太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

朋あり遠方より来たる

2018-03-30 12:40:50 | 日記

亦楽しからずや。モンゴルの古い友人が日本にやって来て東京で夕食を共にした。昨年も4月に彼は日本にやってきて夕食を食べた。友人といっても25年前にモンゴルのあるプロジェクトでカウンターパートの一員であった。当時彼は一番若くある意味下働きをしていたが、ある日自宅に招待された。兎に角プロジェクトに参加できたことが嬉しくて堪らない様子でロシア語は堪能だったが英語は習い始めたところだった。有名なジャーナリストの息子さんだが、年老いたお父さんや小学生の娘、若い奥さんも出て来て歓待された。1年少しで彼は兵役とかでプロジェクトを抜けたが余程印象に残ったのだろう。何年か後にマニラのADBから電話が掛って来て出向しているという。随分英語も上達していtが、仕事が無いからモンゴルには帰らないという。ADBに居るおかげで娘はアメリカに留学している、モンゴルはそのような収入は得られないからとも言っていた。それでも最後はモンゴルに帰り財務省に入った。

今回は仕事ではなくVacationだという。小学1年生の息子さんと奥さん同伴である。奥さんとは実に25年ぶりの再会で、その頃勿論息子さんは生まれていない。今本人は鉱山エネルギー省に勤務し、奥さんは財務省とのこと。ロビーで待っていると3人が出て来た。奥さんを紹介され、覚えてますかと尋ねると勿論ハッキリ覚えてますよと言う。モンゴルの奥さんには珍しく日常英会話は不自由ないようである。ころころとしたモンゴル人らしい可愛い奥さんだ。息子さんも前歯の乳歯が抜けて、ふっくらとした頬っぺの可愛い物おじしない子供である。日本旅行は安いとは思えず、豪華な旅行ですねというと、息子さんを日本の病院に連れていったという。どう見ても健康そうな子供であり、内容には深入りしなかった。夕食何が良いと聞くと間髪入れず焼き肉にしようと言う。フロントで近くの店を尋ねると、高級なのと庶民的のどちらをというので間髪を入れずリーゾナブルの方と私が答えた。地図をコピーして道順を示してくれたが、モンゴル人の方は自分のスマホに道順を入力して貰った。外に出てこちらは紙焼きの地図で確認していると彼はスマホを片手にどんどん私を案内して行く。日本の路地をモンゴル人に案内して貰う無様な日本人になってしまった。

流石庶民的な焼き肉屋であるがちゃんと英語のメニューまである。彼はさっさと注文を繰り返す。昔話に花を咲かせ、奥さんはニコニコしながら合いの手に入ってくる。息子さんはチキンが好きとの事で器用に箸をつかって自分で肉を網に乗せて焼く。ジュースも2杯、アイスクリームまで食べて元気そうでちょっと安心。奥さんは野菜サラダをオーダーする。モンゴル人は昔日本に招聘した時、生野菜を殆ど食べない。習慣がないから(小さなトマトかジャガイモで葉物は殆ど無かった)食べにくいとのことだった。奥さんに珍しいですねと言ったら最近は手に入るし誰でも食べますよという。多分古い人はビタミンは羊の肉から摂っていると言ったでしょと言う。その通りだった。店員のお嬢さんが一生懸命英語でモンゴル人に話しかけて来る。モンゴルの人は初めてだという。慶応大学2年生のアルバイトだった。

2時間くらいがあっと言う間に過ぎて、彼がお土産と言ってウォッカを出した。今モンゴルで一番人気のやつとのこと。確かに高級そうで随分重い。重いねというと、電車で帰るのに申し訳ないという。慌てて、重いのにモンゴルから持ってきてくれてありがとうの意味だよと付け加えた。珍しく最近はモンゴルで板チョコを作りだしたとこれも高級そうなチョコもくれた。25年前、大したこともやって上げられなかったのにこんなに懐いてくるとは思いもしなかった。店を出るとJRの駅まで送って行くという。大丈夫だよとは言ったが前を奥さんと息子さんが手を繋いで楽しそうに歩いている。息子さんは将来日本のことを覚えているだろうかと聞くと、2年前バイカルに旅行したことも覚えているからきっと忘れないと思うと言う。天才だねと言うと将来はエンジニアか役所に入って貰いたいと言う。きっとなれるよ、しかもお父さん以上にと言うと、ありがとうと言って、自分の時代はモンゴルの体制が変わったり大変だった。民間で企業を起こす者や役人に留まる人が居て、上手く行った人は限られているとポツリと言った。東京の夜の公園の桜が少し花びらを落とし始めていた。