太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

友の死を悼む

2015-07-14 07:27:07 | 仕事に関すること

その人は会社の先輩でもあり、ここ10年くらいは業界団体に出向していたため、ここで親しくなった。昨秋大手術をして一時は回復もしたが一昨日容体が急変し亡くなったという。会社では同じ事業部に所属していたが、向こうは部下を何百人も抱える製造のリーダーであった。業界団体では事務局長として赴任してきたが、会社ではあまり接点が無かったので人となりは知らなかった。いざ接してみると業界団体の中でもかなり煩がられていた私と正反対の愚直を絵に描いたような人だった。製造のときも誰より早く工場に出社し、誰よりも遅く帰っていたと誰かに聞いた。10年くらいの親密の中で決して不平不満、会社や周りの人たちの悪口を言っているのを聞いたことがない。相手容赦なく踏み込んで行く私とは正反対だったが、彼は二つ年下の私にも敬語を使い、話にも耳を傾けてくれた。事務局という立場と会員会社の代表という立場による遠慮かと思ったがそうではなく、誰に対しても公平無私の態度は生来のものであった。頑固な職人のように口数は少なくあまり私生活のことは喋らなかったが、彼が会社の副社長の妹さんと結婚していたのは人伝で知ったくらいで驕るところは一切なかった。年に一回くらい単身赴任先に奥さんが訪ねてきて、一緒に食事と東京観光をしたということを朴訥に喋るくらいでだったが、昼飯はしょっちゅう一緒にして彼は何時も聞き役だった。

業界団体で一緒にやったことは今の住宅用補助が再開されるとき、補助金の執行団体が無いと補助金制度は立ちあげられないと官に半ば脅され、強引に半年くらいの時間で何百億円も扱う執行団体を作ったことである。業界の中でも補助制度が再開しても輸出に回すほうが利益が得られるとか、補助金は低価格誘導のための政策ツールとなり賛成できないとか、税金である補助金を何百億も扱うことは経験もなく、リスクが大き過ぎるとかの異論も多かった。一部の有志会社を纏めて、これら反対会員を説得することから始めた。彼は我々有志のシナリオに着実に実行し、結果制度は立ちあがり、業界にとって大きな躍進のきっかけともなった。もちろん背景には何とか補助制度を復活して国内市場を海外に負けないほど復活させたいという思いが官側にあった。それを脅しともとれる官の指示からくみ取ることが出来たのは一部有志と事務局長だった彼である。その頃彼に冗談で業界の通帳に幾らくらい入っている?と聞いたらうーん500億くらいか、と顔色一つ変えずにまともに答えたことがある。一円の狂いも許されない税金による補助金についても実に淡々としていた。鈍いのか度胸があるのか分からないところもあった。その後何年間も補助金の執行団体は続き、大過なく団体業務を終えたのは彼の功績大である。

昨秋の大手術後、僅か9日間で退院し、事務所に出てきたのは驚いた、術後の安定よりも、長く業務に穴をあけてはならないという彼の責任感からだろうと思う。一か月くらい経ってから、一度私が居るソーラーセンターを見学に来ませんか、長くソーラーの仕事をやりながら最新のものを目にすることはないでしょうと誘った。既に彼は会社を退職し、業界団体のプロパーになっていたが私にできることはそれくらいと歓迎した。術後経過も良さそうだし、これが見おさめになるかも知れないと冗談も言いながら記念写真も沢山撮った。帰り際には私から関西の人は九十九里浜見ることないでしょう、案内しますよと浜まで車を飛ばした。感情をあまり表に出さないが、ここでも沢山写真を撮っていた。

岡林さん、働きづめでしたね。あちらでは愚痴や不満も漏らして下さい。気に入られずこちらに追い返されるのもいいではないですか。

 



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