鴨着く島

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本庄の剣柄稲荷神社(宮崎県国富町)

2024-07-28 11:33:45 | 古日向の謎
昨日はカンカン照りの中宮崎県は東諸県郡国富町に鎮座する「剣柄(剣の塚)稲荷神社」を訪れた。

目的は宮崎県串間市で文政年間に石棺から発見された玉璧や鉄製品など大量の遺物に関してである。

この石棺がどこで発見されたかをめぐって郷土史家はじめ考古学者などが調査を進めて来たのだが、今もなお不明のままである。

ところが、遺物30品目と言われる中で、最も貴重とされる周王朝時代に諸侯に下賜された玉璧が幕末の探検家松浦武四郎の手に渡った際に、この神社の宮司の先祖で宮永真琴という人が次のような献詩を残したという。

『珠(たま)は獲たり、北陵(ほくりょう)山上の月』

「珠」は「玉璧」の玉と同じであり、この詩の意味は「北にある陵(みささぎ)の上に月が出たかのように丸い形の玉璧という珍宝を得ることができた」

ということで、この詩を松浦武四郎が「王の山」から見つけ出した串間市今町(西方)の佐吉という農夫から譲り受けたのを聴いたであろう宮永真琴が、感激をもって松浦武四郎に贈ったと思われる。

宮永真琴は社務所で聞けば奥さんの先祖。今から200年前の人で、書を能くした人物であったらしく、今でも真筆はたくさんあるという。

ここ本庄に現在も鎮座する稲荷神社からは串間市まで直線にして100キロほどもあり、当時としてはなかなか往来も難しかっただろうに、かの著名な探検家松浦武四郎が串間にやって来たのと、玉璧という珍宝が好事家の手に渡るというので、わざわざ足を運んだのであろうか。

その時に作った詩の一節は宮永真琴が佐吉から石棺の発見現場を聞いていたかような内容である。

「宮永様、我が家の田畑のある場所からは北に聳える小高い山を昔から王の山と言っておりましたが、その丘の頂上付近から偉い人の石棺が見つかりまして、開けてみたら何とまあ、こんな宝物や鉄剣なんかが出たんですわ」

発見者の佐吉はこんなことを宮永真琴に伝えたのではないか。それがあの献詩に結び付く。

200年前と言えば、本庄(国富町)は天領、商人の多い町だったそうで、南を流れる大淀川中流の本庄川を使う船運で大阪への物資の往来と人の往来は頻繁だったらしい。

おそらく宮永真琴など知識人はそれ相応の教養を身につけており、漢詩漢文などお手の物だったのだろう。

ただ残念なのは、「北陵」の位置がはっきりしないことだ。もう一つ地名あるいは地形などが織り込まれていれば場所の特定ができたに違いないと思うのだが・・・。

※私はかつてこの場所について考察しているが、宮永真琴の「北陵」とは王の山という俗称(地元の愛称)で呼ばれていたところそのものだと思っており、そこは「穂佐ヶ原」地区の北側に横たわる丘陵の一角だろうと比定した。

剣柄(けんのつか)稲荷神社(鳥居下の旧道から30段ほどの石段の上に鎮座する。本庄稲荷神社が通称のようである。)

古墳「剣の塚38号墳」の上にあるので「剣柄」が神社名に冠せられている。古墳群が昭和14年に国の指定になるはるか以前から鎮座しているので、指定後も移設されたりはせずそのままである。

一説によると景行天皇の12年に創建されたと言い、天皇のいわゆる「クマソ親征」に関わるとしているようだ。

景行天皇の時代云々はどうか知らないが、境内の右手に聳えたつ樹齢1000年はあるというクスノキを見ても、由来の相当古い神社であることは分かる。

社務所で聴いたお話と御由緒書によると、稲荷の神である倉稲魂(うかのみたま)他2神は102代後花園天皇の永享2年(1430年)に合祀されたのだそうで、それ以前の御祭神こそが本来の崇敬の神である。

そのご祭神は諸説あるが、イナヒノミコト・タマヨリヒメ・カムヤマトイワレヒコの三柱であったという。

ただイナヒノミコトは神武天皇の兄に当たり、古事記によれば渡海して半島に渡っているから、これは当たらないかもしれない。

ただこの神社が建つ場所は「剣の塚」という古墳の上であるから、諸説ある中で景行天皇がクマソ親征の時、日向に駐留した際に娶ったとされる「御刀媛」(みはかしひめ)が可能性として浮かんで来る。

刀を「はかし」と言うのは「佩刀」の意味から来ていると思われる。「佩刀」の「佩」は「はく(はかすははくの尊敬語)」ことすなわち「身に帯びる」だから意味上よく合致している。

その姫が刀を身につけるほどの気丈夫だったのか、その刀の霊力を身につけた巫女だったのか想像するほかないが、この姫の亡骸を葬ったのが剣の塚だったのかもしれないと考えるとロマンがある。

剣の塚稲荷神社の駐車場からは大淀川支流の本庄川が開析した広い沖積田が一望できる。比高にして20mほどだろうか、神社の建つ現在地はこの綾川が削り残した丘陵で、標高約50m。

10mほど下に展開する居住地(河岸段丘)こそが稲作時代に人々が住んだところで、神社の建つ丘陵上はこの人々の墳墓の地(本庄古墳群)だったのだろう。今はこの古墳群の中に人々が住んでいるが江戸時代以前は下場の河岸段丘地帯こそが集落だったと思われる。

(追記)
神社の境内には摂社「国造(こくぞう)神社」があり、ここには景行天皇の子豊国別皇子(母は御刀媛)と、その子の老男(おいを)命を祀っている。

老男は日向国造(コクゾウ、くにのみやつこ)の初代と言い、このような国造を祀る神社は、九州では熊本以外にないという。

景行天皇の親征云々は別にしても、豊国別皇子にせよ、老男命にせよ日向国司以前の古いタイプの国の統治者の母系が御刀媛から出ていることは注目に値する。