聖徳太子が飛鳥の宮と斑鳩の宮を往復されるために作られたといわれる道があります。太子道とも筋違道(すじかいみち)ともいわれる道です。
前から気になっていた道ですが、なかなか訪れる機会がありませんでした。先週、三輪からの帰りにこのあたりを通った時に、斜めの道のことを思い出しました。
(筋違道の途中で出会った聖徳太子!?)
ということで、今回JR法隆寺駅から近鉄西田原本駅まで、太子道(筋違道)をたずねて歩いてみました。
(出発点のJR法隆寺駅)
本来は法隆寺から出発するのですが、今回はショートカットして安堵町へ向かいます。すると、田んぼの中を斜めに伸びる道がありました。
(安堵町の筋違道?)
これって畦道やん?ほんまに筋違道なの?と思っていたら、安堵町の説明板がありました。
(太子道の説明板)
古代(7世紀中頃)の道は南北や東西に直線で作られるのが普通でした。今も残る、上ツ道、中ツ道、下ツ道、横大路などがそうです。それに対して太子道は斜めになっているのです。(聖徳太子の時代は7世紀のはじめですが…)
しばらく行くと、飽波神社(あくなみ)がありました。道筋には聖徳太子ゆかりの神社が多くあるようです。
(太子創祀と伝えられる飽波神社)
(西名阪自動車道の下をくぐります)
(田園越しに二上山や葛城山が望まれます)
島の山古墳が見えてきました。そこを過ぎて三宅町に入ったあたりから、南南東に向かって真っ直ぐな斜めの道が続きます。地図で見てもはっきりと分かります。
(2万5千分の1地図に見える太子道)
(三宅町あたりの太子道)
道筋の白山神社には、筋違道を行く聖徳太子の像もありました。(1枚目の写真も同じです)
(聖徳太子の像)
(像の説明板)
この道がどれぐらい斜めなのかは、下の写真をごらんください。
(近鉄黒田駅では、線路とも斜めに交差)
(左右の道が正しく東西に走っています)
(右が太子道、左が東西に走る道)
太子道はまさに聖徳太子のために作られた道だったので、聖徳太子が亡くなった以後は、自然に無くなっていったんでしょうね。というか、その後の条里制の施行によって無くなっていったんでしょう。
ただ、考古学的には疑問も多くあるようで、弥生時代の集落を結んでいた道だった可能性もあるようです。それではあまりにもロマンがないので、やっぱり聖徳太子ゆかりの道であって欲しいですね。
法隆寺駅を出発して3時間半、やっと目的地の田原本に到着しました。(さいごで駅を間違えてしまいましたが…)近鉄線の駅が並んであったものですから。私が乗るのは「近鉄田原本線」の「西田原本」の駅でした。(おそるべし近鉄電車!)
(西田原本駅です)
前から気になっていた道ですが、なかなか訪れる機会がありませんでした。先週、三輪からの帰りにこのあたりを通った時に、斜めの道のことを思い出しました。

ということで、今回JR法隆寺駅から近鉄西田原本駅まで、太子道(筋違道)をたずねて歩いてみました。

本来は法隆寺から出発するのですが、今回はショートカットして安堵町へ向かいます。すると、田んぼの中を斜めに伸びる道がありました。

これって畦道やん?ほんまに筋違道なの?と思っていたら、安堵町の説明板がありました。

古代(7世紀中頃)の道は南北や東西に直線で作られるのが普通でした。今も残る、上ツ道、中ツ道、下ツ道、横大路などがそうです。それに対して太子道は斜めになっているのです。(聖徳太子の時代は7世紀のはじめですが…)
しばらく行くと、飽波神社(あくなみ)がありました。道筋には聖徳太子ゆかりの神社が多くあるようです。



島の山古墳が見えてきました。そこを過ぎて三宅町に入ったあたりから、南南東に向かって真っ直ぐな斜めの道が続きます。地図で見てもはっきりと分かります。


道筋の白山神社には、筋違道を行く聖徳太子の像もありました。(1枚目の写真も同じです)


この道がどれぐらい斜めなのかは、下の写真をごらんください。



太子道はまさに聖徳太子のために作られた道だったので、聖徳太子が亡くなった以後は、自然に無くなっていったんでしょうね。というか、その後の条里制の施行によって無くなっていったんでしょう。
ただ、考古学的には疑問も多くあるようで、弥生時代の集落を結んでいた道だった可能性もあるようです。それではあまりにもロマンがないので、やっぱり聖徳太子ゆかりの道であって欲しいですね。
法隆寺駅を出発して3時間半、やっと目的地の田原本に到着しました。(さいごで駅を間違えてしまいましたが…)近鉄線の駅が並んであったものですから。私が乗るのは「近鉄田原本線」の「西田原本」の駅でした。(おそるべし近鉄電車!)
