はりさんの旅日記

気分は芭蕉か司馬遼太郎。時々、宮本常一。まあぼちぼちいこか。
     

思い出の山歩き (三角点の続きで、剱岳です。)

2015-05-30 22:17:40 | 山歩き
剱岳といえば、「岩と雪の殿堂」というイメージですが、夏山限定一般道歩き人間としては、岩も雪もあまり縁はありません。ところが、この剱岳はどうしても岩場の通過が不可欠で、ちょっとヤバイ箇所もあります。(この山旅は2007年8月24日・25日の記録です。)

剱岳へのスタート地点は室堂です。室堂までは、ケーブル・バスと乗り継いで楽に行くことが出来ます。室堂周辺は遊歩道になっており、観光客の人もたくさん歩いています。ミクリガ池、地獄谷を経て雷鳥沢キャンプ場へいったん下ります。
 (雷鳥沢キャンプ場とこれから登る雷鳥沢)
浄土川の橋を渡ると、本格的な登りが始まります。この坂はとても思い出のあるところです。この山旅は息子との二人旅ですが、まだ彼が小学生の時にも剱岳をめざしたことがあります。その時は、彼が高山病になり、富山県警山岳救助隊のお世話になったことがあるのです。真っ暗な山道を、山岳救助隊のみなさんが息子を背負ってこの坂を下りてくださいました。さすが山岳救助隊、みなさん足の速いこと、必死にあとを追いかけた思い出があります。もちろんこの時は登頂を残念しました。それから、18年目のリベンジの山旅です。
 (雷鳥坂の登りから振り返る)
2時間ほど頑張ると、別山乗越に到着です。目の前には、剱岳の威容が飛び込んできます。いつ見ても貫禄があります。「どこからでも、かかってきなさい。」と言っているようです。
 (剱岳がそびえる)
剱御前小屋でラーメン(カップラーメンにお湯を入れるだけ。)を食べて、今日の宿泊地である剣山荘に向かいます。途中に雪渓があったりするので、慎重に越えていきます。
 (雪渓を慎重に越える)
だんだんと剱岳が迫ってきます。赤い屋根の剣山荘も見えてきました。もう一踏ん張りです。小屋はけっこう混んでいました。それでも、布団1枚は確保できました。
 (剱岳が迫ってきました)

翌日、起床は4時です。すぐに支度をして、出発です。ヘッドランプをつけて、まだ暗い山道を登っていきます。他のみなさんも早いので、ヘッドランプの明かりが続いています。5時過ぎになってやっと、東の山からお日様が出てきました。
 (鹿島槍ヶ岳からの日の出)
登山道は、いよいよ核心部にさしかかります。細いブリッジを渡ったり、壁をトラバースしたりと、気が抜けない登りが続きます。
 (門の手前のブリッジを渡る)
 (右下が切れ落ちている)
 (鎖場を下る)
そして、いよいよ「カニのタテバイ」といわれる難所です。遭難事故もよく起きているところなので、慎重に足場を確かめながら登ります。そこを越えれば、もう少しで山頂です。
 (カニのタテバイ)
午前7時15分、山小屋を出て3時間でやっと頂上に到着です。息子と握手をかわし、18年ぶりの登頂を喜びました。写真を撮ったり、山小屋の弁当を食べたりと、30分ほど頂上で感激を味わいました。
 (頂上です)
しかし、まだ下山があるのです。下山も決して気が抜けません。下りには「カニのヨコバイ」が待っています。
 (下りの核心部)
そこもなんとか通過して、無事に剣山荘に帰り着くことができました。やっと安心して、ビールで乾杯です。あとは室堂までダラダラと歩いて帰るのみです。
登頂の感激の余韻を確かめながら室堂への道を下りました。

三角点のおはなしです

2015-05-30 20:20:21 | 山歩き
先日の「六甲山へハイキング」で、最高峰にあった一等三角点のことを書きました。その手前のりっぱなモニュメントが目立つので、それを一等三角点と間違われる人もいるかもしれません。(一等三角点は一辺が18センチ角の標石です。本来、地上に出ている部分が全体の約4分の1なのですが、六甲山のはちょと埋まりすぎですね。)
 (六甲山頂上にある一等三角点。標識の右の出っ張り)

ところで、三角点って何でしょう?三角点とは、三角測量をおこなうとき、地表に埋定された基準点のことをいいます。三角点には、一等から四等までの4種類があります。三角点の数は、全国に10万点以上あり、そのうち一等三角点は、974点あるそうです。一等三角点だからといって富士山の頂上にあるわけではありません。あくまでも、見晴らしの良い所にあるので、山の頂上にあるわけでもありません。富士山の頂上に一等三角点がないのは、隣接する一等三角点から見えにくかったからです。(富士山の頂上にあるのは二等三角点です。)

2009年に「劔岳<点の記>」という映画が公開されました。新田次郎さんの小説を映画化したものです。(もう6年になるんですね。)この映画(小説)は、明治時代に参謀本部陸地測量部が剣岳に初登頂し、三角点をたてるまでの様子を描いたものです。当時、劔岳は登頂不可能な山と考えられていました。そして、苦労の末なんとか頂上にたどり着いたのですが(明治40年:1907年)、そこで発見された物は、奈良時代から平安時代にかけての(時代が定まっていません。)修験者の錫杖の頭だったのです。
その時の陸地測量部は、三角点標石(60キロほどあります。)は埋設できずに、木材1本を針金で支えた、臨時の四等三角点を設置したのみでした。そのため残念ながら「点の記」には記録は残っていません。「点の記」というのは、一等から三等までの三角点設定の記録で、明治21年以来の記録は今も国土地理院に残されています。

現在、劔岳山頂にある三等三角点は、陸地測量部の登頂から100年後の2007年に、それを記念して設置されたものです。
劔岳には、その2007年の夏に登りましたが、今まで登った山で一番こわい山でした。
 (別山乗越から望む劔岳 2007.8.25)