昨日の南日本新聞の経済欄に意外な記事が載っていた。
日置市東市来美山と言えば、薩摩焼で有名な沈壽官家があるが、ここの現当主第15代目の壽官さんが樟脳の製造所を開設するというのだ。
その名も「本場薩摩樟脳製造所」という。
慶長3年(1598年)にいわゆる「慶長の役」が秀吉の死によって終わった際に、日本各地から半島に出兵していた大名家の兵士たちが引き揚げたわけだが、薩摩藩によって連れてこられた一族の中に沈壽官家があり、当時の祖先が陶工となって薩摩焼を作り広めた。
沈壽官家は陶工になっただけではなく、実は樟脳の製造にも手腕があったらしく、ここ美山が「樟脳製造創業の地」であるという。
樟脳はクスノキのチップを蒸留してその結晶を採取し、防虫剤や香料としていたものだが、東京の実家の桐たんすに衣装の防虫剤として使われていたのが「ナフタリン」という薄い固形のもので、あれも樟脳の成分と同じだった気がする。何にしてもあの独特の匂いは記憶に残っている。
さて、東市来の美山地区が薩摩での朝鮮陶工の淵源の地であることはつとに知られているが、樟脳の製造についてもそこで創業されていたとは全く知らなかったので驚いている。
「本場薩摩」という冠ネームが付いているが、これは美山の地が薩摩における樟脳製造の発祥の地という意味と、生産が盛んになって江戸時代には「樟脳と言えば薩摩」と言われるくらいになっていたのを反映したネーミングだろう。
輸出品としては金銀に次ぐほど大きな利益があったというが、果たしてその大きさを幕府で把握していたかどうかは不明である。
薩摩藩ではクスノキを専売品(御用木)として、勝手に切らせないようにしていたようだ。ドル箱だったに違いない。
鹿児島ではクスノキが御神木として各地の神社の境内に残っていて、特に巨大なのが蒲生八幡神社の日本一と言われるものだ。その他、志布志市の安楽山宮神社や高山(肝付町)の塚崎一号墳の大楠など樹齢千年クラスのクスノキに事欠かない。
指宿ではモイドン(森殿)という名の大楠がいくつも見られ、庶民信仰を伝えていたりする。
ところで朝鮮半島では基本的にクスノキは存在しない。日本列島では魏志倭人伝に3世紀当時の植生が記されていて、その中に「豫樟(ヨショウ)」という漢語で示されるクスノキがあるが、半島南部の比較的温暖な三韓地方でも確認されない。
百済の項で「禽獣と草木はほぼ中国と同じ」としてあり、この時代の中国は大陸北部の魏であったから、そこと同じ植生だと言っている以上、大陸北部にクスノキは無かったゆえ、百済にも無かったはずである。
その半島からやって来た朝鮮陶工の美山の沈壽官家が、樟脳の製造方法を持ち込んで来たというのはちょっと首を傾げざるを得ない。
類推を許されるとすれば、焼き物に必要な窯と焼き上げるのに必要な焚き物の扱いに習熟していた陶工にとって、クスノキ(のチップ)を蒸し焼きにすることは容易だったからではなかろうか。
原理は焼酎のような蒸留酒を作るのと同じだから、朝鮮陶工たちにとって余技として暮らしを支えていたのかもしれない。
(※日本書紀の神代の巻の第5書に、スサノオが「スギとクスは船として使え」という下りがある。クス材は防腐の効果が大きかったのだろう。)
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