鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

玉城デニー氏の再選

2022-09-13 20:58:19 | 日本の時事風景
9月11日に行われた沖縄県知事選挙で、オール沖縄が推薦する現職の玉城デニー氏が再選を果たした。

争点だった名護市辺野古への米軍基地移設については、反対派のオール沖縄が勝利したことになる。

これで沖縄では、前々回に反対派である翁長雄志氏が当選してから3回連続して、宜野湾市の普天間基地を名護市辺野古沖に移設することに反対する民意が示されたことになる。

しかも2019年には移設をめぐって県民投票が行われ、その時は約70パーセントもの県民が「ノー」を突き付けている。

これに対して日本政府はそれにはお構いなしに名護市辺野古沖を埋め立て続けている。

その民意無視の強引なやり方は安全保障上の上位概念である「日米安全保障条約(1960年6月23日締結の新安保)」に基づく。その第6条よれば日本政府は米国による日本の安全保障および極東での平和を維持するために、米国の陸海空軍が日本国内の施設や区域を使用できるのである。

つまり日本及び極東の安全と平和を維持するために必要と米国が判断すれば、日本政府にはお構いなしに(ただし事前通告と形式的な協議は行う)、国内の施設を利用したり、変更したりすることができるのだ。

宜野湾市普天間基地の危険性が増してきたために、日本政府と米国が協議した結果、普天間基地は返還すると決められたのが1996年であった。(※直接の理由は前年の1995年に起きた米兵の少女暴行事件であった。)

その代替地(移設先)は名護市辺野古沖であった。この決定は日本政府だが、もちろんアメリカの意向を下敷きにしている。

同時に反対運動が県下で広がり、辺野古海岸での測量も阻止されたりしたが、政府はそれにもめげず、着々と事業を進め、今日の埋め立てに至っている。

現在は軟弱地盤を残して大方埋め立てられたようだが、問題は軟弱地盤である。玉城デニー知事はこの点を論点にし、県に与えられた権限である埋め立て許可を出さないでいるが、政府はやはり米軍に忖度して強行せざるを得ないのだ。

今回の県知事選の民意は辺野古への米軍基地移設は反対なのだが、日米安保がある限り、日本政府の強硬姿勢は続く。「防衛問題」は政府の専管事項であるというのが理屈だが、その土台である日米安保条約(第6条)によれば、アメリカが日本と極東の安全と平和を担っており、そのためなら日本国内に米軍を駐留する施設が必要とあらば、ほぼ日本政府の追認で済む。

この日本政府の「軍事的専管事項上の米国追認(というより追随)」が地方では分断を生んでいる。

ここ数年で海上自衛隊鹿屋航空隊基地で米軍の「空母艦載機離着陸訓練(FLCP)」や「空中給油訓練」が行われるようになり、そして今度はMQ9という「無人飛行機」の配備の実施が予定され、市民の不安が醸成されている。

同じ事は種子島の離島「馬毛島」でも行われようとしている。馬毛島に自衛隊基地を造成し、そこを米軍の訓練場にしようというのである。

もちろん中国の海洋進出と軍備の増強に対処するための施設であり訓練であることは了解できるのだが、いたずらに不安を煽るのはどうか。日本は中国とは外交上政経分離策を採り、経済的な結びつきは極めて大きくなっているのだ。お互いの国柄を相互に尊重しなければ足元をすくわれる可能性が高い。

アメリカは自由と民主主義を頑なに「アメリカファースト」的に守ろうとしているのだが、どの国にもその国の歴史に見合った自由があり、民衆がいる。そんなのは自由でも民主主義でもない――と決めつけるのは高飛車すぎる。

その点、日本は西洋的な自由と民主主義を明治以降少しずつ取り入れ、戦後はアメリカの自由と平等を導入し、そこに自国の歴史を織り込んで特有の自由と民主主義国家を形成しつつ今日に至っている。結果としてはアメリカ型の自由と民主主義ではなく、日本型の自由と民主主義になった。

これはこれでよいと思う。ただ、日米安保がある限り、日本独自の外交にはならない。安倍元首相があれだけ世界を歴訪し、親善に努めてきたにもかかわらず、北方領土問題も北朝鮮による拉致被害者問題も一向に進展しなかったのはそのためだったと言える。

沖縄の米軍基地問題は実は1949年に中国共産党政府が成立したのを受けて、GHQが1950年2月10日に「沖縄に恒久的な基地を建設する」と表明したことにさかのぼる。要するに沖縄を米国の属領的な軍事基地と見做したことが、今日もあれだけ巨大な基地の数々が置かれた原因なのである。

さらに1951年9月に約定された旧安保、及び1960年6月に結ばれた新安保によって沖縄の過大な基地は固定されてしまった。

沖縄の米軍基地の状況をなくすには、日米安保条約を廃止するのが根本である。その上で、日本は「永世中立国」を宣言すべきだ。(※先に永世中立を宣言するのには、日米安保がネックになる。)

日米安保を廃止したら、日本は憲法9条により対外戦争はしない上、戦力も保持しないから、中国が攻めて来て蹂躙される――という考えは間違いである。どの独立国家も自衛のための武力を保持することは認められている。これはおよそ独立国家である以上、どの国も有する個別的自衛権なのだ。

9条は第一項で対外戦争はしないとし、第二項でそのための戦力は保有しないとある。つまり対外的な戦争をするための戦力は持たないのだが、自衛的武力(戦力)を禁止してはいない。そう解釈すべきである。(※ただし、自衛隊という文言は必要である。)

専守防衛力を持った永世中立国を日本は目指すべきだ。その時、日米安保という「二国間軍事同盟」は必要なくなり、米軍基地がもたらす市民的分断もなくなる。沖縄の米軍基地の一部は自衛隊の基地として再利用されるかもしれないが、多くの米軍基地は沖縄人のもとに返されるはずである。

世界はそれを待っている。


エリザベス女王の死(2022.09.08)

2022-09-10 12:56:57 | 日本の時事風景
今朝の新聞の一面にまた大見出しで重要人物の死の報道があった。

イギリスのエリザベス女王の死が、やや大きな顔写真とともに載せられていた。享年96歳。現存の世界の元首の中で最年長であり、かつその在位年数70年も最長であった。

つい3日前の9月6日にイギリスの新首相トラス女史の表敬訪問を受けた様子が報道され、同氏を新首相に任命したばかりで、その翌日に重篤な容体になったようだ。詳細は明らかではないが、王室からは「安らかな死を迎えた」という短いコメントが出されているから、眠るような往生だったのだろう。

何にしても在位70年は長い。昭和天皇も在位は63年と長い方だったが、これを凌ぐ長さだ。

ただ、昭和天皇の場合、第二次大戦を挟んで戦前と戦後のニ局面に遭遇しており、その波乱万丈さは他に類を見ない。

それに比べるとエリザベス女王の場合、即位が1952年であり、戦後の平和時代一局面だけの世代である。

といって波乱がなかったわけではない。

戦後は日本のいわゆる「大東亜共栄圏構想」によって、アジアの搾取型の欧米植民地支配が崩れ去ったのだが、もちろんその権益を最も多く失ったのがイギリスであった。欧米によるアジア・アフリカの植民地は解放され、1960年頃をピークにして次々に独立を果たしていった。その渦中にいて目の当たりにしたのがエリザベス女王であった。

やがてイギリスはいわゆる「英国病」に陥ることになった。労働党による行き過ぎた社会福祉政策(ゆりかごから墓場まで政策)が人々の自立心(やる気)を削いだと言われている。

一時は「世界の警察官」としてベトナムなど各国で強大な軍事力を振り回すアメリカとは険悪になったようだが、最終的に英米の結束が揺らがなかったのは「君臨すれど、統治せず」という英国王室を持つイギリスの政治的バランス(求心力)感覚の賜物と言えるかもしれない。

しかし統一ヨーロッパ(EU)からは離脱してしまったのだが、やはりヨーロッパ以外にも多くの連邦国家群(ポンド圏)を従えているイギリスと、他のヨーロッパ諸国との違いに起因するように思われる。

新国王はエリザベス女王の長男のチャールズ皇太子が継いだ。戴冠式がいつになるのかはまだ分からない。まずはエリザベス女王の「国葬」だろう。

国葬はウェストミンスター寺院で行われるという。日本からは現・徳仁天皇が参列されるようだが、同じ国葬と言っても今度の安倍元首相の国葬儀とは格が違うのを天皇は目の当たりにされるだろう。

果たしてエリザベス女王の国葬がいつになるのか。服喪期間が明けてからだろうから2週間後とすれば9月25日だ。安倍元首相の国葬儀は27日だから、そうなると各国の国家元首や首長たちは、エリザベス女王と安倍元首相の国葬儀の両方に時を置かずして参列することになる。

もし両方の参列は不可能と考える首脳がいるとした時、どちらの方を優先させるだろうか。それは明らかだろう。文句なく国葬に値するエリザベス女王の葬儀である。

その時、安倍元首相の国葬儀は各国首脳の参列取りやめの嵐に見舞われるはずだ。

だからこの際、やはり安倍元首相の葬儀は国葬ではない「内閣・自民党合同葬」レベルにしておくのが正解だろう。いまからでも遅くないからそうして欲しいと思う。

もう一つこの際だから加えると、新型コロナ終息も見えていない状況下であるから、各国の首脳陣には来日せず、「リモート(ビデオ)参列」に振り替えてもらうようにすればよいではないか。安倍さんが旧統一協会の大会に「ビデオ参加」したように。

伊都国を糸島としちゃあ,お仕舞いよ

2022-09-08 10:56:52 | 邪馬台国関連
高校2年生の時に邪馬台国素人論では異例のベストセラーになった『幻の邪馬台国』(宮崎康平著・1966年刊)を読んで以来、邪馬台国問題は折に触れて考えて来たが、確か1992年頃が転機だったと思う。

最初に興味を持ってから25年ほども経ってからだが、それまで古田武彦・安本美典など錚々たる論者が一大論争を繰り広げていたのだが、私は論点がちと違うぞ、と思い始めたのである。

どう論点が違うかというと、帯方郡からの邪馬台国までの郡使が通ったであろう行程についてである。

古田にせよ安本にせよ壱岐国から九州島に上陸するまでは同じだが、上陸後の「東南陸行500里、到伊都国」の解釈が、判を押したように、「九州島の上陸地点である末盧国から東南に500里歩いて至る国が伊都国で、そこは現在の糸島市である」と結論するのである。

糸島市は旧怡土郡前原町と志摩町、二丈町が合併したもの。この3町のうち旧怡土郡前原町が伊都国に比定された。平原弥生式古墳はじめ弥生時代中期の著名な甕棺王墓の井原遺跡・三雲遺跡や40面におよぶ大量の鏡が副葬された平原古墳などが集中していたからである。

(※糸島出身の考古学者原田大六はその著『邪馬台国論争(上・下)』で三雲・井原・平原の各弥生墓について考察し、これら弥生古墳の築造は卑弥呼の時代より100年ほど前で、この古墳を築造した勢力が畿内に渡ったのが「倭国の乱」であるとした。そして第10代崇神天皇の大叔母に当たるヤマトトトヒモモソヒメこそが卑弥呼であるとした。)

しかし、そもそも「伊都国」を「イト国」と読んで「怡土(いと)郡」になぞらえがちだが、それは誤りである。

なぜならこの「怡土(いと)郡」について書かれた最古の文献は日本書紀の「仲哀天皇紀」なのだが、そこに登場する豪族の名は「五十迹手(いそとて)」であり、仲哀天皇にまめに仕えたので天皇から「お前は伊蘇志(いそし)き男である。よって国名を伊蘇(いそ)国としなさい」と書かれている(同天皇8年)。これにより「怡土(いと)郡」は本来は「伊蘇(いそ)国」だったのである。

また別の文献である『筑前風土記(逸文)』にも「怡土県主の祖・五十迹手」が船で仲哀天皇を長門国の引島に迎えに参上したので天皇から賞せられた、「恪(いそ)しき手(人物)である」と。この由緒によれば五十迹手の本土(もとつくに)を「恪勤(いそしき)国」と呼ぶべきなのだが、今は「怡土郡(いとのこほり)」となっている。これは転訛である。

日本書紀の編纂は720年で、風土記はその頃朝廷から各地方へ編集命令が出されており、時間的には後者は書紀より10年以上は遅れて書かれているので、後者は前者の引き写しだと考えることもできるが、後者には独自の記事があり、必ずしもそうとは言えない。

この両文献から、私は糸島(旧怡土郡)は仲哀天皇時代(およそ350年前後)には、土地の豪族「五十迹手(いそとて)」に因んで「イソ国」であったとしてよいと考える。したがって「伊都国」を「イト国」と読んで、元来「イソ国」であった「怡土(いと)郡」に引き当てるのは誤りだということが分かる。

しかも糸島が伊都国だとすると、九州島の上陸地点である末盧国からは東南でなければならないのだが、末盧国を唐津とすれば東北になる。この末盧国を古田説では松浦半島の北端にある「呼子」とし、「呼子からなら唐津までは東南だから問題ない」と平然と言い、唐津からは東北であるのを全く無視する。

首を傾げつつも大家のいうことだからと、渋々その珍妙な解釈に耳を傾けていたのだが、ある日、「いや、そもそも伊都国が糸島なら、壱岐国から直接船が着けられるじゃないか。なぜわざわざ唐津や呼子で船を捨て、糸島まで歩いて行かなければならないのか?」という疑問が頭から離れなくなった。

そこで末盧国に比定されている唐津(私も唐津説だった)から地図上で「東南陸行」させてみたのである。そうしたらちゃんと松浦川沿いの道があるではないか。

その道は渓谷というか谷川というか松浦川に沿って上流に「東南陸行」しており、上流近くには「厳木(きうらぎ)町」という小盆地に展開する人口6000人ほどの町がある。この町からは分水嶺を越えてなお東南に行く道があり、多久市や小城市に通じ、そこからは有明海に面する肥沃な佐賀平野が広がっている。

最初、私は多久市か小城市が「伊都国」だろうと考えたのだが、今は「伊都国」は「イツ国」であり、上流山間の厳木町を「イツキ町」と読んで「伊都国=厳木町説」を提唱している。(※王族が住んでいながら小盆地に戸数僅か千戸の小国であるのは、かつての佐賀平野全体を覆うような大国「伊都(イツ)国」(厳(イツ)国)だったのだが、北部沿岸部の大国「大倭」と争って敗れたが故の逼塞と考えている。)

このように唐津から「東南陸行500里」に当たる伊都国は、まさしく東南に歩いた松浦川上流部にある「厳木町」である。この伊都国を福岡県の糸島市に比定したら、九州島上陸後ののっけから邪馬台国への行程を踏み外すことになり、永遠に邪馬台国には辿り着けない。

タイトルに寅さんの決め台詞「それを言っちゃあ、お仕舞いよ」に似せて「伊都国を糸島にしちゃあ、お仕舞いよ」としたのはその意味である。

※※邪馬台国までは「郡より女王国まで1万2千余里」のうち水行(海路)1万里を除いた残り2千余里の陸路であるから、畿内説は全く成り立たないことが分かる。唐津から徒歩で行けるところすなわち九州島内に求める他ない。途中の奴国・不彌国も佐賀平野にあり、そこを徒歩で通過し、さらに湯名至極の吉野ケ里(華奴蘇奴国に比定)なども通過し、筑後川を渡った久留米からさらに南の八女市郡域が女王国だ。

※※九州説でも邪馬台国が「投馬国の南、水行20日、陸行一月」と思い込んでいる論者が多く、投馬国が「不彌国の南、水行20日」と解釈してしまっているが、どちらも「帯方郡の南」なのである。邪馬台国が「帯方郡の南」なのは「郡より1万2千余里」と「水行10日、陸行一月」とが見事に同値対応していることで判明する。繰り返すが、このことにより畿内説は全くの論外となる。

ただ、投馬国については「水行20日」が「水行2万里」に対応することから、もし不彌国の南であるとすると、投馬国は不彌国から南へ2万里、すなわち帯方郡から末盧国までの1万里の2倍の距離にあることになり、不彌国がもし九州島の北端にあったとしても、奄美大島あたりに比定されてしまう。そして同様に邪馬台国の「南、水行10日、陸行一月」の「南」が投馬国の南であるとすると、奄美大島から南の沖縄島あたりに邪馬台国があることになるが、それでは「陸行一月」が浮いてしまう。

※※以上から、投馬国は「不彌国の南、水行20日」ではなく、「帯方郡の南、水行20日」であり、また邪馬台国は「投馬国の南、水行10日、陸行一月」ではなく、「帯方郡の南、水行10日、陸行一月」なのである。この「帯方郡の南、水行10日」は帯方郡から末盧国までの「1万里」に相当し、「陸行一月」は九州島の末盧国に上陸してから東南方面に歩く距離「1万2千里から水行1万里を減じた2千里」に相当する。

その場所は唐津から厳木町まで東南陸行500里の4倍に相当する八女市郡域である。(※まずは行程論だけによる結論である。)


旧統一教会勧誘の手口

2022-09-06 21:12:37 | 日本の時事風景
昨夜はNHKが旧統一教会の2世の元信者の被害状況を取り上げていた。(※以下、旧統一教会の「旧」を省いて書いて行く。)

統一教会信者2世とは、父または母または両親が統一教会の信者で、生れ落ちると同時に信者となった人たちを言うが、彼らは「神の子」だそうである。

信者になると献金(お布施)が義務付けられ、収入があってもなくても相当な金額(基本的には収入の10パーセントらしいが、次々に要求が来るらしい)を毎月地区支部長のいる協会に治める。

およそどんな会でも月々の会費というのがあり、それは宗教団体も同様だが、統一教会の場合、10パーセントどころか安倍元首相を殺害した山上徹容疑者の母親のように、保険金や土地建物を売り払い数千万、いや一億とかの献金までさせられている。

これによって家計は火の車になり、生まれた「神の子」たちが貧困にあえぐようになる。(※山上容疑者もこれに逆上し、結果として元総理を暗殺したのだ。母親に銃口を向けなかったのはどうしてか? これはこれで、いつかコメントしてみたい。)

中には子どもがアルバイトで貯めた金まで取り上げて献金してしまう親もいるという。

さすがにその行為には「神の子」も我慢できず、親から離れていく子も多くなったが、問題は親からの洗脳が解けずに社会的な自立が阻害されてしまうことだ。

しかし、そもそも親がなぜ子どもから貯めた金を勝手に献金してしまうという犯罪に近いことをしてしまうのだろうか?

ここに「洗脳」の恐ろしさがある。

今日の3時頃のKYT「ミヤネ屋」では、統一教会の信者勧誘の手口を紹介し、そうした勧誘に乗って統一教会の信者になり、今度は自分が他人を統一教会に誘い入れたことを脱会後に悩み続ける人(多くは女性)を弁護してきた郷路征記(ごうろ・まさき)という弁護士が北海道からリモート出演していた。

郷路弁護士は30年前に宗教団体だとは知らずに勧誘され、入信してしまったのを後悔する女性のことを目の当たりにしたことで、統一教会による被害者救済を行い、今も3件を抱えていて裁判を起こしているという。もちろん霊感商法被害対策弁護士連絡会にも属している。

手口の基本はまず相手の話を聞くことから始まり、内容に不幸なことがあると「先祖が浮かばれず、迷っているからだ」という風に持って行き、少しずつ恐怖心のようなものを植え付ける。「霊能者」を装った信者に演技させることもあるらしい。

そして「いいところがある」と統一教会の「ビデオセンター」に連れて行く。ここまできたらしめたもので、喩えて言えば、そこは「警察の刑事取調室」だろう。大方の素人は「先祖の因縁」を徹底的に信じ込まされ、もう後に引けなくなる。俗に言うマインドコントロールだ。

「先祖の悪因縁を断ち切るには金が要る」と言われれば即座に「ハイ」だろう。先祖ひとりに付き○○万円、2代前なら○○万円と7代前までさかのぼるそうだからたまったものではない。(※7代前の先祖の数は何と2の7乗で128人である。)

大事なのは献金されたら大仰に感謝し、「ああ、ご先祖様が喜んでいらっしゃる。よかったね」などというリップサービスを欠かさないことだろう。これにハマる日本人は多いらしい。より一層の献金に励むことになる。山上容疑者の母親もその典型だったに違いない。

統一教会への日本人の献金は突出して多かったそうで、その理由を韓国の統一教会関係者は「文鮮明師は日本が韓国を植民地化した償いをさせるためだ」ということを語っていたと証言している。ターゲットは最初から日本人(の女性)だったのだ。やはり「恨(ハン)」が文鮮明の心の根底にあったとしか言いようがない。

ちょうど10年前に文鮮明は亡くなったが、彼は「恨みを晴らした」だろうか。死んでなお恨んでいるだろうか。日本からの集金はまだ足りなかっただろうか。統一教会の回し者ではない「霊能者」に聴いてみたい気がする。

第7波は終息へ、だが・・・

2022-09-05 21:15:09 | 災害
心配した新学期後の感染拡大はどうやら杞憂だった。

今日の全国の新規感染者数は6万人台であり、鹿児島県でも千人台に落ちて来た。(※8月の半ばに全国で33万人余りを記録したのが夢のようだ。)

我が町鹿屋でも108人と、夏休みのどの時点の感染者数よりも少なくなった。今のところ保育園等で休園しているのは一園だけになったというから嬉しい誤算だ。

このまま減って行けば、今月末までには全国で1万人を切り、鹿児島県では2~300人台になるのではなかろうか。

ところが減少しつつあった8月も末になって、岡山に住む息子一家5人のうち3人が感染したという連絡があった。

感染経路は不明だそうだが、東京に単身赴任している息子が夏休みということもあって、いつもは月に一回の帰省のはずが、回数も滞在日数も増えたことと関係がありそうだ。

オミクロン株の変異BA.2なのかBA.5なのか、とにかく感染力が強く、おそらく東京から息子が持って来たに違いない。

幸いこのオミクロン株は重症化しにくいそうだから、孫たちに抗体が生まれることを祈るしかない。

ひとつ危惧されることがある。それはインフルエンザの流行が始まり、せっかく減って来つつある新型コロナの流行とダブる可能性である。ただでさえ対策に追われている現状で、さらにインフルエンザが蔓延したら大変だ。あちこちの学校で学級閉鎖や学年閉鎖などが発生するかもしれない。


ところで台風11号は、停滞気味だった八重山諸島の南から北上を始め、スピードを上げながら石垣島と宮古島の間を抜け、今現在は九州長崎県の五島列島の西を、今度は向きを東寄りに変えて対馬海峡に行こうとしている。

南九州では昨日から今朝に掛けてやや風が強く、時折りザーッと雨が降るというすっきりしない天気が続いているが、もうこの台風による被害はないだろうから安心だ。

この夏はこれまでのところ台風の上陸はない。4号台風が7月の初旬に鹿児島県の近くまでは来たが、その後は台風らしい台風が発生していない。

そもそも8月に一つの台風も来なかったのは記憶にない。かつて台風銀座と呼ばれた時代が懐かしく思い出されるほどだ。

約30年前の平成5年(1993年)9月3日に上陸した13号台風は、大隅地方に甚大な被害をもたらした。旧田代町役場の屋上に設置されていた風速計が65mまで記録したあとは吹っ切れてしまっていたと聞いたが、おそらく最大で7~80mはあったに違いない。

送電線の鉄塔がなぎ倒され、農業用にビニールハウス(鉄骨ハウス)がひしゃげられた。電話線がずたずたになり、3週間近く不通になったのを覚えている。また一般住宅の屋根という屋根の瓦が飛ばされ、瓦不足で修繕の遅かった家ではブルーシートが被せられたまま年を越したのもあった。

あんな台風はもうごめんだが、今度の11号台風も一時は気圧が915ヘクトパスカルまで下がったという。その勢力のまま上陸したら大変なことになっただろう。胸をなでおろした。