最後の氷河期と呼ばれる「第四期氷河時代」(約7万年前~1万年前)はヴュルム氷期と呼ばれるが、そのことをネットで調べていると、ちょっと古い新聞情報だが、次のような内容の記事があった。
<ヴュルム氷期中の22000年前に、地球の公転の角度がわずかにずれて北半球の陸上の氷が解け、海流の変化によって19000年前に深海から大量のCO₂が大気中に放出された。
地球規模の気温上昇がこれに続いて起きた。>
(※日本経済新聞の2012年4月5日の記事。アメリカのハーバード大学の研究チームがイギリスの科学誌・ネイチャーに発表したもの。)
19000年前に深海にあった大量のCO₂が放出されたのは地軸の変化によって氷床の氷が解けて海流が強くなったからと思われるが、そもそも深海の大量のCO₂がどのようにして生まれたのかについて、この記事だけでは不明である。
だがとにかく地球規模での温暖化にはCO₂が大きくかかわっているということで、今日においても同様のメカニズムによって気温の上昇を招いているのは間違いのないことだろう。
地球規模の気温上昇は同時に海水面の上昇を招き多くの海辺の土地が海中に没したり、大陸とつながっていた陸地が切り離されて島々になってしまったのも周知のことで、その際に「民族の大移動」が起きた可能性が考えられる。
この記事では19000年前に一度温暖化し、その時にも多くの水没地があったようだが、その後15000年ほど前に最寒冷期が訪れている。
最寒冷期では日本列島の多くの島々が陸上で繋がり、瀬戸内海も陸地化していたらしい。ただ対馬海峡だけは最寒冷期でも狭いながらも海峡があり、朝鮮半島と切り離されていた。
鹿児島県の上野原遺跡には約29000年前に噴出した姶良カルデラの「シラス火山灰層」が認められ、その後12800年前にはその姶良カルデラの最南部で桜島火山の噴出があった。
その約2000年後には人々の定着した跡の分かる火山灰の層が積もり、その火山灰層を掘り込んだ跡のあるおそらく国内でも最も古い住居址(10600年前)が検出されている(※「上野原縄文の森パンフレット」による。)
ちょうどこのころ、琉球列島では海水面がまだ現在よりも40mくらい低かったらしく、琉球全体が「琉球古陸」と呼ばれる陸続きであったらしい。
(※以下は主に琉球大学教授・木村政昭著『海底宮殿』2002年刊を参照した。)
琉球大学理学部教授で海洋地質学者の木村政昭氏によると、琉球列島最西部の与那国島の新川鼻の沖の海底約30mに見られる石造りの人工物群(与那国島海底遺跡と命名)が地元のダイバーの間では有名になっていて、それをもとに現地調査を開始した(1998年。この年が遺跡発見の年になる)。
石造りの290m×120mの広いテラスには「神殿」や「アーチ門」「円柱トーテム」「角柱トーテム」「亀石」などと名付けられた具象性のある造形があった。
専門家の中にはテラスにしろ神殿にしろトーテムにしろ亀石にしろ、それらは自然の造形に過ぎないとする者もあるが、このように一枚のテラス状の石造物の上に自然の造形が立ち並んでいる様は決して自然美ではないだろう。
この与那国島海底遺跡は、ヴュルム氷期最寒冷期の15000年前にさかのぼり、約10000年前の急激な温暖化によって海水面が上昇したため水没したとされている。
上記の19000年前の地軸の傾き(ずれ)によるCO₂の大量発生が急激な温暖化をもたらし、海流の変化によって太平洋の西側を今日でいう暖流「黒潮」が琉球弧にいち早く温暖化をもたらしたのではないだろうか。
しかし1万年前になると更なる温暖化によって海水面が上がり、結果として海中に沈んでしまった。
この時、琉球弧の人々はどこかへ逃れたはずであるが、黒潮に乗ったとすれば九州南部や四国、紀伊半島辺りに辿り着いたかもしれない。
もしそうであれば、霧島市の縄文の森にある「上野原遺跡」に残る人々の10600年前の痕跡も彼ら「海洋系のモンゴロイド」がもたらしたものであるかもしれない。
上野原遺跡の草創期の土器群は、角形にせよ円筒型にせよ薄手の高度な出来具合いで、この技術と手法は独自のものなのか、はたまた外来のものなのか、そうであればいったいどこから来たのか、よく分かっていないのである。
海のルートによる「民族の大移動」は超古代の夢とロマンが感じられてならない。
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