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縄文の森開園20周年記念フォーラム

2022-10-23 03:42:07 | おおすみの風景
旧国分市(現在は霧島市)にある上野原縄文の森は、縄文時代早期の複合的な遺跡である「上野原遺跡」を総合的に現地展示する施設で、今年は開園20年になったということで、それを記念するフォーラムが22日(土)に開催された。

場所は霧島市内にある国分シビックセンターで、私は午前中の研究者の発表にだけ参加した。


午前中にあったのは新東晃一氏による遺跡の総体的な解説で、氏は県の文化財課から派遣され、上野原遺跡の発見当初から発掘にかかわって来た人である。肩書にあるようについ最近まで「南九州縄文研究会」の会長をされていた。現在75歳とのことである。
 自己紹介の中で、『どるめん』という考古学雑誌の昭和53年(1978)に発表した<火山灰と考古学>というテーマで書いたという。その雑誌の目次をスライドに映し出していたが、<火山灰考古学>の提唱として最初の画期的なものだった。

上野原遺跡の最初の発見は、この上野原台地に「テクノパーク」という工業団地が建設されることになり、その事前調査によって遺構・遺物が発掘されたことであった。平成4年(1992)のことである。

この時に発掘された「縄文の壺」は弥生時代の物と勘違いされるほどの優品で、「鬼界カルデラ大噴火(7300年前)」由来のアカホヤ火山灰の下から見つかっており、年代観に誤りがないことが確定している。この縄文の壺を含む出土品は平成10年(1998)に国の重要文化財に指定された。

また1995年から調査が開始された第4工区からは早期前葉の住居跡52軒や連結土坹(燻製用コンロ穴)、その他生活の痕跡が多数見つかり、「縄文時代の開始期を知る遺跡」として国の史跡にしていされた。

これら二つの画期(重文指定・国の史跡指定)をすべて経験したのが、発掘責任者としての新東氏であり、言わば上野原遺跡発掘の生き証人である。

氏の話はスライドを使って坦々と進められたが、「勘違い」という話に特に興味をそそられた。

その勘違いというのは、上で触れた「縄文時代の壺なのに弥生時代の物とした勘違い」と同様出土土器に関するものだ。

かつては早期の土器とされていたのが「押形文土器(尖底)」「轟式土器」「曽畑式土器」であった。そしてそれより後に「手向山式土器」があり、さらにその後に「吉田式土器」が編年されていたのだが、上野原遺跡の発掘によって7300年前のアカホヤ堆積層の下から「吉田式土器」のような底が平らで胴体が筒状になった土器が普遍的に見つかり、「円筒形平底」の土器こそ南九州では最初期の土器であったことが判明したのであった。

「押形文土器」はそのまま早期(草創期)に位置づけられるが、轟式や曽畑式は前期に編年が下がり、吉田式系統とは編年が全く逆転することになった。「火山灰考古学」による大成果であったと言ってよい。

南九州の早期(草創期)縄文時代において深く関係するのが薩摩火山灰とアカホヤ火山灰である。

薩摩火山灰(桜島P14という)はこれまで11500年前とされ、早期の始まりの時期に当てられていたが、これが今は12800年前とされ、もう一つのアカホヤ火山灰も6400年前とされていたのが7300年前と確定された。したがって上野原遺跡出土の遺構・遺物はそれぞれ約1000年古くさかのぼることになった。(※縄文早期の年代は12800年前から7300年前ということになる。なお、種子島中種子町のの三角山遺跡ではさらに古い草創期のサラダボール型丸底の土器が多数発見されている。)

早期の最も早い土器である「吉田式土器」などは12000年前の物であり、今のところ世界最古の「円筒形平底土器」であり、1992年に発見され重要文化財に指定された優美な「双子の縄文早期の壺」は8500年前に繰り上がった。こちらも世界最古の完形の壺だろう。土器などの遺物もだが、住居址や連穴土坹など生活した遺構まで総合的に残っているのは世界遺産級だ。

講演が終わって質問時間があったので「上野原遺跡を代表する南九州の早期縄文遺跡群を世界文化遺産に登録できないか」との質問を投げかけた。

新東氏は、テクノパーク(工業団地)として活用するはずだった上野原に遺跡が発見された際に、鹿児島県知事が「ツルの一声」で遺跡の保存指定に動いてくれたので今日があるが、世界遺産への登録もそういった力が必要だ。ただ、早期の遺跡は九州一円にあり、鹿児島県だけでというわけではないので――という。

やはり広域な行政の積極的かつ連携した取り組みが必要のようだ。それには市民の後押しが大きいだろう。是非とも今後に期待したい。

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