鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

吉野ケ里遺跡と邪馬台国

2023-06-17 20:43:01 | 邪馬台国関連
先々週の水曜日(6月8日)だったか、ユーチューブで佐賀県の山口知事が定例ではない特別の記者会見を開いていたのを見た。地元のメディアがユーチューブに載せたらしい。

その会見を聞いていて驚いたのだが、「吉野ケ里の発掘調査で新たに見つかった箱式石棺の蓋を開けるから、注目して欲しい。とんでもないものが見つかるかもしれませんよ」という趣旨の、当たり前の県知事会見ではまず聞いたことの無いような口振りだったのが印象的だった。

要するに、今度見つかった石棺は吉野ケ里遺跡こそが邪馬台国であるというよく知られた説の裏付けになる人物が眠っており、中からしかるべき遺物が見つかるかもしれないから、大注目して見ていてくださいという会見だったのだ。

その人物とはズバリ女王卑弥呼であり、1800年近い経年によって遺骨そのものは消滅しているかもしれないが、卑弥呼が魏の皇帝から貰った「親魏倭王」と刻まれた金印や100枚の銅鏡の一部などが見つかる可能性があり、そうなれば吉野ケ里が邪馬台国の中心だったことになるというわけである。

その石棺というのは、吉野ケ里遺跡の弥生時代中期の全部で3000基もあるという甕棺墓群より高い地点にあった日吉神社の下に見つかっている。日吉神社があることで周辺の4000平方メートルほどは遺跡地の中にありながら全く手つかずだったのだが、日吉神社が移転したことで発掘が可能となった。

そこで神社の下を掘ったら今度大注目の箱式石棺が現れたというのである。

甕棺墓群の時代は弥生時代の中期なので、年代で言えば紀元前300年から紀元0年の頃であり、邪馬台国時代の紀元150年代から250年代よりも2~300年古いのだが、今度見つかった石棺は弥生時代後期以降のものなので、年代的には邪馬台国時代にピタリと重なる。

邪馬台国吉野ケ里説では肝心の邪馬台国時代の年代に合致する遺物が稀だったので、今回の石棺には知事を筆頭に地元が大いに期待した。

その大いなる期待感が最初に挙げた県知事自らの特別会見という形になったのだが、6月12日以降の箱式石棺の内部調査の結果は残念ながら期待を裏切るものだった。

遺骨無し、副葬品なしの無いない尽くしだったのである。

箱式石棺の大きさは、内径(うちのり)で長さ180センチ、幅36センチという小ぶりな物で、この大きさではまず被葬者は大の男ではないことが分かり、であればこそきゃしゃな女性の被葬者、つまり「願わくば卑弥呼様」と期待されたようだ。

ところがあに計らんやで、箱の中は空っぽだった。ただ、蓋石と壁石の内側には「朱」が塗られ、また底石はなかったのだが底土にも赤色の顔料の跡が見られることで、邪馬台国時代(弥生時代後期)の有力者の墓であることは間違いないという。

私などはこの石棺は本当に墓だったのだろうかという疑問を感じてしまう。普通、弥生時代にせよ古墳時代にせよ墓の内部もしくは墓の周りには「供献土器」という葬送儀礼に使う小ぶりの土器が必ずあるものだが、それさえ見つかっていないのだ。

そこは大いに首を傾げるところだが、墓の主が埋葬されて間もなく何らかの理由により改葬されて別の場所に葬られ直されたのか、あるいはもともと墓だけは造ったが埋葬されずじまいだったのか、邪馬台国云々とは別の謎を呼ぶ状況だ。

邪馬台国吉野ケ里説は九州説の中では一定の支持者を持っているが、今回の「空振り」で支持率は下がるかもしれない。

もっとも私の邪馬台国九州(八女)説では、吉野ケ里の所在する神崎郡は邪馬台国連盟21か国の一国で、倭人伝記載の「華奴蘇奴(かなさな=神崎)国」に比定しており、佐賀県内ではほかに「伊都(イツ)国」(厳木町)、「対蘇国」(鳥栖市)、「鬼国」(基山)などの国々があったと理解している。

佐賀県では日吉神社のあった丘の周辺にはまだ4割方未発掘地があるので、9月以降に調査の手を入れて行くと含みを残しているが、邪馬台国(女王国)の所在地論争とは別の発掘の成果は期待しておこう。

楠隼中高は男女共学化へ

2023-06-15 21:07:40 | おおすみの風景
肝属郡肝付町に2015年に開校した全寮制の男子校「楠隼(なんしゅん)中高校」が2026年度から女子の入学を受け入れる、つまり男女共学の中高一貫校として再出発するらしい。

現鹿児島県知事の塩田氏がそう表明した。塩田氏は先年の知事選挙でそうマニュアルに掲げていたという。

楠隼(なんしゅん)中高校は県立でありながら生徒を全国から募り、しかも全寮制中高一貫を採用しており、全国的にも稀有な学校である。

しかし県立なら県民の子弟を対象とする学校というのが普通だが、全国から集めた生徒に対して県の職員である県立高校の教諭が指導に当たるというので、私などは開校当初から不可解に思っていた。

肝付町内之浦にある文部科学省の宇宙観測所との連携をカリキュラムに入れるというのが、全国からの生徒募集の名分になったようだが、果たしてその点だけで県立高校が全国から生徒を集めることが可能なのか未だに首を傾げざるを得ないでいる。

この学校の前身は県立高山高校(もっと前は高山高等女学校)で、2015年に廃校予定となっていたのを、当時の伊藤県知事の「ツルの一声」で存続が決まり、今見るようなシステムの中高一貫校になった。

伊藤知事は自身の出身校のラサール学園(中高一貫校)をモデルに考えていた節があり、大隅地方の生徒の減少による県立高校の廃校を救うため、地元の生徒が集まらないのなら全国から生徒を募集すればよい、というアイデアに至ったのだろう。

要するに「大隅のラサール」を目指したのではないか。ラサール学園は東大入学者や医学部入学生の極めて多い学校で、そのため生徒は全国からやって来る。だが、ラサールは私立である。私立なら全国の生徒を対象に受け入れて何の問題もない。

もしかしたら伊藤元知事はラサールのようなハイレベルの私立の中高一貫校に対して、大隅に分校を出すことを打診したが断られ、結局県立でということになったのかもしれない。

その経緯はよく分からないが、とにかく高山高校の敷地に約50億という巨額を投入して建設された全寮制の中高一貫校は2015年度に始まった。

当初はそれなりに県内外から生徒が集まり、6年後の中学校の部の1期生が卒業した2020年には東大への入学者が数名出るほどになった。

しかし中学校180名、高校270名の定員に対して中学校は9割方埋まっているが、高校は高校単独での入学者がほぼゼロの状態が続いているという(2023年度は1名のみ)。

今回塩田知事は中高一貫のシステムは存続させ、中学校からの持ち上がりの生徒だけに限定するらしい。さらに女子の入学を進めるともいう。また必ずしも全寮制にはこだわらないようだ。

そうなると地元の通学圏の生徒が増えることになりそうだ。だが、ただでさえ少子化によって生徒が減少して行く地方にあって、地元の中学校との間で生徒の奪い合いが起こりはせぬかと心配になる。

杞憂ならそれに越したことはないが、私は50億もの巨額を投じることができたのなら、そこに「県立短大」を誘致できなかったかと今さらながらだが思うのだ。

大隅半島には高校以上の教育機関としては鹿屋体育大学があるが、果たして地元の高卒生の何人が通っているのか、ほとんど話題に出ないレベルでしかない。

短大を含め専門学校や普通学部系の大学に行くとなると、高卒生のほとんどは大隅を離れるのが当たり前になっている。親の負担は馬鹿にならない。地元に短大の一つでもあれば、その学部にもよるが100人くらいの単位で地元に残って勉学することが可能だろうに。

崇神天皇が大和自生ではない理由

2023-06-12 19:42:32 | 邪馬台国関連
崇神天皇が北部九州の「五十(イソ)国」すなわち福岡県糸島市で王権を確立し、その後北部九州全域を皇子の垂仁天皇と共に掌中に収め、やがて半島情勢の逼迫により畿内大和に王権を移動させた――というのが私の「崇神天皇東遷説」の骨子である。

北部九州でその王権を継続できれば良いのだが、当時(3世紀後半=邪馬台国時代)の朝鮮半島南部では公孫氏の専横に対して魏の司馬懿(シバ・イ)大将軍が侵攻して公孫氏を打ち破っており、その勢いのまま半島から海を越えて攻めて来る可能性が考えられていた。

そうなると半島南部の利権もだが、九州北部の崇神王権の領有すら危うくなる。そう考えた崇神天皇ことミマキイリヒコイソ(五十)ニヱと、皇子のイクメイリヒコイソ(五十)サチは九州北部を離れ、列島の中心で最も安全な場所、つまり大和を目指した。

しかしそこにはすでに南九州由来の大和(橿原)王権が勢力を保持していた。この橿原王権を私は第1次大和王権と呼び、南九州(古日向)の邪馬台国時代の倭人伝には「投馬国」(王名はミミ、女王名はミミナリ)と記載された国が、2世紀の半ばに瀬戸内海を経由して畿内大和に入ったと考えている。

そして3世紀後半に北部九州からやって来た崇神天皇によって橿原王権は打倒された。その橿原王権最後の王こそ崇神天皇紀の10年に描かれた「武埴安彦・吾田媛」という南九州由来の名を持つ王と女王だったと考えられる。

彼等は謀反を起こしたと記されているが、実質的には北部九州からの侵略者崇神天皇への抵抗に他ならない。この二人が謀反を起こした様子を同年9月の条で崇神皇子の大彦が次のように述べていることで、武埴安彦と吾田媛が南九州由来であることが明確になる。

「吾(大彦)聞く、武埴安彦が妻・吾田媛、ひそかに来たりて、倭(やまと)の香山(かぐやま)の土を取りて領巾(ひれ)の頭に裏(つつ)みて祈り「これ、倭(やまと)国の物実(ものざね)」と申して即ち返りぬ。ここを以て事あらむと知りぬ。すみやかに図るにあらざれば、必ず遅れなむ。」

武埴安彦と吾田媛の内アタヒメが天の香久山に登って、そこの土を採取し「大和の物実」と言ったというのを知った大彦は、これは只事ではない謀反を起こそうとしているのだ――と悟ったというのである。

香久山の土を採取したことが謀反の表れであるというのはどういうことか?

実は神武天皇が南九州から畿内大和に入り、そこの豪族と戦う前にやはり香具山の土を取らしているのだ。神武天皇はその土は「天業(あまつひつぎ)の成否を占うもの」と考えていたとある。武埴安彦と吾田媛がこれと全く同じことを行ったということは
武埴安彦と吾田媛の王権がまさしく神武天皇と同じ南九州由来であることを表明している。

崇神天皇が1世紀余り先に大和に王権を築いた南九州由来の神武王権とは出自が違い、後発で大和に入って来たのはこの先住の武埴安彦と吾田媛王権を滅ぼしたことでまずは分かる。

もう一つ崇神王権が神武王権とは違う大きな理由がある。

それは祭祀である。

崇神天皇の5年から7年に掛けて描かれているのは、「国内に疫病が多く発生し、民の半ばが衰亡した」(5年)、「百姓が流離し、背く者も現れた」(6年)という非常事態であった。

このため崇神天皇は「アマテラス大神を皇女のトヨスキイリヒメに祭らせ、ヤマトの大国魂神を皇女のヌナキイリヒメに祭らせた」(6年)が、ヌナキイリヒメの方は「髪落ち、痩せて祭ること能わず」(同6年)という有様であった。

そこで神夢の知らせがヤマトトトヒモモソヒメにあり、大和の神「大物主」と「大国魂神」をそれぞれオオタタネコとイチシナガオイチに祭らせたところ、ようやく「疫病はじめて息(や)み、国内ようやく鎮まりぬ。五穀実りて、百姓にぎわいぬ」(同6年11月)となった。

以上のように崇神王権内部の皇女たちが大和の「大物主」や「大国魂」を祭れなかった様子がありありと書かれているのだが、もし崇神王権が大和自生の王権であるのならば、いったいなぜ大和自生の「大物主」と「大国魂」を祭れなかったのだろうか。

そう考えると崇神王権は大和自生ではなく、大和へは他所から入って来た可能性が極めて高いということが言えよう。

崇神天皇なんかどの道「造作」なのだから、そんな記録は無視しよう――という「造作説」をとるのならなおさら、以上のように皇女が大和自生の神々を祭れなかったなどという不名誉な記事など書く必要はないではないか。

それを書いた(書かざるを得なかった)理由はただ一つ、崇神王権は大和自生ではなく、よそからの遷移による王権であったからである。崇神も垂仁も皇女のトヨスキもヌナキも和名のすべてに「イリ」が入っていることもその考えを後押しする。

まとめると、崇神王権は北部九州「五十(イソ)」(糸島市)を中心に勢力を伸ばしたあと、半島情勢の逼迫から畿内大和へ東遷した勢力である。その理由は次の2点に集約される。

①大和の先住勢力である南九州由来のタケハニヤス・アタヒメ王権を滅亡させた。すなわち南九州由来の橿原王権に取って代わった。
②大和自生の神々「大物主」と「大国魂」を祭れなかった。これにより崇神王権が大和にとってはよそ者だったことがさらに了解される。

(追記)
「五十(イソ)国」すなわち糸島において崇神王権が勢力を伸長させ、北部九州で一大勢力となったのだが、その大勢力を魏志倭人伝では「大倭(タイワ)」(倭人連合)と書いている。この大倭王こと崇神王権が大和に東遷したがゆえに、畿内大和の「大和」が生まれたと考えている。「大和」は「大倭」の佳字化に他ならない。

糸島の崇神王権が「大倭王」となった経緯と、九州邪馬台国(八女説)との関係、及び「大倭」が東遷ののちに「大和」と佳字化され、しかも大和が「やまと」と読まれる理由については、項を改めて書くことにしたい。

ホケノ山古墳とホケノ頭遺跡

2023-06-10 21:14:05 | 邪馬台国関連
6月4日のブログ「新しい邪馬台国畿内説」では、邪馬台国女王卑弥呼は福岡県糸島市の王墓群系譜の主であったが、2世紀の初めに吉備や出雲等の豪族たちに推されて大和の纏向に移り、纏向で草創期のヤマト王権を開始した――という纏向学研究センター所長の寺沢薫氏の新説を取り上げた。

批判的な結論としては、まず糸島は魏志倭人伝に登場する「伊都国」ではなく、そこで卑弥呼が女王だったことはなく、したがってそもそも畿内説は有り得ないということと、糸島は崇神天皇と皇子の垂仁天皇の故地であり、二人の天皇の和風諡号に共通の「五十(イソ)」国であった、と指摘した。

そしてそこから崇神天皇が東遷し、南九州からの最初の大和(橿原)王朝に取って代わった。それが纏向を王都とした崇神王朝であり、卑弥呼が糸島から東遷したという部分を崇神天皇の東遷に変えればあながち不当ではない――とした(ただし崇神天皇の東遷の時代は3世紀後半と考えている)。

また纏向に所在する箸墓古墳を卑弥呼の墓とするのは誤りであるとも書いた。

私の「崇神天皇東遷説」に従えば、箸墓は崇神王権における巫女王の一人であるとまでは言えるが、記紀に記された「ヤマトトトヒモモソヒメ」その人であると断言はできない。

さて、桜井市纏向に所在する箸墓の近辺には纏向古墳群として全長が100メートル前後の前方後円墳が5つあるという。考古学的な調査からどの古墳も前方後円墳であり、どれもほぼ3世紀代に築造された古いものであるという。

纏向古墳群の盟主的な古墳はもちろん箸墓古墳で、全長280mを数える大型古墳であり、典型的・定型的な前方後円墳としては最古の古墳だという。ただその「最古」について調査研究によれば築造年代は3世紀の半ばとされるのだが、私は疑問に思っている。

邪馬台国畿内説ではおおむねこの箸墓古墳の被葬者を卑弥呼と考えており、卑弥呼の死亡年である247年に合わせた年代観に過ぎないと思うのである。

古墳自体は宮内庁の管轄下にある「陵墓参考地」なので発掘調査はできないのだが、先年、周濠の中から「木製の鐙(あぶみ)」が見つかっており、そうなると騎馬の風習が導入されたあとに築造された古墳ということになり、早くて4世紀の前半ではないかと考えている。

ところで箸墓を盟主とする纏向古墳群には次の6つの前方後円墳があるという。

1,石塚古墳
2,矢塚古墳
3,勝山古墳
4,東田大塚古墳
5,ホケノ山古墳
6,箸墓古墳

箸墓古墳は別格の巨大さを誇るのだが、あとの5つの前方後円墳は120mの東田大塚古墳を最大として100m前後の大きさで、前方後円墳築造の草創期に造られたものだと考えられている。

この箸墓以外の5つのうち珍しい名の古墳がある。それはホケノ山古墳だ。

どの古墳名もその土地の字を冠しているのだろうが、「ホケノ山」とは異色の名である。このホケノの意味がよく分からないのだが、桜井市の観光用のホームページを見ると、ホケは「浮気(フケ)」からきた言葉で、一言でいえば「湿地」だそうである。

そうなると「ホケノ山」は「湿地の山」ということになるが、矛盾してはいないだろうか。湿地なら山ではなく谷だろう。

語源は「ホカす」ではないか。「ホカす」とは「捨てる」ことで、「葬(ほうむ)る」にも通じる語である。

要するにホケノ山とは「葬る山」であり、その意味なら古墳(墓)にはぴったりの言葉である。

これと全く同じ「ホケノ」を使った遺跡が大隅半島の錦江町田代にある。「ホケノ頭(かしら)遺跡」という縄文時代でも早期の遺跡で、約1万年前の「岩本式土器」の完形が10個体もまとまって発掘された遺跡だ。

この遺跡名「ホケノ頭(かしら)」も異色の名であり、大隅半島に極めて多い縄文時代の遺跡名でもカタカナを使った名はほぼ皆無と言ってよい。

ただしホケノ頭遺跡は古墳ではないので「葬る」という概念ではとらえられない。鹿児島弁でホケというと、「ホケ出し」で僅かに使われるくらいで、この意味は「憂さ晴らし」「ストレス解消」であり、ホケは「火気」だという。

しかし「火気」が「憂さ」や「ストレス」に通じるかというと、どうも心もとない。それよりやはりホケは「捨てる」の「ホカす」に由来するとした方がしっくり来る。

昔、ある人から土地の名として「うんのホゲ」と聞いたことがあり、その意味を訊くと「牛(うん)を捨てる場所」だということだった。つまり死んだ牛を海の崖から捨てる所だというのである。

とつおいつ考えると「ホケノ山」は「捨てる山・葬る山」が正解だろう。だが、大隅半島の「ホケノ頭(かしら)」遺跡は川の流れる集落からは4~50mの高所の丘の上にあるから墓としては最適な場所だが古墳ではないし、さりとて1万年前からの地名とはちょっと考えられず、頭を悩ます地名である。

決められない県と市

2023-06-08 10:40:18 | 日記
今年は鹿児島で「8.6水害」が起きて30年の節目だ。

「8.6水害」とは1993年(平成5年)の8月6日に県都鹿児島を中心に豪雨による洪水やがけ崩れなどで行方不明者を含めて49人が命を落とした大水害である。

当時の時間雨量としては突出して多い2時間で180ミリというのが記録に残っている。一時間に直すと90ミリで、最近では100ミリを超すのは珍しくないが、当時としては驚くべき記録だった。

そのため鹿児島市内では甲突川が溢れ、中心部は完全に水に漬かった。国道3号線が川のようになり、その流れで人がおぼれ死んだというほどだった。

痛ましいのは鹿児島から北東に伸びる国道10号線沿いの崖地「竜ヶ水」(花倉町)だ。崖の上からの土石流で病院が押しつぶされ、付近の住民とともに15名が巻き込まれて死亡している。

実は霧島市や姶良市でも8.6水害の5日前に大雨による被害があり、23名の死者を出しているのだが、県都鹿児島の方が豪雨被害も死者数もまた報道回数も断トツに多いため、その陰に隠れてしまった感がある。

この年は9月3日にも巨大台風第13号による被害があり、とにかく災害の夏だった。梅雨以降の雨天が多く、7月8日だったかに一端出された「梅雨明け宣言」は8月になって取り消され、梅雨明けの無い年になった。世界の異常気象の走りだったと言えないこともない。

この8.6水害の被害は人的面だけにとどまらなかった。鹿児島市内甲突川に架かっていた江戸末期に造営の「五大石橋」の内の2つの石橋が流されてしまったのである。

県と市の防災上の判断で残りの3石橋も取り除かれることになったのだが、特に文化財として極めて価値の高い「西田橋」の撤去には大反対運動が起こり、「烏の啼かぬ日はあっても、西田橋撤去反対の報道のない日はなかった」くらい連日揉めにもめた記憶がある。

石橋の石一つ一つを拓本にとって残すという奇抜なプロジェクトも行われ、話題性には事欠かなかった。しかし結局西田橋は撤去され、今は祇園の洲に近い「石橋公園」に移設復元されてその余命を保つことになった。

いま鹿児島県と鹿児島市とで話題性に事欠かない問題が発生しており、「烏の啼かぬ日」というほどの頻度ではないが、それでもここ3ヶ月ほどは一週間に一度くらいは何らかの関連記事が載せられている。

それは県が主体の「総合体育館」新設と、市が主体の「サッカースタジアム」の新設についてである。

それぞれどこに新設するか、つまり建設場所の問題ですったもんだしているのだ。

おおむねの新設場所として鹿児島市の東側の海岸部にある埋立地でかつて「ドルフィンポート」というしゃれた名の海と桜島を背景にした商業施設が造られ、今は更地となり緑地公園的な姿になっている所が最大の候補地になっている。

県はそこに国際会議なども開催できる「総合体育館」(アリーナ)の青写真を持っており、おそらくそれはかなり有力な案なのだが、商業団体や一般県民からは「賑わいの回遊性がない」とか「桜島の景色が台無しになる」などの反対も強い。

また市のサッカースタジアム建設も同じ場所に造れないかという案が浮上したが、ドルフィンポート跡地に二つの巨大施設は土台無理だというのが多くの市民の考えだ。

その他の県有地や市有地に関する案も散発的に出ているが、さらに決め手を欠いているのが現状である。

この総合体育館にしろサッカースタジアムにしろ、こういった体育系の新施設についてはもう9年も前から新設の要望と計画案が出されながら一向に進展していないという。9年前と言えば2014年で、鹿児島国体の開催が2020年と決定されたころだと思われる。

そのために国体会場として現在の永吉町にある鹿児島アリーナでは手狭であり、かなり経年していることから新総合体育館を建てようと決めたのだろう。その建設場所として契約期限が数年後に迫っていたドルフィンポートの跡地を考えていたのではないか。

それならドルフィンポートから商業施設が撤退し、更地になったらすぐにでも建設に着手すればよかったはずだ。いまから5~6年前というとあのテレビ朝日出身の三反園訓氏が県知事に当選したころだ。この人は原発回避を公約に掲げながら反古にし、いろいろ批判を浴びた人物で、そのためもあってかどうやら国体開催など歯牙にもかけなかったようである。

三反園氏の次に立った現知事の塩田氏は通産省の官僚出身でその点では各所に目配りが効いており、現に2020年の鹿児島国体開催が中止となりそうなところ、何と2023年に開催予定だった佐賀県に懇願して2023年に繰り延べてもらい、佐賀県は翌2024年に延期したという実績を上げた。

実は佐賀県知事とは東大の同期で、同じ様に官僚上がりという繋がりがあったからだという。こういう個人プレーは県レベルでは非常に珍しいが、スポーツ大会という政治性や思想性の極めて薄いイベントだからできたことだろう。

それはいいとして、一年延期してまで国体の開催を譲ってくれた佐賀県では、国体用の施設はとっくに整備済みで、その名をSA
GAプラザといい、立地する場所をサンライズパークというそうだ。本来なら今年、そこを中心に国体(来年の佐賀大会からは国民体育大会ではなく国民スポーツ大会という名称になる)が開催されたはずで、参加者は新施設でさっそうと競技に励んだに違いない。

一年延期してまで鹿児島に今年の国体開催を譲った佐賀県民が、今の鹿児島県と鹿児島市の新総合体育館(アリーナ)とサッカースタジアムの新設場所の決められない状況を見たらどう思うだろうか聞いてみたいものだ。

※自分的には県の新総合体育館(アリーナ)を大隅地区に新設したらどうかと思っている。鹿屋市なら鹿児島空港から東九州自動車道で直につながったので、空港経由で来た場合、国内からでも国外からでも、鹿児島市内に行くのとそう変わらない時間で到着できる。建設用地なら平らな土地が腐るほどある。