パオと高床

あこがれの移動と定住

『平成音楽史』片山杜秀・山崎浩太郎(ARTES 2019年4月30日)

2019-06-15 09:17:51 | Weblog

音楽評論、社会思想史、社会批評を展開する片山杜秀と「演奏史譚」を専門とする音楽評論家山崎浩太郎が、
平成クラシックを語りつくす。

語る、とにかく、語る。音楽の話から社会評、時代相まで話は面白く転がる。

この本のもとは、衛星デジタル音楽放送「ミュージックバード」の「ザ・クラシック」で2018年に放送された
4時間番組「夏休み自由研究〜平成音楽史」であると書かれている。なるほど、このライブ感は当然のことだ。
書かれているように、平成はCDの圧倒的な普及とバブル景気による音楽ホールの充実、それから音楽関係本の
増加などがあった。
そして、あとがき「おわりに—群雄割拠の音楽史を振り返って」で、山崎が書くように、
「堅苦しい〈教養〉の重しがはずれ、マニアックに面白がることが当たり前になった時代」で、
平成前半はまだ、SNSなどの経由ではなくレコード店の在庫が増え、店での出会いがあった時代だった。そして、
「カラヤンという〈帝王〉なきあと、古今東西さまざまな音楽と演奏家が群雄割拠していく時代だった」と書き、
彼はそんな音楽状況を「分裂しているほうが面白いと思っている」として、片山と縦横に語る。

音楽についての話ももちろん面白いが、佐村河内問題などを語りながら、むしろ「ハッタリ・キッチュ・まがい
もの」が市民権を持ち、価値観を獲得しているという文化社会状況に話が及ぶなどの広がりも楽しい。さらに、
現在の表現はキッチュさとは切り離せないことを、マーラーの登場当時の状況も絡めて語られると、なるほどと
思う。

アメリカグローバリズムに対抗するようにヨーロッパから古楽、ピリオド楽器のムーブメントが起こってきたと
いう分析もそうかそうかと合点がいく。

1989年という平成の始まりのエポックに始まり、そうだ、カラヤンの死はその年の7月なのだ、
東京オリンピックへの言及で終わる平成音楽史。
オリンピックへの時代の空気の中に漂う、ポピュリズムと繰り返される歴史への危惧で結ばれる。

小澤征爾に対する、片山の、小澤は「戦後日本の最高傑作」ということばは、そうかもと思えた。彼は、小澤は
「バーンスタイン先生、カラヤン先生、ミュンシュ先生、齋藤先生とか言いますが、ふつうありえな
いでしょう。水と油の人たちですよ、凡人からすれば。この組み合わせが矛盾しないところに、小澤の超越性が
ある。(略)良いとこどりというのではなく、みんな融合させられちゃう。」と語る。
そして、話は「ある種、日本人のなんでもありみたいなところを、ラディカルに突き詰めた人。なんでもありの
アヴァンギャルドみたいな—それが小澤征爾なんじゃないですかね」となり、さらに、
「私は小澤征爾を五族協和になぞらえて論じたのですが、(略)もしかすると、父の小澤開作が満州で実現でき
なかったことを息子が音楽で実現しているのかもしれません」と展開する。
音楽は国境を越えるというけれど、小澤の平和への願いを込めた活動などを考えるとこの話の広がり方は妙に納
得する。

平成というくくりに対する山崎のあとがきの記述も面白かった。西暦では10年刻み、長いスパンだと50年刻みに
なりがちだが、30年という刻みが長めのくくりで考えるのにいいものだと書いている。
「平成は全体で考えたとき、バブル崩壊後、冷戦終結後の〈現代〉を、30年間という流れでみるのに適している。
10年というスパンだと、変化を断絶ととらえてしまいやすくなる。30年のスパンは、天秤がゆれながら、行きつ
戻りつしながら、私たち人間が生き続けていることを考えるのに便利だと、私は思っている。」
令和という新元号になって、去年から4月までのおびただしい平成話が、何だか、もうすでに今さらみたいな感じ
になってきているが、そんなときこそ、その連続と断絶に思いがいく。

でも、それにしても、音楽評論は財力がないと難しいのかなと思った。
コメント
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