それでは、百舌鳥古墳群を歩いてみましょう。(レンタサイクルもありますよ。1日240円です。)
大山古墳(伝仁徳陵)と百舌鳥陵山古墳(伝履中陵)は、前回紹介しました。この二つの古墳の墳丘全長は、大山が1位、陵山が3位と、圧倒的な大きさを誇っています。
そして、8位の大きさの「土師ニサンザイ古墳」が、二つの巨大古墳の東に1キロほど行ったところにあります。この古墳は天皇陵には治定されていませんが、どう見ても、大王の墓と言っても不思議ではありません。
(満々と水をたたえた堀を持つ土師ニサンザイ古墳 前方部から見た姿)
前回、「百舌鳥三陵」で年代が合わない等の矛盾があることを書きましたが、森 浩一先生は、「仁徳陵は陵山古墳(現履中陵)がふさわしい。では、履中陵を大山古墳(現仁徳陵)にすればよいかというと、大山古墳の年代は履中天皇の治世よりは新しいので、これも矛盾がある。大山古墳は、倭王済の允恭天皇の陵が有力候補になる。反正陵は妥当かな?では、履中陵はどうなるか。履中陵を百舌鳥のにある巨大古墳で求めると、「土師ニサンザイ古墳」しかないことになる。」と考えられています。(筑摩選書「天皇陵古墳への招待 森浩一著 森先生は2013年に亡くなりました。考古学者 同志社大学名誉教授)
現地でその威容を見れば、「なるほど」と納得させるような古墳です。そして、形も実にいいですよ。最近、古墳好きの女子が増えていると聞きますが、こんなプロポーションに惚れるのでしょうか?
(後円部から見た土師ニサンザイ古墳 くびれも見えます)
もちろん、森先生の説が正しいとは限りません。多くの研究者がそれぞれの説を語っています。ますます謎は深まるばかりですね。やっぱり歴史ロマンです。
古墳の被葬者については、宮内庁が治定している主な古墳32基のうち、被葬者が確実だと考えられているのは、32分の7基だということです。(森浩一さんの試案より。)宮内庁の陵墓参考地が多いわけです。
ところで、古墳は9割以上が盗掘にあっていると言われています。しかし、そのおかげ?で、古墳内部の様子が知ることができたり、盗みだした品々から様々な情報が得られました。それで、被葬者が確定した古墳もあるのです。
古墳群を歩いていると、こんな風景に出合いました。「いたすけ古墳」ですが、橋の跡が残っているのです。実はこの橋は、1955年に古墳をつぶして土をとるために架けられた橋なのです。当時は文化財行政はあってないようなものでした。あやうくつぶされるところを、市民の文化財保護運動により命を取りとめました。
(いたすけ古墳 右に見えるのが橋の跡)
残念ながら、つぶされて宅地になった古墳もあります。1945年には百舌鳥古墳群で5番目に大きい「大塚山古墳」が破壊されたのです。今の時代では考えられないようなことが起こっていたのですね。
(宅地になった大塚山古墳 後円部のカーブが残る)
(破壊の進む大塚山古墳 「天皇陵古墳への招待」より)
百舌鳥古墳群は古市古墳群とともに、世界遺産登録をめざしているそうです。それにしても、どこもかしこも立ち入り禁止の柵だらけで、遠くから眺めるだけの場所が多すぎると思います。もっと広く市民(国民)に開放するべきですね。今回歩いてみて強く思ったことです。ちょっとコーフンしすぎたようですね。
(散策用地図 観光協会でもらいました)
大山古墳(伝仁徳陵)と百舌鳥陵山古墳(伝履中陵)は、前回紹介しました。この二つの古墳の墳丘全長は、大山が1位、陵山が3位と、圧倒的な大きさを誇っています。
そして、8位の大きさの「土師ニサンザイ古墳」が、二つの巨大古墳の東に1キロほど行ったところにあります。この古墳は天皇陵には治定されていませんが、どう見ても、大王の墓と言っても不思議ではありません。
(満々と水をたたえた堀を持つ土師ニサンザイ古墳 前方部から見た姿)
前回、「百舌鳥三陵」で年代が合わない等の矛盾があることを書きましたが、森 浩一先生は、「仁徳陵は陵山古墳(現履中陵)がふさわしい。では、履中陵を大山古墳(現仁徳陵)にすればよいかというと、大山古墳の年代は履中天皇の治世よりは新しいので、これも矛盾がある。大山古墳は、倭王済の允恭天皇の陵が有力候補になる。反正陵は妥当かな?では、履中陵はどうなるか。履中陵を百舌鳥のにある巨大古墳で求めると、「土師ニサンザイ古墳」しかないことになる。」と考えられています。(筑摩選書「天皇陵古墳への招待 森浩一著 森先生は2013年に亡くなりました。考古学者 同志社大学名誉教授)
現地でその威容を見れば、「なるほど」と納得させるような古墳です。そして、形も実にいいですよ。最近、古墳好きの女子が増えていると聞きますが、こんなプロポーションに惚れるのでしょうか?
(後円部から見た土師ニサンザイ古墳 くびれも見えます)
もちろん、森先生の説が正しいとは限りません。多くの研究者がそれぞれの説を語っています。ますます謎は深まるばかりですね。やっぱり歴史ロマンです。
古墳の被葬者については、宮内庁が治定している主な古墳32基のうち、被葬者が確実だと考えられているのは、32分の7基だということです。(森浩一さんの試案より。)宮内庁の陵墓参考地が多いわけです。
ところで、古墳は9割以上が盗掘にあっていると言われています。しかし、そのおかげ?で、古墳内部の様子が知ることができたり、盗みだした品々から様々な情報が得られました。それで、被葬者が確定した古墳もあるのです。
古墳群を歩いていると、こんな風景に出合いました。「いたすけ古墳」ですが、橋の跡が残っているのです。実はこの橋は、1955年に古墳をつぶして土をとるために架けられた橋なのです。当時は文化財行政はあってないようなものでした。あやうくつぶされるところを、市民の文化財保護運動により命を取りとめました。
(いたすけ古墳 右に見えるのが橋の跡)
残念ながら、つぶされて宅地になった古墳もあります。1945年には百舌鳥古墳群で5番目に大きい「大塚山古墳」が破壊されたのです。今の時代では考えられないようなことが起こっていたのですね。
(宅地になった大塚山古墳 後円部のカーブが残る)
(破壊の進む大塚山古墳 「天皇陵古墳への招待」より)
百舌鳥古墳群は古市古墳群とともに、世界遺産登録をめざしているそうです。それにしても、どこもかしこも立ち入り禁止の柵だらけで、遠くから眺めるだけの場所が多すぎると思います。もっと広く市民(国民)に開放するべきですね。今回歩いてみて強く思ったことです。ちょっとコーフンしすぎたようですね。
(散策用地図 観光協会でもらいました)