと関係しているのかもしれません。高地蔵はそういう地に集中しています。
高地蔵を巡りたい。それを建てた人の心に近づきたい。と思い立ちました。
私はもう長い距離を歩くことはできなくなりました。移動の足の多くは車に頼らざるを得ませんでした。それは仕方ないか・・さあ、行ってきましょう。
(参考資料 「高地蔵探訪ガイドブック」(徳島県)他。)



高地蔵地図(1)旧吉野川周辺 (クリックすると大きくなります)

旧吉野川周辺の高地蔵

この吉野川の高地蔵を巡る旅の最初は遍路と同じように、第1番札所霊山寺からです。懐かしい境内、本堂前のベンチに暫く座っていました。門前一番の店は閑散。
「今年の遍路はちょっと出足が遅いようですねー・・」と女将さん。
霊山寺の参道とも見える2番札所への旧道を行きます。
右折すると地蔵堂横に光明真言塔などとともに真念石が置かれています。そこには不明瞭ながら「右いど寺のみち、左里やうぜん寺の○○」と。
真念石自体当初の位置から移動していると思えますから方向指示には従えませんが、とにかく霊山寺と反対方向の井戸寺への道を目指します。それは板東谷川に沿った雰囲気の良い道で、神社や寺が多くあることからひょっとしたら井戸寺への旧い道筋であるかもしれません。
旧吉野川を「ひのきばし」で渡ります。川は深い青。道角に地蔵堂が見えてきます。


1番霊山寺


霊山寺参道

 真念石


板東谷川


旧吉野川

乙瀬出来島の地蔵(建立:宝暦6年 1756)
大変美麗な地蔵で大切に扱かわれていることが感じられます。台座に念佛講中と。堂前の常夜灯は寛政12年(1800) 乙瀬村東講中と刻まれています。


出来島の地蔵堂

 出来島の地蔵

そこからおそらく井戸寺への道を外れ、細い道を東進。目指す最初の高地蔵です。

乙瀬中田の地蔵(建立:慶応4 1868) 板野郡藍住町乙瀬中田
 二段の墓石状台石、角柱台座・蓮台上の地蔵座像。台座高1.99m、全高3.04m
 台座の銘刻は「爲溺死亡霊菩提」。水没者の霊を慰めるために作られたことが記されています。
旧吉野川河畔に立つ地蔵。改修前は川幅が20mほどしかなく、ひとたび大雨が降れば止めどなく水が溢れ出し、たくさんの水没者を出したと言われます。
水深も今よりずっと深く、普段から水難事故が絶えなかった所であったとも。今は川幅が広げられ静かな川となっています。
この地蔵は、蓮台前部は破損、両手首も失った悲惨な姿です。何度となく水を潜ったであろうことを想います。


乙瀬中田の地蔵

 乙瀬中田の地蔵

ここから旧讃岐街道にある二つの高地蔵をたずねます。

東中富龍池の地蔵(建立:安政3 1856) 板野郡藍住町東中富龍池傍示
 石基壇、三段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上の地蔵座像。台座高2.89m、全高3.82m、これは吉野川流域の地蔵中で 台座高2位 全高3位。台座の銘刻は「悲願金剛」
この地は旧吉野川・今切川河畔に近く昔「カクジの浜」と呼ばれ生産した藍玉の出荷や藍の栽培に欠かせない肥料の搬入を行う港として多いに賑わっていたところ。この地蔵は出入りする舟の標識として建てられたと言われます。
地蔵像としても実に立派なもので、板野十六地蔵の十六番札所ともなっています。(1番札所は吉野町西条 西光院)

 東中富龍池の地蔵

 東中富龍池の地蔵


東中富龍池の地蔵


東中富龍池の地蔵

東中富龍池から旧讃岐街道(現県道1号)を南へ500mほど。

東中富東の地蔵(仮称)(建立:宝暦7 1757)板野郡藍住町東中富東傍示
 石基壇、三段の墓石状台石、六角柱台座・蓮台上の笠付き地蔵坐像。基壇高0.47m、全高2.83m。
 台座正面に「(梵字)奉造立地蔵尊」同斜前左面に「板野郡東中留邑念佛講中」と刻む。また同斜前右面に「從是 讃州金毘羅迄 十八里/從是 當國城下徳嶋迄 二里」と刻む讃岐街道の道標地蔵でもあるのです。
 隣に庚申塔があり、「奉建立庚申石像牛馬守護〇/宝暦七丁丑年七月七日 板野郡東中留邑講中」と刻まれます。
 交通量の多い県道1号線(ここは徳島自動車道、藍住ICの入り口でもあるのです)の傍で、そのひっきりない車の波に地蔵も庚申塔もとまどっているようでした。

 東中富東の地蔵
(突然、獲物を捕らえた烏が頭上を過ぎます・・)

 東中富東の地蔵


東中富東の地蔵

 台座の道しるべ

(以下 次回)

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