S2000奮闘記

スポーツカー偏愛録。
S2000のメンテナンスノート。

2013年 S2000ぶらり旅「真夏の西国ドライブ/ 海援丸 出雲店 編」

2013年08月14日 | 周遊紀行 / 西日本
2013年 8月14日(水)
ホテルに荷物を置いて夕飯を食べに行きました。
この時点で20時を回っていたので、出雲駅近くにあった居酒屋の「海援丸 出雲店」へ行きました


まずはビールで給油
今日の430kmの走行距離に満足


お通し。


漁師風サラダ。
  

日本海で獲れたお刺身の盛り合わせ。モチロン、のどぐろも!
 

のどぐろ一夜干。
  

宍道湖特産の大和しじみ(酒蒸し)。
 

浜田名物の赤天。
魚のすり身に唐辛子を混ぜて揚げたもの。ピリッと辛い。
 

白イカの一夜干。
 

タコの唐揚げ。
  

さつま揚げ。
 

ご馳走様でした。美味しかったです


海援丸 出雲店
Tel.0853-25-1717
島根県出雲市今市町930-7
食べログ http://tabelog.com/shimane/A3202/A320201/32002491/

2013年 S2000ぶらり旅「真夏の西国ドライブ/ 総括 編」
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2013年 S2000ぶらり旅「真夏の西国ドライブ/ いざ神々の國、出雲! 編」

2013年08月14日 | 周遊紀行 / 西日本
2013年 8月14日(水)
彦根城を出発して、彦根ICより名神高速に乗りました。


琵琶湖の南側を抜けて


京都も走り抜けて、ようやく見えた「中国道」の文字


吹田市付近でモノレールとすれ違い


「宝塚市」の看板に、助手席の同行人のテンションは
帰宅後に標識の絵が「ベルサイユのばら」になっていたことに気付いたよ


彦根で買ったご当地飲料の「近江のしずく」でひと休み


中国道から米子道に入ると、あともう少し


山陰地方の山陰に消える夕日が綺麗だった。


トンネルをくぐり抜けて


大山(伯耆富士)の頂を眺めながら走行。


米子JCTも通過して山陰自動車を駆け抜ける。米子市の日野川を渡河。


日が沈んでから宍道湖を通過。明るいうちに来たかったなぁ。涼しかったので宍道湖SAでS2000をオープンにする。
真夏(夜)のオープンドライブは快適だった


暗闇の中を走り続けていると「出雲」の標識が出て来た!


斐川ICで山陰自動車道を下車。


国道9号で出雲市へ。


出雲市内を走っているとTRIPが「999.9km」に!


その後、普通に「0」になった。。。


そんなこんなで走っていると出雲駅近くにある今晩のお宿に到着。
彦根市から出雲市までの移動も「ASM SREダンパーキット1WAY IS-11+」のおかげで快適に走れました
エンジンを切って、トイレ休憩をしたのはたった1回だけ。
「ASM SREダンパーキット1WAY IS-11+」を装着してから、運転中のストレス&疲れが、格段に減りました

S2000 ODO 148,472km


2013年 S2000ぶらり旅「真夏の西国ドライブ/ 総括 編」


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2013年 S2000ぶらり旅「真夏の西国ドライブ/ 彦根市 近江肉せんなり亭 伽羅 編」

2013年08月14日 | 周遊紀行 / 西日本
2013年 8月14日(水)
お昼を食べに「近江肉せんなり亭 伽羅 」へ行きました
 

  


  

 





近江牛のサーロインステーキを注文
前菜。


  

サラダ。





岩塩。


醤油とわさび。
醤油は固形になっているので崩してからわさびと一緒にお肉へ乗せて頂く。
確か・・・醤油は卵白で固形にしてあるって言ってたかな?忘れてしまったわ(笑)


和風ステーキソース。


近江牛のステーキ


  

まずは岩塩で頂く


次に、醤油とわさび


そして、和風ステーキソース


デザート。
 



近江牛すき焼き鍋御膳。


近江牛のすき焼き


近江牛のローストビーフ








どちらとも素晴らしく美味しかったです。ご馳走様でした。ありがとう

近江肉せんなり亭 伽羅 (きゃら)
Tel.0749-21-2789
滋賀県彦根市本町2-1-17
食べログ http://tabelog.com/shiga/A2503/A250303/25000722/



食後は、隣のお茶屋さんでデザートとお茶を購入
 



店内に飾られてあった見事な彦根縫い。
立体的な龍が飛び出して来そうなほど


彦根のアイドルも!(笑)



デザートを済ませたら、再び夢京橋キャッスルロードを歩いて

ろうそくとお線香を購入。お盆だからネ。
  

灯りの形がひこにゃんになってる(笑)。。。何処のお店でも大人気。




また会う日まで



ひこにゃんに別れを告げて、楽しかった彦根も見学終了。
彦根城二の丸駐車場に戻って、次の目的地に向けて出発!
罰当たりの毎日を過ごしている男が(笑)、神々の國で懺悔です。。。


2013年 S2000ぶらり旅「真夏の西国ドライブ/ 総括 編」
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2013年 S2000ぶらり旅「真夏の西国ドライブ/ 彦根市 夢京橋キャッスルロード散歩 編」

2013年08月14日 | 周遊紀行 / 西日本
2013年 8月14日(水)
夢京橋キャッスルロードに到着。
   

つぶら餅を買って食べ歩き
 

昨日、夕飯を食べた「近江や」の前を通り


歩いていると

彦根のアイドル?発見
大人気だ


いと重菓舗で「埋れ木」を購入。
 

  

荷物持ち 買い物(一回戦)を済ませた後、昼食に向かいました


2013年 S2000ぶらり旅「真夏の西国ドライブ/ 総括 編」
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2013年 S2000ぶらり旅「真夏の西国ドライブ/ 彦根城&ひこにゃん 編」

2013年08月14日 | 周遊紀行 / 西日本
2013年 8月14日(水)
彦根城へ行きました。


朝早くホテルを出発して、昨晩タクシーの運転手さんに教わった二の丸駐車場(有料)に車を停めて、いざ登城!
(車の後ろに見えるのは佐和口多聞櫓)


表門橋を渡り、受付を済ませて表門山道を登ります
字の如く「山道」なので山を登ります・・・朝からの炎天下で途中、心が折れそうになりながら(笑)。
 


最初に見えて来たのは、天秤櫓

天秤櫓(てんびんやぐら)
天秤櫓は、大手門と表門からの道が合流する要(かなめ)の位置に築かれた櫓です。この櫓は、上から見ると「コ」の字形をしており、両隅に2階建ての櫓を設けて中央に門が開く構造となっています。あたかも両端に荷物を下げた天秤のようであり、江戸時代から天秤櫓の名があります。けれども詳細に見ると両隅の2階櫓は棟の方向が異なっており、格子窓の数も左右で違うなど決して左右対称ではありません。このような構造の櫓は他に例がありませんが、均整のとれた美しさに加え、城内の要の城門としての堅固さを感じさせます。
大手門と表門からの道が合流する天秤櫓の下は、鐘の丸から天守へ伸びた尾根を、築城時の縄張りによって大きく断ち切った箇所で「堀切(ほりきり)」と言います。堀切には橋が架っていますが、この橋がなければ天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸へ侵入できません。
戦となれば、この櫓が果たす役割は重要でした。
天秤櫓が築かれるのは、築城の開始から数年後と考えられています。彦根藩主井伊家の歴史書である「井伊年譜(いいねんぷ)」には、この櫓が長浜城の大手門を移築したものであると記しています。昭和30年代の解体修理では、移築された建物であることが判明し、「上り藤」や「三つ柏」など井伊家の家紋とは異なる紋瓦も確認していますが、天秤櫓の前身が「井伊年譜」の記載どおり長浜城大手門と断定するまでには至っていません。
天秤櫓はおよそ400年の長い間に、幾度か修理を重ねてきました。中でも嘉永(かえい)7年(1854年)の修理は大規模で、建物のみならず石垣まで積み替えています。堀切から天秤櫓を見上げてみてください。右手の高石垣が、越前(現在の福井県北部)の石工たちが築いたと伝わる築城当初の「牛蒡(ごぼう)積み」。そして、左手が幕末の嘉永年間に積み替えた切石の「落し積み」です。
彦根市教育委員会 文化財部 文化財課 作成 指定文化財:解説シート 平成25年(2013年)2月作成より。
  

天秤櫓の内部。
  


井伊家は「井伊の赤備え」と知られ、藩主をはじめ家臣すべてが朱の軍装で身をかためていたことで有名。
だから彦根城には「赤」を着て登るのだ(笑)



天秤櫓を出ると、時報鐘が見えて来る。
ここからの眺めも素晴らしかった。

時報鐘
城全体に響くようにと鐘の丸から移されたとので、今も定時に鐘がつかれ「日本の音風景百選」に選ばれている。幕末期により美しい音色にしようと大量の小判が投入された。
彦根城観光案内より。



次に太鼓門櫓を潜りました

太鼓門櫓(たいこもんやぐら)
本丸にそびえる天守を目前にした最後の門が重要文化財の太鼓門櫓です。門櫓の南には「く」の字に曲がった続櫓(つづきやぐら)が付設されています。この門櫓は建物よ背面の東壁面が開放され、柱間に高欄(こうらん)を付して1間通りを廊下にしています。櫓にはたいへん稀な例で、一説には名称となっている「太鼓」が櫓の中に置かれ、その太鼓の音が広く響くための工夫とも考えられていますが、明確ではありません。
太鼓門櫓も、天秤櫓・西の丸三重櫓そして天守などと同様に、築城時にほかの場所から移築された建物です。長い間、太鼓門櫓は、彦根城築城以前に彦根山の山上にあった彦根寺の山門を移築したものと考えられてきました。彦根寺は観音信仰の寺として広く知られていました。彦根山に向かって西に伸びる「巡礼街道」は、かつて、この彦根寺へ多くの都人(みやこびと)がこぞって参詣(さんけい)したため付けられた名称ですが、こうした観音霊場では納札(おさめふだ)を寺の建物などに打ち付ける習わしが古くからあります。太鼓門櫓には門の柱には古い釘穴がたくさん残っており、その釘穴を納札を打ち付けた痕跡と考えて彦根寺山門の移築説が生まれ、広く流布していたようです。
ところがこの説は、昭和31年から32年にかけて行われた太鼓門櫓の解体修理工事によって否定されました。解体修理に伴って実施された建物部材調査により、移築前の建物もまたどこかの城の城門であったことが判明したのです。
しかもかつての城門は規模が大きく、それを縮小して今日の太鼓門櫓としていました。ただ、どちらの城の城門だったのかは、今も謎のままです。
彦根市教育委員会 文化財部 文化財課 作成 指定文化財:解説シート 平成21年(2009年)10月作成より。



太鼓門櫓を通り抜けると鐘の丸(現在はお土産売り場と休憩所)があり、さらに進むと・・・
ようやく天守閣に到着

天守(国宝)
いくつもの屋根様式を巧みに組み合わせた美しい曲線の調和をみせ、どっしりとした牛蒡(ごぼう)積みと呼ばれる石垣の上に三階三重の天守がそびえている。京極高次が築いた大津城から移築されたといわれ、慶長12年(1607)頃に完成した。天守の中に入れば、通柱のない造りや隠狭間など内部の細かな構造が見学できる。昭和27年国宝に指定され、姫路城・松本城・犬山城とともに国宝四城のひとつである。
彦根城観光案内より。
  

この日は熱かったけど晴天に恵まれたので青空に彦根城の白い天守閣が映えて綺麗でした。


天守閣の内部は、はしごの様な急な階段を上がって行きます(もう登るに近い


この扉を開けると鉄砲狭間が現れてくる
 

井伊直弼の像。
人の評価というものは、人の立場あるいは時代によってその評価が分かれます。
様々な評価がありますが、今の時代の、平成の政治屋達よりも、もっと本気でこの国の将来を考えていたのは事実だと思います。
命を失うほどの決断と実行が、何よりもそれを証明しているでしょう。


天井にあった木の御札。


国宝に認定した証。認定証?


三階からの眺め。
琵琶湖から吹く風が心地よかった



西の丸三重櫓
彦根城には、天守の外にも2棟の3階建物が在りました。1棟が現存する西の丸三重櫓で、もう1棟が明治初年に取り壊された山崎曲輪(くるわ)の三重櫓てした。
西の丸三重櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北墨に位置しており、さらに西に張り出した出曲輪(でくるわ)との間に設けられていた堀切(ほりきり。屋根を切断して造られた空堀)に面して築かれています。堀切の底から見上げる三重櫓は絶壁のようにそそり立っており、西の搦め手(からめて。裏手)方面からの敵に備えた守りの要(かなめ)でした。
この三重櫓は、東側と北側にそれぞれ1階の続櫓(つづきやぐら)を「く」の字に付設しています。三重櫓には天守のように装飾的な破風(はふ)などはありませんが、櫓全体を総漆喰塗りとし簡素な中にも気品のある櫓となっています。この建物は浅井長政の居城であった小谷城の天守を移築したとの伝えもありますが、昭和30年代に行われた解体修理では、そうした痕跡は確認されませんでした。同時に解体修理によって、柱や梁(はり)などの部材の8割近くが、江戸時代後期の嘉永(かえい)6年(1853)に実施された大修理で取り替えられていることが判明しました。今日見ることのできる西の丸三重櫓は、築城当初ではなく江戸時代後期の姿と言って良いでしょう。
なお、彦根藩主井伊家の歴史を綴った「井伊年譜」を見ると、築城当初、西の丸三重櫓は家老の木俣土佐(きまたとさ)に預けられていました。当時、山崎曲輪に屋敷を与えられていた木俣土佐は、毎月20日ほどこの櫓に出務するのを常としたようです。
作成 指定文化財:解説シート 平成22年(2010年)8月作成より。


ズーム。。。


角度を変えて。。。


建物内部には大河ドラマの撮影シーンがパネルにされてあった




西の丸三重櫓を見学した後は、天守を背にして黒門参道を抜ける


下から見上げた天守


黒門参道は急な山道
  

黒門参道を抜けて内堀を渡って


修繕工事中の楽々園を外から眺める。






玄宮園(名勝)と鳳翔台(茶室)を見学

玄宮園(名勝)
城の北東にある大名庭園で、中国の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた近江八景を模してつくられた縮景園。第四代当主直興が延宝5年(1677)に造営した。毎年9月中「虫の音を聞く会」が、11月後半には「紅葉のライトアップ」が催され、大名庭園ならではの秋が味わえる。
彦根城観光案内より。


鳳翔台(茶室)
玄宮園内の築山に建つ趣のある建物。かつては、藩主が客人をもてなすための客殿であった。この鳳翔台から眺める玄宮園の美しさはすばらしく、庭園を鑑賞しながらの薄茶の味わいは格別である。
彦根城観光案内より。
 

立派な庭園を堪能した後は、橋を渡って


内堀沿いに歩いて行く

再び、表門橋を渡り

二度目の表門山道を登って

本日、2回目の天秤櫓を通り抜けて
天秤櫓から見た佐和山方面に歴史を感じる。





10時30分ピッタリに天守に到着
すでに人だかりが出来ていて、間もなくすると、同行人が会いたがっていた彦根のアイドル?が登場。。。
 

彦根城よりも大人気?
 

デジカメと携帯電話とiPhoneを手にして、人波に飲み込まれて行く同行人を見送りながら、少し離れて一休み
力作を載せておかないとネ!綺麗に撮れていました


仕事を終えたひこにゃんを見送った後は、混雑している鐘の丸売店に行き

本日、2回目の人波に飲み込まれて行く同行人を見送りながら、少し離れて一休み

大量の ひこにゃんグッズとお土産を購入して、登って来た表門山道を引き返して



受付の近くにある彦根城博物館に入りました


「井伊の赤備え」
  

もちろん軍旗も「真っ赤」。


刀の鞘も朱色


その他、井伊家伝来の名宝が並ぶ。
 

ココにも(笑)。



江戸時代さながらに再現した藩主の居間や茶室、庭園を公開している博物館。
  

 

江戸時代(約200年前)に建てられた彦根城表御殿能舞台。




彦根城博物館を見学してから外に出て表門橋を渡ると、二の丸駐車場に停めたS2000が見えた



二の丸駐車場の隣にある馬屋に行きました
 

馬屋(重要文化財)
元禄時代に建てられ、常に十数頭の藩主用の馬がつながれていた。昭和43年に解体修理され、こけら葺きの屋根が美しい。城内に残る馬屋は彦根城だけである。
彦根城観光案内より。
  



佐和口多聞櫓(さわぐちたもんやぐら)
「いろは松」に沿った登城道(とうじょうみち)の正面に佐和口があり、その桝形を囲むように築かれているのが佐和口多聞櫓です。佐和口は京橋口、西の船町口、北の長橋口とともに中堀に開く4つの門の1つ。表門に通じる入口として、大手の京橋口とともに彦根城の重要な城門の1つでした。
重要文化財となっている佐和口多聞櫓は、佐和口の向かって左翼に伸びており、その端に二階二重の櫓が建ち、多聞櫓に連接しています。多聞櫓は長い平屋が特徴的な櫓の一種で、「多聞」の名は戦国武将松永久秀の多聞城(奈良市)で初めて築かれたことに由来すると伝えられています。佐和口の多聞櫓は、佐和口の桝形を囲むように二度曲折する長屋となっています。この櫓の内部は7つに区画され、中堀に向かって三角形と四角形の狭間(さま)が交互に配置されています。
現存する多聞櫓の右端は切妻(きりづま)屋根で不自然に途切れ、石垣のみの空地が広がります。かつてこの地には二階二重の櫓門が桝形を見下ろすように架かっていましたが、明治初年に解体されてしまいました。空地はその名残りです。ちなみに桝形より右翼に伸びる長大な多聞櫓も同時に解体され、現存の櫓は昭和35年に開国百年を記念して復元されたコンクリート造りの建物です。
佐和口多聞櫓の建立について詳しいことはわかっていませんが、彦根城がおおよその完成をみた元和(げんな)8年(1622)までには建てられていたと考えられます。その後、明和(めいわ)4年(1767)に城内で発生した火災で類焼し、現在の建物は明和6年から8年にかけて再建されたものです。
彦根市教育委員会 文化財部 文化財課 作成 指定文化財:解説シート 平成25年(2013年)2月作成より。
  

佐和口多聞櫓から小さく天守と天秤櫓が見える
「けっこう(な距離)を歩いたなぁ~頑張ったなぁ、自分。。。」としみじみ


内部の壁は波打つ「真壁(しんかべ)造り」。


狭間(さま)。
 


馬屋と佐和口多聞櫓を見学して、彦根城は終了

京橋えお目指して内堀を歩いていると、井伊家家臣団の屋敷跡を見る事が出来る。


 


京橋を渡ると


夢京橋キャッスルロードが見えて来る。


この後、夢京橋キャッスルロードでお土産&昼食を済ませました


2013年 S2000ぶらり旅「真夏の西国ドライブ/ 総括 編」
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