鴨着く島

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ホケノ山古墳とホケノ頭遺跡

2023-06-10 21:14:05 | 邪馬台国関連
6月4日のブログ「新しい邪馬台国畿内説」では、邪馬台国女王卑弥呼は福岡県糸島市の王墓群系譜の主であったが、2世紀の初めに吉備や出雲等の豪族たちに推されて大和の纏向に移り、纏向で草創期のヤマト王権を開始した――という纏向学研究センター所長の寺沢薫氏の新説を取り上げた。

批判的な結論としては、まず糸島は魏志倭人伝に登場する「伊都国」ではなく、そこで卑弥呼が女王だったことはなく、したがってそもそも畿内説は有り得ないということと、糸島は崇神天皇と皇子の垂仁天皇の故地であり、二人の天皇の和風諡号に共通の「五十(イソ)」国であった、と指摘した。

そしてそこから崇神天皇が東遷し、南九州からの最初の大和(橿原)王朝に取って代わった。それが纏向を王都とした崇神王朝であり、卑弥呼が糸島から東遷したという部分を崇神天皇の東遷に変えればあながち不当ではない――とした(ただし崇神天皇の東遷の時代は3世紀後半と考えている)。

また纏向に所在する箸墓古墳を卑弥呼の墓とするのは誤りであるとも書いた。

私の「崇神天皇東遷説」に従えば、箸墓は崇神王権における巫女王の一人であるとまでは言えるが、記紀に記された「ヤマトトトヒモモソヒメ」その人であると断言はできない。

さて、桜井市纏向に所在する箸墓の近辺には纏向古墳群として全長が100メートル前後の前方後円墳が5つあるという。考古学的な調査からどの古墳も前方後円墳であり、どれもほぼ3世紀代に築造された古いものであるという。

纏向古墳群の盟主的な古墳はもちろん箸墓古墳で、全長280mを数える大型古墳であり、典型的・定型的な前方後円墳としては最古の古墳だという。ただその「最古」について調査研究によれば築造年代は3世紀の半ばとされるのだが、私は疑問に思っている。

邪馬台国畿内説ではおおむねこの箸墓古墳の被葬者を卑弥呼と考えており、卑弥呼の死亡年である247年に合わせた年代観に過ぎないと思うのである。

古墳自体は宮内庁の管轄下にある「陵墓参考地」なので発掘調査はできないのだが、先年、周濠の中から「木製の鐙(あぶみ)」が見つかっており、そうなると騎馬の風習が導入されたあとに築造された古墳ということになり、早くて4世紀の前半ではないかと考えている。

ところで箸墓を盟主とする纏向古墳群には次の6つの前方後円墳があるという。

1,石塚古墳
2,矢塚古墳
3,勝山古墳
4,東田大塚古墳
5,ホケノ山古墳
6,箸墓古墳

箸墓古墳は別格の巨大さを誇るのだが、あとの5つの前方後円墳は120mの東田大塚古墳を最大として100m前後の大きさで、前方後円墳築造の草創期に造られたものだと考えられている。

この箸墓以外の5つのうち珍しい名の古墳がある。それはホケノ山古墳だ。

どの古墳名もその土地の字を冠しているのだろうが、「ホケノ山」とは異色の名である。このホケノの意味がよく分からないのだが、桜井市の観光用のホームページを見ると、ホケは「浮気(フケ)」からきた言葉で、一言でいえば「湿地」だそうである。

そうなると「ホケノ山」は「湿地の山」ということになるが、矛盾してはいないだろうか。湿地なら山ではなく谷だろう。

語源は「ホカす」ではないか。「ホカす」とは「捨てる」ことで、「葬(ほうむ)る」にも通じる語である。

要するにホケノ山とは「葬る山」であり、その意味なら古墳(墓)にはぴったりの言葉である。

これと全く同じ「ホケノ」を使った遺跡が大隅半島の錦江町田代にある。「ホケノ頭(かしら)遺跡」という縄文時代でも早期の遺跡で、約1万年前の「岩本式土器」の完形が10個体もまとまって発掘された遺跡だ。

この遺跡名「ホケノ頭(かしら)」も異色の名であり、大隅半島に極めて多い縄文時代の遺跡名でもカタカナを使った名はほぼ皆無と言ってよい。

ただしホケノ頭遺跡は古墳ではないので「葬る」という概念ではとらえられない。鹿児島弁でホケというと、「ホケ出し」で僅かに使われるくらいで、この意味は「憂さ晴らし」「ストレス解消」であり、ホケは「火気」だという。

しかし「火気」が「憂さ」や「ストレス」に通じるかというと、どうも心もとない。それよりやはりホケは「捨てる」の「ホカす」に由来するとした方がしっくり来る。

昔、ある人から土地の名として「うんのホゲ」と聞いたことがあり、その意味を訊くと「牛(うん)を捨てる場所」だということだった。つまり死んだ牛を海の崖から捨てる所だというのである。

とつおいつ考えると「ホケノ山」は「捨てる山・葬る山」が正解だろう。だが、大隅半島の「ホケノ頭(かしら)」遺跡は川の流れる集落からは4~50mの高所の丘の上にあるから墓としては最適な場所だが古墳ではないし、さりとて1万年前からの地名とはちょっと考えられず、頭を悩ます地名である。