昨晩の予報どおり早朝に前線が通過し、猛烈な雨と風を齎したようだ。ようだと言うのは雨戸がガタガタ鳴る音と打ちつける雨は夢の中で聞いていた。それにしても最近の天気予報はよくあたる。特に翌日の予報についてはアタルという言葉は既に相応しくない。多少の時間のズレを許せば翌日の天気は99%以上あたっているのではないだろうか。観測機器や分析手法の進歩のおかげと思うが非常に精度が高い。おまけに風の強さから方向までビジュアルに示してくれる。天候の予測で長期のものと言えば地球温暖化に関するものだろう。備えという意味では大いに役立つ。短いほうでは今から何時間後はどうなるという予測はあまり聞かない。予測しても使い道がないのか。太陽光発電についてはこの予測、特に日射の予測は大変重要である。数時間後の日射が予測できたら電源の制御は格段に容易になる。補完電源のスタンバイしかり、太陽光発電の最適運転、例えばインバータとの最適組み合わせ運転、日射不足地域へのローカル送電制御など様々な効率的な工夫が可能である。最近の天気予報は風の流れまで予測している。風力発電に役立つかというとそこまでは行っていない。地形や周辺構造物などで大いに変化するためスポット的予測は難しい。日射は広範囲で時間的に蓋然性が高く時間予測は風より容易だろう。
天気予報の精度が上がるにつれて失われるものもある。江戸時代なら若い豆腐屋の夫婦が一日の商いを終わり両国橋の向こうに沈む夕陽を眺めて明日も晴れそうだ頑張ろうなどと言った情緒はもうない。おい、トミ(奥さんの名前)天気予報だと明日は雨風が強くなると言っているぜ。客足は減るだろうから明日の仕込みは少し減らそうぜ、てな具合になり科学的経営手段の一部と化す。春の嵐が過ぎた後、まあ少なめにしたけど全部売り切れてよかったねえお前さん、明日は晴れてまた沢山売れますように橋の向こうのお天とさんに手を合わせておきますよと言うと風情はあるが、馬鹿言うな予報で晴れと言ってるぜ、お前が手を合わせるよりよっぽど良く当たるんだからと科学となってしまう。近いうちに明日の天気を詠む歌は殆ど無くなってしまうだろう。
人生予報が可能になったらどうだろう。生命保険業界は衰退し、ケガや病気といった不慮の災難に備えた傷害保険は生き残る。しかし何となく何かを失うような気もする。明日をも知れない人生だから生きる価値があって、終末までかなりの精度で予測できたらたまったもんではない。良い大学に入って大手企業に就職し、できれば可愛い嫁さんを貰って、あわよくば国家公務員試験にパスして高級官僚になり、政治家を目指してなどというものが如何に甲斐なき努力かが分かってしまう。そう、人生の明日は無駄な努力によって作られる。この無駄な努力こそ時代を動かす原動力となる。