はりさんの旅日記

気分は芭蕉か司馬遼太郎。時々、宮本常一。まあぼちぼちいこか。
     

古代史の舞台を歩く (藤原京)

2015-05-04 08:00:27 | 古代史の舞台を歩く
大阪から車で奈良方面に行くのは便利になりました。奈良市内へは阪神高速と第二阪奈で、1時間以内で行けます。また、橿原・飛鳥方面も南阪奈と大和高田バイパスを通れば1時間ほどで行けるようになりました。
さて、藤原京へは、その大和高田バイパスを飛鳥方面に行かずに、まっすぐ進むと、道は大きく左にカーブし、一つ目の信号を右折すると、次の信号の手前に駐車場があります。そこが橿原市藤原京資料室で、目の前には藤原京跡が大きく広がっています。

藤原京の歴史は・・・壬申の乱で勝利した大海人皇子は即位し、672年に天武天皇となりました。そして、藤原京の建設が開始されました。天武天皇が崩御すると、皇后の持統天皇が即位し、やがて694年に藤原京へ遷都しました。しかし、710年には平城京に都が遷ります。16年間と短命の歴史ですが、我が国初の計画的に造られた首都として、また、日本が律令国家として体裁を整えていく時代の重要な遺跡と言えるでしょう。
橿原市藤原京資料室で基礎的な知識を学んだら、その前にある藤原宮へ出発です。
しかし、何もありませんよ。ここに藤原宮の大極殿がありましたという案内板と、発掘した時の柱跡を復刻した柱が立っているくらいで、あとは原っぱです。(季節によっては、綺麗な花が咲きます。)でも、その何もないことが、かえって想像をかきたててくれるのです。
 (後ろの森が大極殿のあったところ)
 (柱がこのように立っていたのか)
柱の後ろに見える山は、香具山です。そうです、持統天皇が、「春すぎて 夏来るらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山」(万葉集)と詠んだうたです。都のあるじとなった女帝の持統さんが、すぐ後ろにある山を見ながら詠んだのでしょうね。そこに立っていると、持統さんの気分がわかるような気がしてきますね。
持統さんのことをもう少し書きます。持統さんには天武天皇との子、草壁皇子がいました。(この当時の皇位継承は実にドロドロしています。)天武天皇がなくなると、甥の大津皇子を謀反の罪で処刑して、草壁皇子の皇位継承を確実なものにしました。しかし、残念ながら草壁皇子はすぐに亡くなってしまいます。それでも孫の軽皇子(後の文武天皇)を皇太子にして…。なかなかしたたかな人だったようですね。
「悲劇の皇子」といわれる、大津皇子のことも書きたかったのですが、それはまた別の機会にします。

話は道路のことになります。藤原京建設にあたっては、古代の官道である中ツ道や下ツ道、横大路を基本に造られたという説もあります。そこも歩いてみましょう。大極殿から真っ直ぐに北に向かうと、耳成山が迫ってくる手前に、横大路があります。そこを西に向かって歩いていくと、八木札の辻という所があります。その交差点こそ、古代下ツ道と横大路が出合うところなのです。
 (縦が下ツ道)
 (標識を拡大 ちょっと興ざめ)
このあたりの町並みもいい感じでした。(となりの町に、今井町があって、そこは美観地区みたいになっています。)
下ツ道の話に戻すと、この道を真っ直ぐ北に進むと、平城京の朱雀大路につながっていくのです。なんかロマンを感じませんか。

飛鳥あたりは、きっと人も多そうですが、この藤原京周辺は静かな旅が楽しめると思います。連休中に歴史散策に出かけられてはどうでしょう。