鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

インドネシアの首都移転

2024-08-19 19:55:49 | 災害
今朝の何時だったか忘れたが、ニュースを見ていたらインドネシアの新首都が「開業」?したという。

インドネシアでは現在の首都ジャカルタが急激な発展をしたため、新しい首都を建設中だという話は聞いていたが、ついに新首都が開設されたのだ。

その名は「ヌサンタラ」。

大きな島であるボルネオ島の東部に位置し、ジャカルタからの距離は1200キロもある。

現在の首都ジャカルタはジャワ島にあるのだが、ジャワ島は比較的小さな島である上に、ジャカルタに人口が集中したため「大気汚染」と「人の密集」が極大化し、首都移転を決めたようだ。

大英断だ。日本も見習えと言いたくなる。

現在はまだ大統領府と宮殿(?)が建設されたばかりだが、2045年までには首都機能は完全に移転するという。

まだこの先20年もの長い期間が必要らしいが、それだけの長期にわたる計画が国民に支持されたのかと思うと羨ましい。

もしかしたら日本と同じ火山国であり地震の多い国だから、単に大気汚染と人口集中を解消するための移転ではなく、将来起き得るかもしれない火山噴火と大規模地震を回避する意味もあるのではないか。

日本こそ今後起こり得る大規模災害、特に大地震が迫っているというのに相変わらず首都圏への人口集中が進んでいることを思うと、もどかしい限りだ。

今後30年のうちに首都直下型地震をはじめ南海トラフ、東南海トラフ、千島海溝トラフなどが70%の確率で起きると政府レベルで公言しているのに、首都移転という政策への議論は実に低調である。

東日本大震災クラスの巨大災害が、再び実際に起きなければ目を覚まさないのだろうか?

(3)無視されている「周旋5千里」の意味

2024-08-18 08:11:20 | 邪馬台国関連
前述の(1)、(2)とも邪馬台国までの行程に関しての解釈における誤謬を指摘したのだが、いずれも距離及び日数表記に関してのものであった。

最後にもう一つの距離表記について述べておきたい。

それは次の表記である。

<女王国の東、海を渡ること千余里、復た国有り。みな倭種なり。
(中略)倭の地を参問するに、海中の洲島の上に絶在し、或いは絶え、或いは連なり、周旋して5千余里なるべし。>

<(意訳)女王国の東には海があり、そこを千里(一日)渡るとまた国がある。すべて倭人種である。
(中略)倭人の国を訪れて倭人にいろいろ問うてみたところ、倭人は海の中の島々に分かれて住み、その島は隔絶した島だったり、島と思っても実は陸地とつながっていたりする。倭人のこの地を船でぐるっと回れば、およそ5千里の距離である、という。>

倭人伝では、(1)(2)で扱った倭国への行程記事のあと、倭人の風俗・制度記事が続くが、その記事の最後に付け加えられた形で再び地理的な記述があり、その最後に「周旋5千里」の一文が来る。

まず初めの「東の海を千里渡るとまた倭人種の国がある」という点だが、この時の「海を千里渡る」の千里は提示した「海峡渡海(水行)千里=一日行程」説に従えば、九州島に所在する女王国から東へ一日渡海したら四国または山口県に到達するから、九州説の補強となる。この点でも畿内説は有り得ないことになる。

次に多くの研究者は(中略)以下の一文について解釈し切れていないし、それゆえか無視する立場をとっている。

<(意訳)>で示したように、この一文は倭の地の地理的状況を捉えたもので、この一文も九州説を補強している。

まず倭国は「洲島の上に絶在する」とあるが、日本列島はそもそも畿内でも島の上にあるということができるから、屁理屈的には畿内も「洲島の上」にあるとこじつけることは可能だ。

しかし「或いは絶え、或いは連なり」という地理的状況は畿内ではあり得ない。

ましてや次の「周旋して5千里」となると、畿内説では全く説明がつかないので、結局のところ無視することになる。(1)と(2)ですでに畿内説が成り立つ余地はないのだから、ここは無視したほうが知的だと言える。

「周旋」は「ぐるっと回ること」だが、これを陸行と捉える向きもあるようだが、八丈島とか伊豆大島のような富士山型の円形の島ならいざ知らず、記述にあるように島なのか陸地につながっているのかよく分からない、つまり、リアス式海岸を持つ島だと島内の海岸べりを隈なく歩いて距離(日数)を計上するなんてことは不可能だろう。

この「周旋5千里」は明らかに水行による距離表記である。

船で回ったらと理解出来たら、ここに先の「水行千里=一日行程説」を適用すれば、この「周旋5千里」とは「船でぐるっと回れば5日の行程」のことである。

九州説でこのような地理的条件に合致するのは、末盧国(唐津市)から西へ水行し、長崎県の西岸を南へ下り、島原半島から有明海に入って今度は北上するコースしかない。もちろん「沿岸航法」の手漕ぎの舟を使っての話である。

唐津市から西回りで有明海に入れば私の比定する邪馬台国(女王国)の八女市までは穏やかな水行ができるはずである。
手書きで細部の正確さについては御免蒙るが、朝鮮半島を描いた「魏志韓伝」によると、「韓は帯方の南、東西は海をもって限りをなし、南は倭と接す。方4千里なるべし。」とある。

「方4千里」とは「縦横それぞれ4千里」ということで、言うなら「一辺が4千里の正方形」である。

倭人伝では帯方郡から南へ水行4千里(4日)行き、今度は東へ3千里(3日)で狗邪韓国に着くとあり、弁韓と辰韓の間にある狗邪韓国からはさらに東に千里(1日行程)で半島の東端となる。

そこから南の対馬へ千里(1日行程)、壱岐へ千里(一日行程)、末盧国(唐津市)へ千里(1日行程)、都合、3千里(3日行程)である。

この唐津市から船で西回りをし、平戸の瀬戸を抜け、リアス式海岸では名高い長崎半島西岸部から島原半島南端を通ると波穏やかな有明海に入る(点線で示してある)。

このコースがまさに「周旋5千里」つまり水行5日の行程に相当する。

倭地はこのおおむね佐賀・長崎の領域にある国々で構成されていたと考えてよいだろう。後世の旧国名に従えば「肥前」がこれに該当する。

倭人伝では、女王国以北の対馬国から不彌国(6か国)までの国々については「其の戸数・道里は略載できるが、その余の傍国(21か国)は遠絶にして詳しく書くことができない」とあるが、「その余の傍国」とは以上のような国々のことだろう。






(2)邪馬台国論における2番目の誤謬

2024-08-16 09:14:06 | 邪馬台国関連
(1)では邪馬台国に至る行程のうち、九州北端にある末盧国(佐賀県唐津市)に上陸したあと「東南陸行して伊都国に至る」という行程を曲解して、東北にある福岡県糸島市に行き、糸島こそが「伊都国だ」と比定したことが最大の誤謬だと指摘した。

この伊都国糸島説はほとんどの研究者が信じて疑わないのだが、まず唐津市から糸島市への方角は東南ではなく東北であること。また糸島市なら唐津市(末盧国)などに上陸せず、壱岐国(一大国)から船を直接向かわせればよいのであって、なにも王のいない末盧国に上陸して山が海に迫る悪路を歩く必要は全くないのである。

東南なのに東北が正しいと考えた伊都国糸島説では、以後、南は東の誤りとして邪馬台国への行程を東へ東へと曲解した末に、ついに畿内こそが邪馬台国の在処だと断定してしまった。

邪馬台国は大和国の前身だと考えるのも畿内論者の定番的思考である。

しかし畿内説が成り立たないのは帯方郡から末盧国(唐津市)までの行程は「水行1万里」(帯方郡・狗邪韓国間の7千里+狗邪韓国・末盧国間の3千里)である。そして倭人伝の行程記述の最後に「郡より女王国に至る、1万2千里」と書かれており、この総行程から「水行1万里」を引けば残りは「2千里」しかなく、2千里では畿内に至るすべもなく畿内説は成り立たないのだ。

もう一つ畿内説が成り立たない大きな理由がある。

それは伊都国(自説では佐賀県厳木町)から徒歩で東南に100里の「奴国」(自説では佐賀県多久市~小城市)、さらに徒歩で東へ100里の「不彌国」(自説では佐賀県佐賀市の北、大和町)まで記されている。

しかしその次は急に「南、投馬国に至る、水行20日」と書かれ、さらに「南、邪馬台国、女王の都する所に至る、水行10日、陸行1月」と「水行の日数」が現れるのだ。

行程論では方角についての誤謬の最たるものが末盧国から伊都国への行程上の東南を東北に曲解したことだが、同じ行程論の水行の日数について多くの研究者は戸惑いを隠せないでいる。

その挙句、畿内論者は「投馬国は不彌国から船に乗って東へ20日行った所にある」と曲解し、私のように不彌国は佐賀平野にあると考えた者でも、佐賀平野の港から南へ20日航行したところが投馬国で、そこはおおむね南九州だとする。

畿内説のように南を東に改変してしまうのはもとより誤謬で論外だが、倭人伝の記述通り伊都国を末盧国の東南に比定し、奴国と不彌国を佐賀平野の西部に比定する九州説でも「不彌国から南へ水行20日で投馬国だから、投馬国は宮崎県の都万(おおむね西都原市)を含む一帯であり、女王国に敵対している狗奴国はクマソ国だから南九州でも鹿児島県が該当する」とする論者がある。

これは九州説の中でも比較的理にかなっている説だが、佐賀平野の港から水行20日もしたら、天草を通過して南九州南端の坊津からはるか南の太平洋の上まで行く距離(日数)である。

また次の邪馬台国も不彌国・投馬国間と同様に、投馬国から南へ水行10日かつ陸行1月だ考えると、南九州からさらに南へ10日船で行き、さらにどこかに上陸して1月行く場所になるが、そのような場所(島)は存在しない。

では不彌国の後に続く「南投馬国水行20日」さらに「南邪馬台国水行10日、陸行1月」という行程記述はどう捉えたらよいのだろうか。

ここで次の論理を提示しよう。

【海峡渡海1000里は一日行程である】

繰り返すまでもなく、帯方郡から唐津市の末盧国まで水行距離は1万里であった。

このうち最初の7千里は帯方郡治の港から朝鮮半島の西岸を航行し、西南端の珍島島を回って朝鮮海峡に入り、そのまま半島の南部沿岸を洛東江の港町「狗邪韓国」に至る。

ここから船は南を目指し、対馬国、壱岐(一大)国を経て末盧国(唐津市)に到達するのだが、狗邪韓国・対馬間、対馬・壱岐間、壱岐・末盧国間の三つの海峡はすべて距離は全く違うのに同じ千里で表されている。

ここに疑問を感じた私は、この同じ距離の千里とはどういうことなのか、第一海の上の距離は測れないはずなのだが――などと考えていてふと気づいたのである。

それは距離が同じということではなく、渡る日数が同じということなのではないか――と。

では何日か?

それは一日である他ない。なぜなら朝鮮海峡の流れの速さはかなりのもので、狗邪韓国から対馬までがもっとも距離があるのだが、渡っているうちに寝ることはできない。漕ぎ手が手を休めたが最後、船はどんどん東に流され日本海へ抜けてしまうのだ。

この狗邪韓国・対馬間は直線距離にして80キロはあり、ここが航行上の最大の難関だろう。それでも海が凪いでいる日を見計らって早朝東が白み始めたら船を出し、その日の夕刻日が沈みかけるまでの10から12時間漕げば渡り切ることは可能だ(理論上は時速8キロ程度)。

対馬から壱岐間、壱岐から唐津間は狗邪韓国・対馬間に比べたらかなり楽だろう。こうして朝鮮海峡を渡るのにようする期間は3日(ただしこれは理論値で、漕ぎ手の休息や天候による出航見合わせの日数は考えない)。

つまり倭人伝では、この4地点間の最短日数の各1日を「水行千里」で表したものと考えられ、したがって狗邪韓国から末盧国までの水行要する日数は3日と換算できる。(以上が「水行千里一日行程説」である。)

この「水行千里=一日行程」を帯方郡から狗邪韓国までの水行7千里に当てはめると、要する日数は7日となる。そしてこれに海峡渡海の3千里を換算した3日を加えると「水行10日」が得られる。

この「水行10日」こそが投馬国の直後に記述された「南、邪馬台国女王の都する所、水行10日、陸行1月」のうちの「水行10日」に該当する。

要するに「南、邪馬台国女王の都する所・・・」という記述は直前の投馬国からの「南、・・・」ではなく、帯方郡からの「南、・・・」だったのである。

このことと倭人伝の行程記述の最後にある「郡より女王国に至る、万2千余里」とを勘案すると、この中の1万里とは帯方郡から末盧国の1万里に合致し、その所要日数は10日でまさに「南、邪馬台国女王の都する所、水行10日、陸行1月」のうちの水行10日に該当する。

つまり「南、邪馬台国女王の都する所、水行10日、陸行1月」と「郡より女王国に至る万2千余里」とは同値だったのだ。

このことから邪馬台国は帯方郡から距離表記で1万里を南下して末盧国まで、水行つまり船で10日かかって至り、九州島に着いてからは東南方向に1か月歩いて到達できる場所にあるということになる。

このことからも畿内説の成り立つ余地は全くないのである。


2週間ぶりの雨

2024-08-15 20:39:57 | おおすみの風景
今日の12時30分過ぎ、ぽつぽつと雨が降り出した。

10分後にはかなりの雨となり、やや激しく降った。

庭一面が濡れ、そのうちに地面にほんのり水が溜まり出した。

庭に置いてある車のリアドアを開けたままにしていたのを思い出し、強い雨の中車の所に行き、しばらくリアドア越しに雨粒を眺めていた。

気温もやや低くなり、うれしい限りだ。

前に降ったのはいつだったかよく覚えていないが、たぶん8月に入ってからは一滴も降っていないと思う。

畑の表面がカラカラで、砂地にさえなっていたのだ。

お盆(旧盆)を迎えた13日頃から、明け方は少し涼しくなっていたのだが、この突然の雨でもっと気温が下がるのを期待した。だが残念ながら強い雨は30分ほどで止み、再び高温が戻って来た。

夕方の天気予報ではこれからもまとまった雨は降りそうもなく、あと一週間は猛暑が続きそうだ。

それでも今度の雨で畑や花壇の水遣りは必要なくなったのでやれやれである。

この分だと8月も7月程度に記録的な高温が続くだろう。

熱中症も人ごとではなくなったような気がする。

縄文ミュージアムと国分郷土館

2024-08-15 10:29:41 | 古日向の謎
 縄文ミュージアム

霧島市には国分郷土館(旧国分市)、隼人史跡館、隼人歴史資料館(旧隼人町)があり、隼人の歴史に関しては多くの伝承とともに見過ごせない所である。

昨日は猛暑の中だったが、以前から見たいと思っていたホテル京セラ内にある「縄文ミュージアム」と兼ねて行ってみた。

東九州道の国分インターで降り、国道10号線を隼人町方面に数キロ走り、霧島温泉郷への道をとって約2キロ、大きな円筒形のホテルが聳え建つ。

本館と別館を繫ぐ渡り廊下、というには長さが30mはあり、幅も高さも4mはあろうかという規模の一直線の施設の片側を縄文遺跡の展示に当てている。

ホテルの宿泊者や利用者でなくても無料で見られるのは有難い。

ただ展示は常設なのだろうか、鹿児島の縄文と言えば同じ国分市の上野原遺跡出土の早期の遺物を中心に展示してあるのかと思っていたのだが、他の縄文時代、特に2021年に世界文化遺産となった「北海道・北東北の縄文遺跡群」の展示がクローズアップされていたのは意外だった。

これは青森県の「是川石器時代遺跡」で、是川遺跡と言えば「朱の漆を使った器物」が出土したことで有名だ。

面白いのが、ガラスケース内の左端に見える二本の「楽器」で、角状の先端に糸らしきものを取り付けて弾いて音を出す琴の一種らしい。

北海道・北東北の縄文遺跡群の登録された遺跡の総数は、北海道が6つ、青森県が8つ、岩手県が1つ、秋田県が2つの合計17遺跡が対象となっており、このミュージアムでは是川遺跡の他に、同じ青森県の「三内丸山遺跡」と秋田県の「大湯環状列石(祭祀)遺跡」とが展示されていた。

その他にも各地の縄文遺跡が取り上げられていたが、地元霧島市の上野原遺跡の物を除くと、残りの縄文遺跡の出土地はほぼ中部(長野・石川)より東の物ばかりであった。

たしかに縄文時代と言えば東日本に多くの遺跡があり、発掘もされていて出土品の形象も多種多様なので「縄文時代は何といっても関東と東北だ」というイメージが定着しており、西日本の縄文時代は軽く扱われる傾向にある。

しかしこの霧島市上野原で発掘された縄文早期の土器群は「縄文というより貝文土器である」と発掘者の誰かが言っていたように、中期以降の「縄目文様」とは一線を画している。

しかも約10000年前後と古い。縄文中期より3000年以上も前に南九州では特有の土器(壺型を含む)を創造しており、東日本の縄文文化とは一味も二味も違った形象である。

古さでは青森県の「大平(おおだい)丸山遺跡」の土器が16000年前だそうだが、この16000年前と縄文中期の6000年前との隔たりは実に1万年である。この1万年の間、東日本では人々はどうしていたのだろうか?

また鹿児島では上野原遺跡が10500年くらい前から始まり、7500年前の鬼界カルデラの大噴火によって壊滅したとされるが、その一部は海に逃れるかして生き延びたと思われるし、上野原遺跡の始まる前の11500年に起きたという桜島大噴火(現在の桜島の基礎が噴出した)の前に南九州に暮らしていた人々の痕跡は、この桜島火山灰によって埋もれてしまったのかもしれない。

南島の種子島からは約3万年前の生活遺跡が発掘されているので、鹿児島本土でも同様の時代の遺物が桜島火山灰層の下に眠っているかもしれない。

 国分郷土館

ホテル京セラからほぼ東方向へ5キロほどで国分高校に至るが、ここは島津家の16代当主義久が領有していた「舞鶴城」の跡地で、昔をしのぶ門構えの前を通り過ぎ、そのまま前方の丘に登っていくと最上部にあるのが「城山公園」で、観覧車のある遊園地となっている。

国分郷土館は遊園地より一段下にある。一階建てだが、鉄筋コンクリート造りのがっしりした建物である。

中に入ると靴を脱いでスリッパになるが、入ってすぐ右手が「資料室」で、長い廊下の向こうが「民俗資料室」である。

資料室に入ってしばらくすると館長(もしくは管理人)らしき人から案内を受け、見て回ったが、ここには出土の土器の類はなく、中心は国府(大隅国府)関連であった。

国府の跡地とされる国分市立向花(むげ)小学校の建設中か改築中かに発見された「三環頭太刀」が目玉であった。

この類の太刀は半島由来ということで、この太刀を手元に置いていた(墓に副葬した)のは国府の主、つまり大隅国司だろうと考えられている。半島由来のこの太刀はまず大和王権の府庫に入り、国司に任命された者に賜与されたのだろう。

逆にこの太刀の発掘によって、向花小学校界隈に国府が存在したというのが証明された面もあった。

展示室の中には何と「調所広郷」が使用していた太刀と脇差(小太刀)があったのには驚いた。

説明によると、調所家は古くからの現鹿児島神宮の社家の一流で、戦国期に島津氏によって圧迫されて逃れたのだそうだ。鹿児島神宮への寄進領は当時島津氏に次ぐ2500町もあり、その意味では島津氏の敵でもあった。

調所広郷は島津26代重豪に見出されて茶坊主から出世を果たし、孫の斉興時代には家老職まで上り詰め、放漫財政だった鹿児島藩の財政立て直しに成功するのだが、幕府によってご禁制の唐物輸入の咎めを受け自害している。

その一方で五大石橋などの建設も行っており、単なる倹約家ではなかった。一説によると斉興と開明藩主斉彬との間の確執に翻弄されたのだという。

民俗資料室では何といっても、止上(とがみ)神社の王面と神王面の展示が一大特色である。

止上(とがみ)神社の創建ははっきりしないが、もともとは現地の隼人がはるか後ろに聳える「尾群(おむれ)山」が神の宿る山として崇拝されていたのだが、のちに社殿が建てられたのだという。

止上神社の現在の祭神は鹿児島神宮と同じ「ヒコホホデミ、トヨタマヒメ」という、皇室の祖先だが、現地隼人は単純に山の神だったのかもしれない。

奈良時代の初めに起きたいわゆる「隼人の反乱」(719年~720年)で朝廷軍に敗れた現地隼人はそれ以降、「祟りを為すから」と、厳しい表情の王面と神王面を象徴とした神幸祭が行われるようになったという。
鼻が高く、目力を極限にまで表現した「神王面」。隼人の怨霊を制圧するためだろうか。

宇佐神宮では隼人の怨霊をニナに移して海に逃すという儀式を行っており、これが「ホゼ祭」(「浜下り」)の起源だという。

その他珍しいところでは「青葉の笛」の伝承がある。

天智天皇が南九州を巡錫していた時に、国分の北東から流れ出る郡田川の上流で珍しい竹の一種「ダイミョウ竹(コサン竹)」を進呈されたが、節と節の間が長いので笛にしたところ良い音色が出た。そこで天皇が都に帰った後も青葉竹を奉納するようになったというのだ。

天智天皇は間違いなく九州には到来している。

しかし母の斉明天皇が朝倉宮で亡くなり、半島の百済が滅亡し、それどころか救援に行った数万隻という軍船が壊滅したので、唐新羅から追われる身となった。

その時点では九州から引き揚げたに違いなく、もし南九州にやって来たとすれば、朝倉宮という対新羅戦の大本営に着いて間もない頃だろう。南部九州に新羅戦への健児を求めて来たのではないだろうか。

いずれにしても国分の長い歴史が垣間見える伝承である。