今日は霧島市の「上野原縄文の森」に行った帰りに福山町の高台にある「惣陣が丘展望所」を訪れた。
惣陣が丘展望所は霧島市の旧国分南部国道10号線の「亀割坂」を登り切り、平坦部になってから鹿屋市方面への分岐点信号の50メートルほど手前の左手、もとガソリンスタンドがあった脇を入った登山道路を約560メートルばかり上ったところにある。
20台は停められそうな駐車場から歩き始めるが、最初からかなり急な石段が続く。
道はしっかりしており、まったくまごうことのない登山路で、途中福山町の水源タンクが2か所あった。このタンクへはどうやって水を満たすのか不明だが、この高さからなら福山町全体への配水は何ら滞ることは無いだろう。
歩いて約20分、ようやく頂上の展望台に到着した。ここの標高は480mというが、独立した丘の上なので見晴らしはすこぶる良い。
板敷で半円形の展望台からは西へ桜島を始め、北東の霧島連山と遮るものの無い風景が広がっているはずだったが、あいにくの曇り空で、桜島はおぼろげに霞んで見え、写真写りに堪えるものではなかった。
その代わり、足元の福山町全域は良く見えていた。
展望所のすぐ下にはちょっとした屋根付きの休憩所があり、腰を下ろして茶でも飲みながら見下ろすことができる。
町の家並みの右手は「牧之原中学校」で、付属する広い校庭では野球部の練習が行われているようで、時折り部員同士が励ます大きな声が聞こえて来た。
この高台は福山町では「大塚」と呼びならわされていたという。下からは馬の背のような台形に見えるので「古墳」のようだというので大塚という呼び名になったようだが、それが惣陣が丘と改名されたのには次のような歴史的背景があったらしい。
見下ろすと惣陣が丘のふもとの信号のある交差点は左手に行けば国道10号線で、曽於市末吉町を通過してやがて宮崎県都城市に至るのだが、信号を右折するとすぐに志布志市方面に至る県道63号線が左に分かれ、もう少し行くと信号のある交差点があり、直進すれば輝北町から鹿屋市中心部に至るが、そこを右折すると錦江湾(福山町の海岸部)に向かってつづら折りの道となる。
その途中にあるのが「廻(めぐり)城」で、この城を巡って島津氏と肝付氏の攻防があり、島津方はそのための前線基地として陣を構えたのが惣陣ケ丘である。その時の島津氏の主将は当主である島津貴久と子の義久だった。
廻城への守護兵を指揮したのが貴久の弟・島津忠将(ただまさ)であったが、肝付兵によって討ち取られてしまい、その弔い合戦として島津方は当主親子揃って、まさに一家総出(惣出)で背水の陣を敷いた(永禄4年=1561年)。
その結果肝付氏は敗れ、以後、大隅における島津氏の優勢が顕著になり、天正2年(1574)、垂水の伊地知氏が島津氏の軍門に降り、同じ年に肝付氏(兼亮)も降伏に応じ、大隅半島における戦国大名肝付氏は薩摩半島の阿多400石に落とされ、大隅を去った。
戦国時代の世の習いと言えばそれまでだが、それまでの12万石と言われた肝付氏の勢力からみれば、ほぼ壊滅したことになる。初代肝付兼俊が1030年頃に高山に入部して肝付氏を名乗って以来550年ほども続いた肝付氏は、大隅半島での痕跡を残すことなく消えてしまった(ただし高山城は残った)。
鎌倉時代末期に薩摩半島を足掛かりに第6代の島津氏久が大隅の大姶良に拠点を設けて以来300年、ついに大隅半島は島津氏の支配下に入ったことになる。
惣陣が丘展望所は霧島市の旧国分南部国道10号線の「亀割坂」を登り切り、平坦部になってから鹿屋市方面への分岐点信号の50メートルほど手前の左手、もとガソリンスタンドがあった脇を入った登山道路を約560メートルばかり上ったところにある。
20台は停められそうな駐車場から歩き始めるが、最初からかなり急な石段が続く。
道はしっかりしており、まったくまごうことのない登山路で、途中福山町の水源タンクが2か所あった。このタンクへはどうやって水を満たすのか不明だが、この高さからなら福山町全体への配水は何ら滞ることは無いだろう。
歩いて約20分、ようやく頂上の展望台に到着した。ここの標高は480mというが、独立した丘の上なので見晴らしはすこぶる良い。
板敷で半円形の展望台からは西へ桜島を始め、北東の霧島連山と遮るものの無い風景が広がっているはずだったが、あいにくの曇り空で、桜島はおぼろげに霞んで見え、写真写りに堪えるものではなかった。
その代わり、足元の福山町全域は良く見えていた。
展望所のすぐ下にはちょっとした屋根付きの休憩所があり、腰を下ろして茶でも飲みながら見下ろすことができる。
町の家並みの右手は「牧之原中学校」で、付属する広い校庭では野球部の練習が行われているようで、時折り部員同士が励ます大きな声が聞こえて来た。
この高台は福山町では「大塚」と呼びならわされていたという。下からは馬の背のような台形に見えるので「古墳」のようだというので大塚という呼び名になったようだが、それが惣陣が丘と改名されたのには次のような歴史的背景があったらしい。
見下ろすと惣陣が丘のふもとの信号のある交差点は左手に行けば国道10号線で、曽於市末吉町を通過してやがて宮崎県都城市に至るのだが、信号を右折するとすぐに志布志市方面に至る県道63号線が左に分かれ、もう少し行くと信号のある交差点があり、直進すれば輝北町から鹿屋市中心部に至るが、そこを右折すると錦江湾(福山町の海岸部)に向かってつづら折りの道となる。
その途中にあるのが「廻(めぐり)城」で、この城を巡って島津氏と肝付氏の攻防があり、島津方はそのための前線基地として陣を構えたのが惣陣ケ丘である。その時の島津氏の主将は当主である島津貴久と子の義久だった。
廻城への守護兵を指揮したのが貴久の弟・島津忠将(ただまさ)であったが、肝付兵によって討ち取られてしまい、その弔い合戦として島津方は当主親子揃って、まさに一家総出(惣出)で背水の陣を敷いた(永禄4年=1561年)。
その結果肝付氏は敗れ、以後、大隅における島津氏の優勢が顕著になり、天正2年(1574)、垂水の伊地知氏が島津氏の軍門に降り、同じ年に肝付氏(兼亮)も降伏に応じ、大隅半島における戦国大名肝付氏は薩摩半島の阿多400石に落とされ、大隅を去った。
戦国時代の世の習いと言えばそれまでだが、それまでの12万石と言われた肝付氏の勢力からみれば、ほぼ壊滅したことになる。初代肝付兼俊が1030年頃に高山に入部して肝付氏を名乗って以来550年ほども続いた肝付氏は、大隅半島での痕跡を残すことなく消えてしまった(ただし高山城は残った)。
鎌倉時代末期に薩摩半島を足掛かりに第6代の島津氏久が大隅の大姶良に拠点を設けて以来300年、ついに大隅半島は島津氏の支配下に入ったことになる。
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